終末期古墳完成形の一基
この古墳、築造時期は7C中頃(広瀬和雄さんの定義では7C初めから終末期古墳)と考えられています。とすると大和の地では、血塗られた惨事、権勢をふるっていた豪族蘇我入鹿が中大兄皇子らに暗殺され、父蝦夷も自殺に追い込まれた乙巳の変(いっしのへん)の頃になります。かなり大きな方墳で、刳抜式家形石棺の下部四角は、格狭間(こうざま)と呼ばれる加工技術を用いているそうで、仏教の影響がみられるとの指摘もあります。 方墳、仏教というと単純な発想ですが被葬者が蘇我系ではないかと考えてしまいます。蘇我の馬子の墓といわれる石舞台古墳も巨大な方墳でした。
2回目の訪問となった今回の動画では羨道側壁の玄室の狭さの様子、羨道側壁の截石(きりいし)切組積みといわれる平滑された中型の石材を強度を強めるためでしょうか互いに食い込ませるようにして積んでいる様子などに焦点を合わせてみました。そして、最後に開口部前の前庭部に転がっていたかなり大きな加工積みの板石の様子も映してみました。どうやら後世、羨道開口部付近に落下して埋もれていた天井石を閉塞用に転用したようなのです(宝塔山古墳石室調査概報、前橋市教育委員会、1968年3月)。明日香村の岩屋山古墳(クリック)に負けず劣らず、東国の古墳石室にみる技術力の高さにも要注目です(撮影2020年4月9日)。なお1度目の訪問の際の動画はこちらです。





