こんなのアリ?電車に押しつぶされることなく残る整美な横穴式石室!
意外に簡単にそれらしきところを見つけることはできたのですが、先輩諸氏のブログの光景とは違って古墳の周りに囲いがありません(2026年1月中旬)。遠目には、ゴミを捨てる穴が開いているぐらいにしか見えない(失礼)のです。近寄ってみると、玄室寄りの羨道天井部分が開いていることがわかりました。しかも思ったよりも大きな穴です。楽勝です。ドキドキしながら潜ってみれば横穴式石室の玄室が見えてきました。な、なんと整美な切石加工の玄室でしょう。うーん。うなりました。 そして二つ目の驚き。カメラをとりに外へ戻ると、近鉄線の車両が、大きな音を立てて通り過ぎていくではありませんか。古墳の上に線路が通っていることは知っていましたが、なんとタイミングのよいことか。
これは奇跡的です。なぜ、こんなところに切石加工の横穴式石室が残っているんでしょうね。もちろん、鉄道が出来たのはずっと後のこと。近鉄南大阪線が開通したのは1929年(昭和4年)。偶然、世界恐慌が襲った年にあたります。日本では国土開発が進んでいた頃のことです。それでも、この古墳を破壊せずに石室を残すことができたのは、所有者の方や近鉄はじめ関係者の知恵なんでしょうね。どうやら、線路を敷設した段階で墳丘は削られていて、石室の上を通しても壊れることはないとの判断だったようです。それに地図を見ても、古墳を迂回して線路を通す余地がなかったことがわかります。
肝心の石室、現状の規模は、玄室 長さ4.66メートル、幅2.40メートル、高さ2.01メートル、羨道 長さ2.00メートル、幅1.90メートル、高さ1.08メートルとされています。羨道の手前は埋没しており、その部分を含めると全体で約14mの石室と考えられています。残念ながら副葬品は確認されておらず、他方、墳丘の形は径30m ほどの円墳、一辺約30mの方墳とみられています。造られた時期は7C後半から末の、古墳時代末期と想定されています。 これだけ立派な石室ですから、築造時には相当高位にある人物が埋葬されに違いありません。そう思って調べてみたら、蘇我氏滅亡のきっかけとなった乙巴の変(645)後に、皇極天皇から譲位されて天皇となった軽皇子、つまり孝徳天皇の真陵ではないかとの説があるようです。時期的にも合うようです(撮影2025年12月中旬)。


意外に簡単にそれらしきところを見つけることはできたのですが、先輩諸氏のブログの光景とは違って古墳の周りに囲いがありません(2026年1月中旬)。遠目には、ゴミを捨てる穴が開いているぐらいにしか見えない(失礼)のです。近寄ってみると、玄室寄りの羨道天井部分が開いていることがわかりました。しかも思ったよりも大きな穴です。楽勝です。ドキドキしながら潜ってみれば横穴式石室の玄室が見えてきました。な、なんと整美な切石加工の玄室でしょう。うーん。うなりました。 そして二つ目の驚き。カメラをとりに外へ戻ると、近鉄線の車両が、大きな音を立てて通り過ぎていくではありませんか。古墳の上に線路が通っていることは知っていましたが、なんとタイミングのよいことか。
これは奇跡的です。なぜ、こんなところに切石加工の横穴式石室が残っているんでしょうね。もちろん、鉄道が出来たのはずっと後のこと。近鉄南大阪線が開通したのは1929年(昭和4年)。偶然、世界恐慌が襲った年にあたります。日本では国土開発が進んでいた頃のことです。それでも、この古墳を破壊せずに石室を残すことができたのは、所有者の方や近鉄はじめ関係者の知恵なんでしょうね。どうやら、線路を敷設した段階で墳丘は削られていて、石室の上を通しても壊れることはないとの判断だったようです。それに地図を見ても、古墳を迂回して線路を通す余地がなかったことがわかります。
肝心の石室、現状の規模は、玄室 長さ4.66メートル、幅2.40メートル、高さ2.01メートル、羨道 長さ2.00メートル、幅1.90メートル、高さ1.08メートルとされています。羨道の手前は埋没しており、その部分を含めると全体で約14mの石室と考えられています。残念ながら副葬品は確認されておらず、他方、墳丘の形は径30m ほどの円墳、一辺約30mの方墳とみられています。造られた時期は7C後半から末の、古墳時代末期と想定されています。 これだけ立派な石室ですから、築造時には相当高位にある人物が埋葬されに違いありません。そう思って調べてみたら、蘇我氏滅亡のきっかけとなった乙巴の変(645)後に、皇極天皇から譲位されて天皇となった軽皇子、つまり孝徳天皇の真陵ではないかとの説があるようです。時期的にも合うようです(撮影2025年12月中旬)。










