古墳を動画で見るサイト guami_38_36のblog

なんでも実際に見てみないと気が済まない私。古代史初学者として3世紀中頃から7世紀初頭にかけて東北から九州まで造られた5200基もの古墳の内、墳丘が残り実際に墳頂まで登れるものを訪ねはじめました。2011年秋のことです。既に先輩方が古墳のブログやHPを立ち上げられて今でも大いに刺激を受けています。ただ、権力者がなぜこれほど大きな構築物を造ったのかに興味がある私には、残念なことに大半の画像が静止画であるためにそのスケール感が伝わってきませんでした。偶然、動画で撮ってみたら案外いける。そんな思いで撮りためた古墳動画を見て頂くことにしました。素人の撮影ですから、古墳マニアや専門家の方々からは厳しいご指摘はあるかと思います。ブログでは基本情報とともに一つの古墳に3-5本程度の動画(各1分以下)を用意しました。この素人の試みが古墳を具体的にイメージする一助となれば幸いです。

■古墳時代の時期区分
 このブログでは古墳時代を広瀬和雄さん(国立歴史民俗博物館名誉教授)が通説として紹介している古墳時代を前期(3C中頃から4C後半頃)、中期(4C末頃から5C後半頃)、後期(5C末頃から7C初め頃)、終末期(7C前半頃から8C初め頃)に区分して捉えています(前方後円墳の時代、岩波新書、2010年)。
■アップの順番
 前期⇒中期⇒後期(終末期)の古墳を一基ずつワンセットにして全国の古墳を網羅することを目指しています。三基の古墳には何ら有機的な関係はありません。一つの地域に集中して前期から終末期まで掘り下げて見るのが一般的ですが、敢えてそうしなかったのは古墳時代の前期、中期、後期に全国でどのような墳墓が築かれたかを知りたいと思ったからです。古墳の築造年代は専門家の間でも様々な意見があり実年代を確定することが如何に困難なことかは承知しています。そのような限界の下でも古墳を横断的にみると今まで見えてこなかったものが見えてきたような気がします。専門分野外の古墳時代に関心を持ちはじめて日も浅い者ならではの冒険です。
■ご覧になる方法
最新記事9件についてはそのまま下にスクロールすれば見れます。各都府県別古墳は右の一覧をクリックしてください。文中にも関連の古墳に直接飛べるようにリンクを貼ってあります。

タグ:Tumulus

  神門5号墳と同じ頃に造られた出現期の古墳、神奈川県海老名市にある秋葉山3号墳(2号墳メイン)は既に紹介していますが、残念なことに前方部が完全に失われ、現在は円墳のようにみえます(クリックすれば飛べます)。その点、秋葉山3号墳よりも少し前に造られた神門(ごうど)5号墳はだいぶ削られた印象はありますが短い前方部も確認できます。住宅地に囲まれているためにこの古墳の特徴である幅の狭い周濠は北側に関しては生活道路に化しています。それでも1700年以上も前の構築物がこうして現在の住宅と共存して残されていることに感心します。墳頂にあった埋葬施設からは剣、ガラス玉、鉄鏃が出土しているそうです。

5号墳ということからもおわかりのようにいくつかの古墳が神門古墳群として確認されています。調査が行われた3号墳、4号墳はいずれも5号墳とほぼ同じ規模の出現期の前方後円墳でしたが現在では開発のために消滅しています。興味深いのは3基から出土した土器です。現地説明板によればこの地区(国分寺台)の中台、天神台等多くの遺跡からは近畿、北陸、東海、北関東などの特徴をもった土器が出土しており、移住や地域間の交流が盛んであったことがわかるとしています。三基はいわば地域統合の象徴として造られたということになります。

交流が盛んであったことは古墳の50m東に今でも残る雷伝池がありその向こうは東京湾だったことからもわかります(現在は埋め立てられ海岸までは凡そ5㎞)が、3Cにはるか遠い近畿や東海地方と想像以上に往来があったようです。海路を用いたとして、7Cから9Cにかけての遣唐使船が無事に倭と唐を往来できる確率は高くはなかった(所説あるようですが高いほうで8割)とされていますから、それよりはるか以前の3Cの航海成功の確率はいかほどのものであっただろうかと考えてしまいます。それでも交流の証明としての各地域の土器が残されているのですから驚きです。

古墳を離れてしまいましたが出現期の奈良県桜井市の纏向出現期の古墳を3回にわたり紹介しています。神門5号墳が造られていた頃、畿内の中心ではホケノ山(纏向出現期古墳1)、纏向石塚(纏向出現期古墳2)、勝山古墳他(纏向出現期古墳3)などが姿を現していました(クリックすれば飛べます)。比較してご覧ください。アクセスはJR内房線五井駅東口からアリオ市原・市原市役所経由国分寺台行きでバス停市原市役所で下車。信号を南西方向に300mほど歩き、次の信号を過ぎて200mほど、ローストハウス焙煎の店を左折し200mほどの左手にみえます(撮影日201622日)。

PNG goudo5goufun zu



神門5号墳 基本データ

所在地 千葉県市川市惣社

形状 前方後円型墳丘墓(出現期前方後円墳)

規模 墳長42.6m 後円部径30m32.5m 高さ5m、前方部幅13m 高さ不明

築造時期 3C

出土品 ガラス玉、剣、鉄鏃

史跡指定 県指定

特記事項 神門3号と4号墳が同様の形態の墳丘墓だったことがわかっているが
開発のため削平



にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

  栃木県壬生町の牛塚古墳(クリックすれば飛べます)と巨大円墳丸塚古墳(いずれアップします)を見学した後、両古墳の間の道を500mほど南下すると(一つ信号があります)、結構大きな敷地をもつ地元企業が左手にあり、目指す壬生愛宕塚古墳はその真裏にありました。こんもりした森が目印です。

 雑木林に一歩足を踏み入れるとそこは動画1のような異空間が広がっていました。個人的に雑木林が好きなので思わず嬉しさのあまり息を飲みました。静謐の一言です。周濠を囲むようにぐるっと回る周堤が墳長80mに欠ける前方後円墳の墳丘をより大きく見せています。東国の後期古墳の多くに採用されている段築の一段目が広いのです。どこかで見た古墳に似ています。そうです。群馬県大室古墳群の中二子古墳です(クリックすれば飛べます)。周堤、周濠、それに幅広の広い段築一段目のテラス。墳長111mと一回り大きい中二子古墳と壬生愛宕塚古墳、是非、比較してご覧ください。中二子古墳の周堤には復元された円筒埴輪が立ち並んでいましたが、壬生愛宕塚古墳も周堤、テラスに数多くの円筒埴輪や人物埴輪がみられたそうです(訪問後の2017年夏に周堤、周濠の調査が行われましたが、今回の記述を大きく変える結果はなかったようです)。築造時期は畿内では前方後円墳の築造が下火になりつつある頃の6C後半で、東国ではまだまだ相当規模の前方後円墳が造られます。なお、今回の壬生愛宕塚は三基の中では最も早く、次に牛塚、そして最後に超大型の円墳、車塚古墳が造られます。

 墳丘自身は前方部が極端に発達した典型的な後期古墳ですが、本来ならば後円部にありそうな愛宕神社社殿がなんと前方部にあります。後円部では十分な敷地が確保できなかったからではないでしょうか。神社は元禄7年(1694年)壬生藩主だった松平輝貞が壬生城の魔除けとして建立したと伝えられています。壬生城址には壬生町の歴史民俗資料館があり、牛塚、車塚、愛宕塚古墳などの道順の確認や資料入手に便利です。月曜休館です。壬生駅まで東武宇都宮線で行き、北東方向1㎞にある歴史民俗資料館にまず寄るというのがベストでしょう。

PNG mibuatagozuka zu shuuseiban






壬生愛宕塚古墳基本データ

所在地 栃木県壬生町

形状 前方後円墳

規模 墳長77m 後円部径 34m 高さ5.5m、前方部幅46m 高さ5.5m

築造時期 6C

出土品 円筒、盾持ち人埴輪

史跡指定 国指定

特記事項 牛塚、車塚古墳とセットでまわるのがお勧めです



にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

能美市の歴史民俗資料館の東側の尾根に広がる和田山古墳群(小型の円墳)は比較的こぶりの円墳が連なります。やはり二度目は勝手が違います。どこに何があるか大凡の見当がつきます。そう静止画像しか前回は撮らなかったので再訪なのです。ところが生憎の春の雨。花時雨(はなしぐれ)というのでしょうか。それもあってか人には出会わず、春の終わりを独り占めしました。

1号墳から12号墳まで連なっているので5号墳は丁度真ん中あたりにありそうですが、尾根を降り切ったところの独立した丘陵頂上にあるのです。如何にも他の古墳を従えているといいった印象をもちます。5号墳が和田山古墳群では唯一の前方後円墳で規模も56mと比較的大きめなこともそうした見方を裏付けるような気がします。そして何より出土した副葬品の大半が武具だったことに驚かされます。動画4に見る短甲をはじめ槍、鉄刀、鉄剣、鉄槍、鉄鉾、矢束等が二つの粘土郭の埋葬施設から出土しています。現地の説明板によれば、現在までこれほど豊富に武具等が埋葬されていた例は日本海側では和田山5号墳だけだそうです。5C中頃、軍事部門を担当していた豪族で、朝鮮半島への出兵にも功があったのかもしれません。

再訪してよかったと思ったのは、前方部が異常に発達していて中期の一般的な前方部の発達ぶりをはるかにしのいでいる点が、草に覆われた夏ではよくわからなかったのです。今回、それがはっきりと目に飛び込んできました。独立丘陵の頂上という敷地の制約も後円部面積を十分にとれなかった理由かもしれません。

能美古墳群では既に秋常山1号墳秋常山2号墳を紹介しています(古墳名をクリックすれば飛べます)。道を隔てた徒歩で10分ほどのところにあります。是非、比較してご覧ください。秋常山のほうが早く築かれたと考えらているようですが、だとすれば両者はどのような関係にあったのでしょう。そうしたことに思いを馳せるのも楽しいですね。アクセスはJR小松駅から寺井史跡公園行き小松バスで30分ほど。昼間に5-6本、あります。バス停前に消防署があり、その裏に能美市歴史民俗資料館があります。パンフレットなどが入手できます。和田山古墳群はその東側にあります(撮影2017年4月12日)
PNG wadayama 5
PNG nomikofungun zentai zu



和田山5号墳基本データ

所在地 石川県能美市

形状 前方後円墳

規模 墳長56m 後円部径29m 高さ5m、前方部幅47m 高さ4m

周濠なし

築造時期 5C

出土品 三角板鋲留短甲、鉄刀、鉄剣、鉄槍、鉄鉾、矢束等武具多数 埴輪なし

史跡指定 能美古墳群として国指定

特記事項 秋常山古墳群とトータルで観察の必要



にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

宮崎県西都市にある国の特別史跡西都原古墳群の三回目です。一回目は前期古墳の35号墳と13号墳(古墳名をクリックすれば飛べます)を紹介しましたが二回目は群中最大規模の前方後円墳陵墓参考地の女狭穂塚、男狭穂塚古墳の陪塚と考えられている円墳169号墳でした(クリックすれば飛べます)。今回は206号墳に指定されている鬼の窟(いわや)古墳です。

 動画3の遠景でおわかりのように周囲の堤のせいでしょうかまるで要塞のように見えます。円墳の高さは7.3m、径は36.4m×33.6mとややいびつです。動画キャプションはアバウト表記です。北郷泰道さんの『西都原古墳群』(同成社、2005年)によれば二重目の周濠がめぐり、内堀から外堀に向けた排水施設が確認されています。その部分に表示があるのに気が付きました。副葬品は盗掘のためかほとんど残されていなかったようで石室からは馬具の破片や釘および、須恵器、土師器が出土しているだけのようです。玄室は羨道より幅の広い両袖型ですが(動画2の最後で紹介)、石室内の照明が大きすぎて、この石室の特徴が

わかりずらくなっています。

 円墳を囲む周濠の外側にさらに周る堤。実に印象的です。これまで数多くの円墳を紹介してきましたが、こうした光景に出会ったことはありません。動画3で多少映っていますが、黄金色の菜の花とのバランスが絶妙です。西都原古墳群を紹介するときに必ずといってよいほど使われる理由がよくわかります。他の地域であれば円墳の周囲には建物が立ち並び

眺望を妨げますが、さすが特別史跡です。西都原古墳群見学にはアクセスは宮交シティから一日2本出ている西都原考古博物館直行バス(復路も2本)を利用するのが便利です。1時間15分かかります(撮影日2017323日)。
PNG oninoiwaya kofun zu






鬼の窟(いわや)古墳(169号墳)西都原古墳群(3)基本データ

所在地 宮崎県西都市

形状 円墳 二段築成 二重の周濠、周堤

規模 径36.4m×33.6m、高さ7.3m

築造時期 6C

出土品 石室内から馬具片、棺釘、須恵器・土師器

史跡指定 国の特別史跡

特記事項 現在まで西都原古墳群中 唯一の横穴石室



にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

名古屋市の中心熱田神宮には愛知県で最大墳長を誇る151mの前方後円墳断夫山古墳があります。しかし6C後半の築造の後期古墳。前期古墳ではそこから北東方向に30㎞ほど行った標高198mの東谷山(とうごくさん)の麓に墳長115mの白鳥塚古墳があります。(犬山市に墳長123mの前期古墳青塚古墳があるので白鳥塚は県下では第二位の大きさ)。

 東谷山麓には数多くの古墳が築かれ、白鳥塚古墳はじめ山頂の尾張戸(おわりべ)神社古墳、中社古墳、南社古墳、志段味(しだみ)大塚古墳、勝手塚古墳、東谷山白鳥古墳などが国の史跡に指定され地名を冠し志段味古墳群と呼ばれています。それにしても地名をどう読むか戸惑うことが多いですね。

 目指す白鳥塚古墳はJR高倉寺駅からさほど遠くないところにありました。南下し庄内川を渡ると愛知県立大学の守山キャンパスの校舎が見え、道を挟んだところに古墳公園として整備されています。すぐ気が付いたのは(動画1)前方部の高さが後円部のそれよりもずっと低いことでした。前方部の幅も後円部径よりもぐんと狭く後円部径75mに対して40mしかありません。前期古墳だなとすぐにわかります。

後円部に登ってみると埋葬施設が図示されているのかと勘違いした石英の石片が円形状に並べられていました。埋葬施設がないわけはないと思うのですが発掘調査が近年は行われていないのでよくわからないそうです。とはいえ白鳥の名は墳頂が石英の小礫で覆われたからともいわれています。墳頂以外の墳丘全体は川原石で覆われていたようでかなり葺石は残っていますし、くびれ近くの部分は動画2にあるように復元され、全体をイメージするのに役立ちます。

 白鳥塚こふんと同様に4C央から後半の築造と考えられているこれまでアップした古墳をいくつか紹介しておきます。佐賀県の金立銚子塚古墳(以下、いずれも古墳名をクリックすれば飛べます)、岐阜県の昼飯大塚古墳、山梨県の甲斐銚子塚古墳、山形県稲荷森古墳などがあげられます。いずれも墳長100mを越えるかやや欠ける規模のもので大型といってよいと思います。比較してご覧ください。アクセスは冒頭に記したとおりです(撮影2017314日)。

PNG shiratorizuka aichi zu




 

白鳥塚古墳基本データ

所在地 愛知県名古屋市守山区

形状 前方後円墳

規模 墳長115m、後円部径75m高さ約15.2m(北)12.6m、前方部幅40m 高さ6.7m(北)5m(南) 後円部三段、前方部二段 葺石あり

築造時期 4C

出土品 不明

史跡指定 国指定

特記事項 なし



にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

JR山陽本線の御着(ごちゃく)駅から徒歩で10分ほどのところ目指す古墳はありました。駅の北東方向にある引っ切り無しに車が行き来する国道を越えたすぐそこです。あれっと思うぐらいひっそりと静まり返った緑のなかに墳長143mもの前方後円墳が横たわっていました。墳長100mを超える前方後円墳は全国で302基を数えますが、消滅していたり原形をとどめないほどに破壊されているものもあり、外形をよく留め墳丘に登れるこの古墳は大変に貴重です。

墳丘は動画1でお分かりのように中期以降の前方後円墳によくみられる前方部幅が後円部径よりも大きい寸胴な形をしています。西側に造出しがあり10mから20mほどの幅の周濠が巡っています。まだアップしていませんが大阪府藤井寺市の古市古墳群の一基、仲ツ山古墳の墳形(応神天皇の妃仲津姫陵として治定)の二分の一の相似形であるところから、ヤマト王権との親密さがうかがえるそうです(現地説明版)。周濠と墳丘の間に三か所ある渡り土手がアクセントになっていてなかなかの風情なのですが、姫路市埋蔵文化財センターの話では後世に造られたものだということで少々残念な気分でした。

 この古墳で他の古墳では見られない特色の一つは後円部に長持型石棺の蓋の部分が露出していることです。動画1でご覧になれます。長持型石棺は中期古墳によく見られる長持に似た組合せ式の石棺で大王や地方では最有力首長の埋葬に使われたそうです。ここからも壇場山古墳の被葬者のヤマト王権との近さがうかがえます。その石棺は竪穴式の石室に埋納する場合と土坑に直接埋める場合があったようで、壇場山の場合は後者のために蓋石を幸いにもみることができるというわけです。石材は山陽新幹線西明石駅を過ぎてほどなくして右手に石切り場が見える凝灰岩の竜山石(たつやまいし)ですが、被葬者は竜山石を産出する地域(現兵庫県高砂市)を支配していたのでしょうか。

動画2でおわかりのように周囲にマンションは建っていますが壇場山古墳の雄姿を遮るほどのこともありません。動画4ではいくつかある陪塚から、主墳と同様の長持型石棺が露出する一辺60mほどの方墳 山之越古墳を紹介しています。墳丘の半分ほどが削られ無残な姿ですが、墳頂から壇場山古墳がよく見え、両者の関係を思い浮かべることができます。

アクセスは冒頭に書いたとおり駅前の道を北に歩き国道2号線を渡るとほどなく住宅街に入り左側を注意して歩くと案内板があります(撮影201646日)。PNG danjyouzan zu



壇場山古墳基本データ

所在地 兵庫県姫路市御野国町

形状 前方後円墳 方墳(陪塚 山之越古墳)

規模 墳長143m、後円部径83m 高さ11.4m、前方部幅87m 高さ11.4m  三段築成、葺石、周濠あり 陪塚 山之越古墳(方墳、一辺60m、高さ7m、周濠あり)

築造時期 5C前 陪塚 山之越古墳(5C央)

出土品 円筒埴輪、家形、盾型等形象埴輪、鉄鏃、刀剣等、陪塚 山之越古墳(円筒埴輪、銅鏡、玉類、刀剣類)

史跡指定 国指定

特記事項 なし


にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

  琵琶湖の南端、膳所から1㎞ほどの丘陵に築かれた前方後円墳 膳所社臼山古墳を訪れるのは二度目です。古墳踏査をはじめて間もないころに訪問した際には基礎的な知識も十分でなかったこともあり雑木が鬱蒼と立ち並ぶ墳丘はただの山にしか見えませんでした。しかも調べてみると古墳が築かれた丘陵先端は標高145mもあり、公園入口からは結構な登坂が続き、折角歩いたのにと苦い思いで古墳を後にした記憶があります。

再訪した201510月中旬も緑濃い状況は変わりませんでしたが、多少知識も増えたせいでしょうか、墳丘はよく残っているとの説明板どおり確認できた気がします。動画2のくびれから前方部に向かうところでは墳丘の高まりがよくわかりますし、動画1の後円部に登った先には壬申の乱の敗者、大友皇子及びお供の者を供養する小さな祠がまつられています。二か所の階段から登ることのできる墳丘には本来葺石が葺かれていたことがわかっています。木々がなければ琵琶湖をのぞむことができたでしょうし、湖からもキラキラ光る葺石に覆われた丘陵先端の古墳が見えたはずです。

肝心の墳長はじめ基本データは現地案内板の数字と近藤義郎他編 前方後円墳集成(山川出版社、1992年)ではかなり異なります。集成のほうが新しい調査を基にしているのでこちらを採用しています。前方部の高さは後円部より3m低い5m、前方部の幅も後円部径60mよりずっと狭い40m、動画撮影位置の図でわかるように墳丘は柄鏡形と典型的な前期前方後円墳の様相を呈しています。アクセスはJR膳所駅下車。東海道線に並行して走る国道1号線を1㎞ほど南下し秋葉台の信号を右折するとすぐに茶臼山公園の入り口があります(撮影20151013日)。
PNG zezechausuyama zu 修正版






膳所茶臼山基本データ

所在地 滋賀県大津市膳所平生町秋葉台

形状 前方後円墳

規模 墳長120m、後円部径60m 高さ8m、前方部幅30m 高さ5m

葺石あり

築造時期 4C

出土品 円筒埴輪

史跡指定 県指定

特記事項 後円部頂に壬申の乱で敗れた大友皇子らを祀る祠がある



にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

  今回紹介するのは島根県出雲市、JR山陰本線西出雲から歩いて20分ほどのところにある日蓮宗の古刹 妙蓮寺の裏山にある古墳です。駅の南東に走る県道277号に出て北に1㎞ほど歩き下古志の信号の一つ先を右折すると動画4の冒頭の光景が見えます。墳長49mの前方後円墳は6C中頃に造られたと考えられています。後円部を北に向け前方部がかなり高くなっています。ただ動画4でおわかりのように墳丘の形は初夏ということもあって草におおわれよくわかりません。妙蓮寺山古墳が知られているのはくびれ近くの後円部に開口する横穴石室及び石棺です。

 このブログではかなり多くの横穴石室を紹介していますが今回ほど入室するのに勇気がいったのは初めてでした。薄気味悪いのです。入口には動画1にあるように観音開きになった板石が左右に立ち、その扉石を支えるかのように円柱状の石が転がっています。入らないでくれと言わんばかりです。中は真っ暗で見通しが効きません。雨のせいでぬかるんで足がとられます。ヘッドライトの光線の先にあったのは動画2でご覧になれますがぼんやりと浮かび上がる石棺でした。かなり窮屈な印象です。調べてみると玄室の幅は2.1mしかありません。高さは2.4m、長さは4.4mの玄室に幅1.2m×高さ1.4m×長さ2.2mの石棺が眠っていました。

 これまで紹介してきた出雲市の横穴石室と石棺と比べると、そのバランスは宝塚古墳(クリックすれば飛べます)とよく似ている印象です。同じ横口石棺のある今市大念寺古墳(クリックすれば飛べます)よりははるかに規模が小さく、実際、前方後円墳としての墳長も92mと丁度妙蓮寺山の二倍でした。ただ既に説明したように入口に据えられた観音開き風の二枚の板石と円柱のつっかえ棒のような石際立って目立ちます。どのような意図があったのでしょう。被葬者を葬った後に残された人々の意志だったのでしょうか。興味は尽きませんが出雲市の妙蓮寺山古墳パンフレットには「珍しい構造になっています」としか書かれていません。出土品はかなり多く玄室内からガラス製の丸玉、金銅製の鈴釧、鉄製銀象嵌円頭柄頭、須恵器などが発掘されており、その内容は今市大念寺古墳と類似する点が多く、同古墳に次ぐ有力な首長の墓ではないかと考えられているようです(前述パンフレット)。アクセスは冒頭に書いたようにわかりやすいです。境内に入ったあと墓地を抜ける必要がありますが案内板があるので迷うことはないと思います(撮影2016512日)。



妙蓮寺山古墳基本データ

所在地 島根県出雲市下古志

形状 前方後円墳

規模 墳長49m、後円部径25m 高さ4.5m、前方部幅22m 高さ7.5m

石棺

築造時期 6C

出土品  ガラス製の丸玉、金銅製の鈴釧、鉄製銀象嵌円頭柄頭、辻金具、鉄斧、鉄鏃、須恵器

墳丘から円筒埴輪

史跡指定 県指定

特記事項 横口式石棺 長さ220m 幅1.20m 高さ1.10m(縄掛け突起あるも確認できず)


にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

  百舌鳥古墳群は仁徳天皇陵(大仙古墳)、履中天皇陵(石津ヶ丘古墳)など超大型の古墳が多く、また宮内庁がそれらを天皇陵としているために拝所やビルの谷間に見え隠れする姿を眺めるだけで近づくことすら叶いません。もっとも陵墓指定されていない他の前方後円墳も数多くありますし、円墳、方墳を合わせると100基以上が百舌鳥古墳群を形成していたそうです。現在では44基が残されています。これ以下の記述の事実関係は最近知った久世仁士さんの「百舌鳥古墳群をあるく」(創元社、2014)によっています。単なるガイドブックではなく考古学者としての著者の古墳保存のあり方など共感する部分がかなりありました。

 古市古墳群に比べ墳丘を間近に見ることのできる古墳は百舌鳥古墳群は非常に少ないです。しかも今回ご紹介する旗塚古墳、銭塚古墳、グワショウ坊古墳ともに原形からはかなり遠い形での保存になっています。とはいえ動画1と2に見る旗塚古墳の周囲にめぐる濠越しに見る墳丘は短い前方部と後円部の対比がよくわかります。墳長58m、後円部径42mと中規模の帆立貝型前方後円墳です。ところが動画のキャプションにも書きましたが堺市の都市緑化植物園の実験林として墳丘が用いられてきたために樹木が密生し墳形を確認することはできないのです。しかも墳丘下部は崩落防止のためでしょうか石垣が巡っており、これでは古墳の形をした山にしかみえません。久世さんも指摘されているように旗塚とグワショウ坊の古墳は、古墳名を記した石柱はありますが考古学的な説明板はありません。実に不思議です。旗塚古墳は円筒埴輪に加え朝顔、衣笠のような形象埴輪、そして石見型埴輪と呼ばれる盾形をした埴輪が出土した点で貴重だそうですが、ならばなおさらのこと史跡としての説明が必要です。兵庫県伊丹市の御願塚古墳(クリックすれば飛べます)がほぼ同じの墳長52mですから比較するには適当だと思われます。だいぶ保存状況は異なります。

 グワショウ坊古墳は径62mと百舌鳥古墳群中二番目の大きさですが削られた墳丘上にはうっそうと実験林が広がりとても古墳とは思えません。動画を撮る気力さえ失せてしまいました。様々な歴史的経緯があるのでしょうが残念の一言です。この二つの古墳から道を挟んだ大阪府立堺特別支援学校の校庭にある銭塚古墳は綺麗に整形された墳丘の裾周りをみて一瞬円墳かと思いました。調べてみると元は墳長72.5mの帆立貝型の前方後円墳で現在は学校建設のために前方部は削平されてしまったとのこと。旗塚よりも一回り大きな帆立貝型前方後円墳でありなんとか保存できなかったかと思うばかりです。皆さんはどう思われますか

これまでアップした百舌鳥古墳群は仁徳天皇陵(大仙古墳)、履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)、いたすけ古墳御廟山古墳です。いずれも古墳名をクリックすれば直接飛べます。アクセスはJR阪和線百舌鳥駅下車。仁徳天皇陵とは反対の南西方向に5分ほど歩くと右手に大きな公園が見えます。その中にあります。銭塚は道を挟んだところにみえます(撮影2017220日、2014125日)。
PNG hataduka mozu5 ssakuseichu


旗塚古墳他 基本データ

所在地 大阪府堺市

形状 前方後円墳(帆立貝形)グワショウ坊 円墳、銭塚(帆立貝型形)

規模 墳長58m 後円部径41m 高さ不明、前方部幅25m 高さ不明

グワショウ坊 円墳 径61m 高さ不明、銭塚(帆立貝型前方後円墳)

墳長 72.5m、後円部径54m 高さ不明、前方部幅不明 高さ不明

築造時期 旗塚 5C央、グワショウ坊 5C後、銭塚 5C

史跡指定 百舌鳥古墳群として国指定

特記事項 なし


にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

↑このページのトップヘ