落ちた天井石の間から青空がのぞく羨道を越えれば
きっちりとした玄室が!
竜田川が流れる盆地を挟み、東西の山麓には数多くの後期古墳が築かれています(下図参照)。ここで紹介した、西宮古墳(クリック)、烏土塚古墳(クリック)、柿塚古墳(クリック)も見えます。壮観ですね。町名の由来でもある、この地域を支配していた豪族平群氏のお墓と考えられています。とりわけ、今回の春日神社裏に築かれた宮裏山古墳に行く途中、動画冒頭の春日神社のお社の左手(西側)には、横穴式石室では初期のドーム型天井が残されている宮山塚古墳(クリック)があります。北九州で5C中頃に始まった横穴式石室は、その後、畿内方向に広がりを見せますが、かなり早い段階で、その新しい埋葬施設がここに見られるというのは興味深いことです。 それらの古墳の被葬者はいったい誰だったのか。どうやらこの地で、5C後半から7C後半にかけてこの地で権勢を振るっていた平群氏一族ではないかと考えられています。彼らはヤマト王権の有力なメンバーであり、日本書紀、古事記にはそのルーツを含め記述が見られるようですが、私は全くの素人。関心のある方は関連書物等とご覧ください。
宮裏山古墳の途中にある宮山塚古墳は前述のように、当時としては先進的な横穴式石室を採用しており、それを完成させることのできる高度な技術力を有した工人を手配できる豪族は平群氏以外考えられないと思われます。
肝心の宮裏山古墳に戻ります。古墳にワクワクでは、羨道も玄室も完存する古墳、半分ほど残る羨道と完存する古墳、玄室だけ残る古墳など、さまざまな現在の姿の古墳を紹介してきました。今回の宮裏山古墳、敢えていえば、半分ほど残る羨道と完存する古墳になるのでしょうか。ただ、リニューアル版を作成していて改めて思ったのですが、羨道が不思議な形で残されています。長さ4.4mの羨道の途中で天井石が石室内に斜めに落下しているのです。明り取りの役割を果たしている一方、天井石の上に積もった土砂で行く手は塞がれます。ただ、そこを乗り越えれば、超がつくほど楽で、奥壁も羨道からよく見えます。史跡指定はされていません。宮裏山古墳の詳細な説明は、最初にアップした際のブログをご覧ください。こちらです(クリック)(撮影2018年3月初旬)。




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竜田川が流れる盆地を挟み、東西の山麓には数多くの後期古墳が築かれています(下図参照)。ここで紹介した、西宮古墳(クリック)、烏土塚古墳(クリック)、柿塚古墳(クリック)も見えます。壮観ですね。町名の由来でもある、この地域を支配していた豪族平群氏のお墓と考えられています。とりわけ、今回の春日神社裏に築かれた宮裏山古墳に行く途中、動画冒頭の春日神社のお社の左手(西側)には、横穴式石室では初期のドーム型天井が残されている宮山塚古墳(クリック)があります。北九州で5C中頃に始まった横穴式石室は、その後、畿内方向に広がりを見せますが、かなり早い段階で、その新しい埋葬施設がここに見られるというのは興味深いことです。 それらの古墳の被葬者はいったい誰だったのか。どうやらこの地で、5C後半から7C後半にかけてこの地で権勢を振るっていた平群氏一族ではないかと考えられています。彼らはヤマト王権の有力なメンバーであり、日本書紀、古事記にはそのルーツを含め記述が見られるようですが、私は全くの素人。関心のある方は関連書物等とご覧ください。
宮裏山古墳の途中にある宮山塚古墳は前述のように、当時としては先進的な横穴式石室を採用しており、それを完成させることのできる高度な技術力を有した工人を手配できる豪族は平群氏以外考えられないと思われます。
肝心の宮裏山古墳に戻ります。古墳にワクワクでは、羨道も玄室も完存する古墳、半分ほど残る羨道と完存する古墳、玄室だけ残る古墳など、さまざまな現在の姿の古墳を紹介してきました。今回の宮裏山古墳、敢えていえば、半分ほど残る羨道と完存する古墳になるのでしょうか。ただ、リニューアル版を作成していて改めて思ったのですが、羨道が不思議な形で残されています。長さ4.4mの羨道の途中で天井石が石室内に斜めに落下しているのです。明り取りの役割を果たしている一方、天井石の上に積もった土砂で行く手は塞がれます。ただ、そこを乗り越えれば、超がつくほど楽で、奥壁も羨道からよく見えます。史跡指定はされていません。宮裏山古墳の詳細な説明は、最初にアップした際のブログをご覧ください。こちらです(クリック)(撮影2018年3月初旬)。




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