古墳を動画で見るサイト guami_38_36のblog

なんでも実際に見てみないと気が済まない私。古代史初学者として3世紀中頃から7世紀初頭にかけて東北から九州まで造られた5200基もの古墳の内、墳丘が残り実際に墳頂まで登れるものを訪ねはじめました。2011年秋のことです。既に先輩方が古墳のブログやHPを立ち上げられて今でも大いに刺激を受けています。ただ、権力者がなぜこれほど大きな構築物を造ったのかに興味がある私には、残念なことに大半の画像が静止画であるためにそのスケール感が伝わってきませんでした。偶然、動画で撮ってみたら案外いける。そんな思いで撮りためた古墳動画を見て頂くことにしました。素人の撮影ですから、古墳マニアや専門家の方々からは厳しいご指摘はあるかと思います。ブログでは基本情報とともに一つの古墳に3-5本程度の動画(各1分以下)を用意しました。この素人の試みが古墳を具体的にイメージする一助となれば幸いです。

■古墳時代の時期区分
 このブログでは古墳時代を広瀬和雄さん(国立歴史民俗博物館名誉教授)が通説として紹介している古墳時代を前期(3C中頃から4C後半頃)、中期(4C末頃から5C後半頃)、後期(5C末頃から7C初め頃)、終末期(7C前半頃から8C初め頃)に区分して捉えています(前方後円墳の時代、岩波新書、2010年)。
■アップの順番
 前期⇒中期⇒後期(終末期)の古墳を一基ずつワンセットにして全国の古墳を網羅することを目指しています。三基の古墳には何ら有機的な関係はありません。一つの地域に集中して前期から終末期まで掘り下げて見るのが一般的ですが、敢えてそうしなかったのは古墳時代の前期、中期、後期に全国でどのような墳墓が築かれたかを知りたいと思ったからです。古墳の築造年代は専門家の間でも様々な意見があり実年代を確定することが如何に困難なことかは承知しています。そのような限界の下でも古墳を横断的にみると今まで見えてこなかったものが見えてきたような気がします。専門分野外の古墳時代に関心を持ちはじめて日も浅い者ならではの冒険です。
■ご覧になる方法
最新記事12件についてはそのまま下にスクロールすれば見れます。各都府県別古墳は右の一覧をクリックしてください。文中にも関連の古墳に直接飛べるようにリンクを貼ってあります。

タグ:5C前

  丸隈山古墳には古墳踏査をはじめて間もない2014年の春に訪れています。石室とはこのようなものかという程度の感想しか持たなかったのですが、数多くの石室のある古墳を訪ねた今、いくつかの理由で丸隈山が大変貴重な古墳であることに気づかされました。一つは羨道は破壊され玄室しか残されていないものの平らな石を何枚も重ねた小口積みの石室が塗られた赤色顔料(うっすらではあるが)とともに残っていること。二つは箱式石棺が残され、それは仕切りの石板をおいて二人分埋葬できる珍しいものであること。追葬用でしょうか。それとも同時に二人が亡くなったのでしょうか。三つは丸隈山に先立ち築かれた同種の石室をもつ鋤崎古墳(福岡市)が埋め戻されて見学ができないのに対して鉄の格子越しですが間近に見学できることです。市のHPなどで石室内部の画像を公開している例は多数あります。ところが実際に訪ねようと思い事前調査をすると埋め戻されていたり、危険なので現在は非公開ですなどといわれがっかりすることは一度や二度ではありませんでした。その意味でも本当に貴重です。

 もっとも動画1でおわかりのように階段を登った先が墳長85mの前方後円墳の前方部というのは周囲の木立とも相まって古墳に興味がなければ気がつかないのではないでしょうか。後円部の墳丘の北側三分の一ほども消滅し、石室の羨道部分もまったくありません。いきなり埋葬施設の心臓部、玄室です。これではあたかも丘陵の先端に円墳の一部が残されているようにしか見えないのです。ただ残された石室は既に書きましたように素晴らしいです。墳丘についても二度目の訪問で隣接する竜松寺側、つまり西側を歩いたところくびれも含め前方後円墳ということが実感できることがわかりました。動画1の後半でご覧になれます。現地を訪れる機会がある方、是非とも竜松寺側にまわってください。ただし、くれぐれも足を踏み外して寺の敷地に転落しないようご注意ください。

 ところで今回の古墳のある福岡市西部の今宿平野には、前述の鋤崎古墳、山ノ鼻1号墳、若八幡宮古墳、丸隈山古墳、兜塚古墳、今宿大塚古墳まで4C央から6C前まで次々と中型の前方後円墳が築かれています。山ノ鼻1号墳、若八幡宮、今宿大塚古墳についてはいずれ紹介する予定です。

福岡市のHPによれば丸隈山古墳は古くから開口していたようで江戸時代の福岡出身の儒学者貝原益軒が著わした『筑前国統風土記』には、寛永6年(1629)に村民の発掘で、銅鏡二面、巴形銅器、直刀、鉄鏃や、玉類が出土したと伝えられているそうです。アクセスはJR筑肥線周船寺駅から561号線に出て東に徒歩10分ほどです。竜松寺を目指します

(撮影20161227日)
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丸隈山古墳基本データ

所在地 福岡県福岡市

形状 前方後円墳

規模 墳長85m、後円部径60m 高さ8m、前方部幅45m 高さ不明

三段築成、葺石、埴輪あり

築造時期 5C

出土品 銅鏡二面、巴形銅器、直刀、鉄鏃や、玉類等(伝)、埴輪片

史跡指定 今宿古墳群として国指定

特記事項  残存する石室は横穴石室としては初期のもののようだ。石室規模は

2.4m、長さ4m、高さ2m。




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   四国最大の前方後円墳はいったいどこにあるのか。ようやく辿りつくことができた富田茶臼山古墳は香川県さぬき市にありました。 墳長は139mですが周囲に遮るものが何もなく、実際よりも大きくみえることは動画からおわかりになると思います。高松から20㎞ほど東にあるさぬき市は小豆島を海に迎えます。高松駅から朝8時発の大川バスに乗り約1時間の旅で目の前に古墳がみえるみろく自然公園前に着きました。自然を利用したスポーツ施設ですが歴史民俗資料館もあります。HPの解説によれば一見平野に造られているかにみえる古墳ですが、南から下がる丘陵を利用して造られているそうです。地形図でみるとたしかにそのとおりでした。高松側からみると高松平野の東端、みろく側からみると高松平野の入口にあたり古来交通の要衝であったことがわかります。水上を含む流通を支配した豪族の墓であることは容易に想像できます。行きかう人々にその威容はどのように映ったでしょうか。いかに富田茶臼山古墳の被葬者が強大な権力をもっていたかは、それ以前にはこの地域(寒川という)では小規模な古墳(前方後円墳)しか造られてこなかったことからもわかります。消滅してしまっていますが陪塚が3基確認されている点もその解釈を支えます。

墳丘が前方部端にいくにしたがい狭くなる周濠が巡っていたことがわかっています。とすると現在よりもさらに大きく163mにも達します。以前から古墳の存在は目立ったようで後円部の埋葬施設から剣、玉、人骨などが出土したとも伝えられ、埴輪や葺石の存在も明らかになっています。

墳長でいえば三重県の馬塚古墳(クリックすれば飛べます)、埼玉県の二子山古墳(さきたま古墳群)(クリックすれば飛べます)、同規模です。比較してご覧ください。

富田茶臼山古墳。残念ながら後円部にあると考えられる埋葬施設については調査が行われていません。もっとも墳丘北側に比べ南側はかなり削平されでこぼこです。行政や地元の方々の努力でここまでで留まっているというのが実情だとは思いますが・・・(撮影2016325日)。
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富田茶臼山古墳基本データ

所在地 香川県さぬき市

形状 前方後円墳

規模 墳長139m、後円部径90m 高さ15m、前方部幅77m 高さ12.5m

三段築成、葺石あり

築造時期 5C

出土品 円筒埴輪、朝顔等形象埴輪、土師器、須恵器

史跡指定 国指定

特記事項 四国最大規模の前方後円墳


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  非常に紹介するのが難しい古墳です。墳長が180m、周濠を含めると273mと大古墳ですが、動画でおわかりのように墳丘全体が竹やぶに覆われていてなかなか見通しがききません。とはいえ近鉄の久津川駅から商店街をとおり10分ほど歩いて着いた現地は、それまでの景色が一変し、古墳の大きさを実感することができます。一回目の訪問では雨のため、後述する造り出しの発掘調査は中止。ブルーシートが覆われた現場から全体を見たあと、墳丘に登りました。市民の皆さんの(車塚森づくり2011)の伐採作業も追いつかないのでしょう。如何に整備が難しいかを実感しました。そこで日を改めて、20161月末に再訪しましたが、状況はあまり変わりませんでした。何より度肝を抜かれたのは、下調べでわかっていたとはいえ明治27年(1894年)に、旧国鉄奈良線の工事の際に勾配修復のために後円部の三分の二ほどを土取りし、見るも無残な変わり果てた姿を見たことでした。動画2でご覧いただけます。ただ、その乱暴な掘削の結果、有力者しか使わない長持形石棺が未盗掘のまま発見され、三角縁神獣鏡を含む銅鏡7面などが出土しています。そのことは大阪羽曳野市の誉田御廟山古墳(応神天皇陵)と同じ設計(縮小)という指摘(城陽市教育委員会)からもわかります。

 前回の中期古墳、太田天神山古墳(クリックすれば飛べます)もそうでしたが、このぐらいの規模になると前方部まで見通すことはなかなか難しく、それがまた巨大さを実感する証のようなものにも感じられます。中期の古墳は前方部の発達がみられ前方部幅が後円部径よりも広いのでなおさらです。丁度、前方部から後円部に歩く途中にJR奈良線の電車が通過。動画4では敢えてその音を残しています。また、墳丘の二段目の西側段築に沿って遊歩道が造られており、見上げると墳丘の陵線がよくわかりました。
 車塚古墳の東側、JR奈良線の踏切をわたったすぐのところにほぼ同じ時期に造られた

前方部が短い墳長104mの前方後円墳(帆立貝型)丸塚古墳があります。残念ながら訪れた時は全体が雑木林と雑草に覆われていました。また、車塚古墳の北側すぐのところ、スーパーいずみやの駐車場横には墳長110mの前方後円墳、芭蕉塚古墳がありますが、ここは民有地のため竹やぶの生い茂った墳丘を眺めるだけです。それだけに車塚古墳の整備が待たれます。

聞けばここを史跡公園にするとのこと。出現期の芝ケ原古墳(クリックすれば飛べます)はじめ城陽市教育委員会は、史跡の保存整備に熱心です。是非、期待したいものです。最新の発掘調査では東西約10m南北約20mの西側の造り出しから残存する葺石、円筒埴輪、家型など形象埴輪が出土したとのことです。詳しくは久津川車塚古墳現地説明会(2015919日)をご覧ください(アップされています)。アクセスは近鉄京都線久津川駅から東に歩き二つ目の信号を左折した右手。10分ほどです。また城陽市歴史民俗資料館には車塚古墳出土の長持型石棺のレプリカ等が展示されています(撮影2015年9月8日、2016年1月26日)。

 
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  今回の中期古墳は5C前半(論者によっては初頭)に造られたとみられる全国の第三位の規模、墳長365mの巨大古墳、履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)です。既に紹介した仁徳天皇陵(大仙古墳)(クリックすれば飛べます)いたすけ古墳(クリックすれば飛べます)等と同様、百舌鳥古墳群に属しています。

江戸時代の絵図には履中天皇陵の表記がみられ、上石津ミサンザイ古墳の上石津は堺市に古墳の所在地が編入される前、泉北郡神石村の大字が上石津だったためのようです。遺跡の名称は考古学者の森浩一さんによれば「その所在地の大字や小字によるところが原則で、登呂遺跡や唐古・鍵遺跡(奈良県にある弥生時代の環濠集落遺跡、筆者注)などもすべてその原則にしたがっている」(森浩一編、日本の古代5、前方後円墳の世紀、中公文庫、1996年)のだそうです。知りませんでした。

もう一つカタカナ表記のミサンザイも不思議です。通説では陵の読み方ミササギが訛ってミサンザイとなったようです。既に紹介した土師ニサンザイ古墳のニサンザイも同様です。古墳の世界に迷い込むと次から次へと疑問が湧いてきます。専門家やプロはだしの古代史ファンには常識であっても戸惑うことが多く躓きそうになります。
 それにしても墳長365mの古墳は見事です。ヘリコプターによる上空からの様子は動画1でわかるように前方部が発達した典型的な中期古墳です。すぐ横にはいたすけ古墳も見えます(400mほどの距離)。奥の森状の仁徳天皇陵(大仙古墳)とは違い、地上に降りても墳丘を遠目に観察できるためにその大きさを感じることができます(動画1と動画3)。とはいえ周濠越しに見る墳丘は古墳の世界に関心のない人にとっては単なる緑の山です。
 宮内庁が被葬者としている履中天皇かどうかについても根強い異論があります。出土した土器、埴輪などの考古学的な成果からすると履中天皇陵の父である仁徳天皇陵の築造時期のほうが新しいといわれています。白石太一郎さんは5Cに入り最初に築かれた巨大古墳が上石津ミサンザイ古墳、ついで古市古墳群の誉田御廟山古墳(応神天皇陵、全国第二位の巨大古墳)、そのあとに大仙古墳(仁徳天皇陵)が造られたとみています(古墳からみた 倭国の形成と展開、敬文舎、2013)。
 JR阪和線百舌鳥駅から南西方面に500mほど下ったところにあります。徒歩7-8分(撮影2016年4月7日)。
大阪・奈良大型古墳分布図
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履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)基本データ

所在地 大阪府堺市西区

形状 前方後円墳

規模 墳長 365m、径205m 高さ27.6m、前方部幅235m 高さ 25.3m

築造時期 5C

出土品 不明

史跡指定 なし 宮内庁が履中天皇陵に治定

特記事項 全国で第3位の巨大古墳。陪塚が10基あったといわれる。


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  JR阪和線百舌鳥駅から南西方向に400mほど歩くと線路沿いに百舌鳥古墳群の一つ墳長146mのいたすけ古墳が見えます。高度成長期のはじまりの頃、宅地開発のための土砂採取で墳丘が削平されそうになった時、ストップをかけたのが堺市の市民の運動だったそうです。墳丘を囲む周濠沿いの桜はそれは美しく(動画1)、市民の皆さんのお陰で後世の我々はこの景色を楽しむことができる、そう思わざるを得ませんでした。

百舌鳥古墳群は、既に紹介した箸墓古墳(クリックすれば飛べます)などオオヤマト古墳群、塩塚古墳(クリックすれば飛べます)の含まれる佐紀古墳群が奈良に築かれたのに対して大阪、河内平野の堺市の近隣4㎞四方ほどに造られています。時期的にもくだります。それにしてもあちらを見てもこちらを見ても古墳だらけです。この界隈だけでもいたすけ古墳、大仙古墳(仁徳天皇陵)(クリックすれば飛べます)に加え、駅前の交番裏には墳長102mの前方後円墳の長塚古墳があり、いたすけ古墳の北東200mには墳長203mの御廟山古墳があります。古墳群の墳墓の巨大性と凝集性にあらためて驚かされます。広瀬和雄さん(国立歴史民俗博物館名誉教授)によれば百舌鳥古墳群には39基の前方後円墳を含む108基が造られ、墳長200m以上の前方後円墳が4基、100m以上が7基も含まれるそうです。486mの大仙古墳、365mの上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵)も百舌鳥古墳群です。この数字だけでも驚かざるを得ませんが、それらが4C末から6C後半の約150年ほどの間に造られているというのですから二重の驚きです。

肝心のいたすけ古墳ですが群中、墳丘に近づいて見ることのできるという意味では貴重かもしれません。巨大古墳は宮内庁の陵墓指定のために遠くから眺めるしかないからです。とはいえ、いたすけ古墳も墳丘そのものは動画でご覧いただければおわかりのように生い茂る木々に隠れ全く確認できません。三段築成といわれてもねえとため息が洩れてきます。それに動画2でご覧いただける墳丘南側に半壊状態のまま放置されたコンクリートの橋はなんなのでしょう。聞けば開発が進められている時に土取りのために造られたものだそうですが、なんとも無粋です。墳丘に棲みついたたぬきが時折、壊れた橋まで姿を現すというエピソードとともに、これでよいのだろうかと考えざるを得ませんでした(撮影2016年4月7日)。

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いたすけ古墳基本データ

所在地 大阪府堺市

形状 前方後円墳

規模 墳長146m、後円部径 90m 高さ12.2m、前方部幅 99m 高さ11.4m、三段築成

築造時期 5C

出土品 衝角付冑埴輪

史跡指定 国指定

特記事項 百舌鳥古墳群にあって数少ない宮内庁が管理していない古墳、陪塚の一つ善右ヱ門古墳が残されている



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  今回紹介する中期古墳の塩塚古墳は近鉄京都線の平城駅から徒歩で15分ほどのところにある墳長105mを数える古墳です。佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群に属しています。奈良の古墳群では既に紹介した奈良盆地東南の山麓に位置する下池山古墳(クリックすれば飛べます)や中山大塚古墳(クリックすれば飛べます)が含まれるオオヤマト古墳群(群中最大の古墳は下池山の動画に出てくる西殿塚古墳)の次に造られています。4C末から5C前半にかけてのことです。その一部はいずれアップしますが墳長200mを超す前方後円墳が7基もところ狭しと並んでいます。その様子は壮観の一言です。全て陵墓ないし陵墓参考地となっていて周濠越しに眺めることしかできないのは残念です。


  そうした中で登ることはできませんが墳丘を間近に見ることのできる数少ない一つが塩塚古墳なのです。古墳時代に関心のある人でなければ佐紀盾列古墳群といっても知らない人が大半ではないでしょうか。もちろん私も数年前まではその一人でした。そもそも佐紀盾列という名称はどういう由来なのでしょう。佐紀は地名のようですが盾列(たてなみ)とは聞きなれません。どうやら地図を広げてみるとわかるのですが今回の塩塚、いずれ紹介する瓢箪山など中規模の古墳を含め200m超の7基を含めいずれも後円部が北、前方部が南を向いていることにヒントがありそうです。盾のように並んでいるのです。後世の人々がそうした点に着目して盾列と呼んだという解釈はなるほどと思わせます。


   肝心の塩塚古墳ですがフェンス越しに苦労して撮った動画はいかがでしょう。前方部は高さが後円部の9mに比べると極端に低く1.5mしかありません。どうやら後世、開墾され周濠にあたる部分に捨てられたようです。周濠は後円部周辺しか残っていません。とはいえこの程度の改変で墳丘が残されたことを喜ばないとけないのかもしれません。1970年代には開発のために削平されることになり関係者の努力で所有者が保存に同意をした経緯があります。墳丘の半分は雑木林に覆われていますが径70mを測る後円部の巨大さは残された周濠と見事にマッチしています。後円部には粘土槨の埋葬施設があり鉄製品が検出されているようです。

 
   近くの瓢箪山古墳とセットで訪れることをお勧めします。平城駅から東方向に位置する塩塚古墳への道は土地勘のない者にとってはなかなか難しいのですが、誰でも知っている郵便局(山陵町簡易郵便局)を目指すのがベストです。塩塚も瓢箪山もその東側に位置します。丁寧に教えてくれます(撮影2016年1月27日)。



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塩塚古墳(佐紀盾列古墳群)基本データ

所在地 奈良県佐紀町、歌姫町

形状 前方後円墳 二段築成

規模 墳長105m、後円部径70m 高さ9m、前方部幅55m 高さ1.5m

築造時期 5C前半

出土品 鉄剣、鉄刀子、蕨手刀子、鉄斧、鉄鎌等鉄製品

史跡指定 国指定

特記事項 埋葬施設は後円部に粘土槨あり(全長6.80m、幅は北部で1.45m、南部で1.30m)。葺石は検出されず埴輪もなかった。


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今回の中期古墳は垂仁天皇陵と宮内庁が決めている宝来山古墳です。墳長227mの全国21番目の巨大古墳です。陵墓なので墳丘に登ることはできません。ただ陵墓が集中する百舌鳥・古市古墳群と違い動画からわかるように周濠の周辺に墳丘を遮る建築物がありません。そのため遠くからその堂々たる墳丘を一望することができます。訪れた時は生憎の雨にたたられましたが、残り桜越しに見る壮大な古墳はなかなかのものでした。動画3でご覧いただけます。

 動画1で触れていますが周濠の前方部東南部近くに小島が見えます。宮内庁は垂仁天皇陵の臣下、田道間守(たじまもり)命塚としています。陪塚です。天皇の命を受けた田道間守は不老不死の果物を探しに常世国に旅立ち、10年後ようやく果物を持ち帰った時には天皇は既に亡く、彼は自害して果てたと記紀は記しています。ただ、垂仁天皇が葬られているかというと疑わざるを得ないというのが一般的な見方のようです。第11代垂仁天皇実在説に立ったとしても皇統譜による99才まで生きたという年齢、53年間の在位期間などの記述と専門家による宝来山古墳の築造時期(5C前)とは全く合いません。

 天皇陵の謎(文春新書、2011)を書いた矢澤高太郎さんは、前方部側の周濠の拡幅と田道間守命塚とされる小島について、江戸時代に残された絵図のなかで小島が描かれたのは幕末に書かれた「山陵考」がはじめてだと述べています。つまり文久の修陵の際にもともと倍塚として存在した小島の外側にまで灌漑目的で周濠が拡張されたというのです。たしかに前方部の東南部は大きく広がっています。そういうことだったのかと思いました。
 美しい墳丘をみながら同じ大王墓といわれている墳長207m桜井茶臼山古墳のことを思い出しました。陵墓のために墳丘に登れない宝来山古墳、他方、そうではない桜井茶臼山古墳は少々残念な状況です。是非ご覧ください。

 近鉄橿原線 尼ヶ辻駅から徒歩5分です。大和西大寺駅から近鉄郡山方面に走る車内から右手にその姿がよく見えます(2016年4月7日)。

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宝来山古墳基本データ

所在地 奈良県奈良市尼ヶ辻町

形状 前方後円墳

規模 墳長227m、後円部 径123m 高さ17.3m、前方部幅118m 高さ12m

築造時期 5C

出土品 不明 盗掘犯からの聞き取りにより竪穴石室に長持型石棺があったことがわかっている。

史跡指定 陵墓につきなし

特記事項 周濠内の田道間守の墓とされる小島を含め倍塚が7基ある。

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 今回紹介する中期古墳は岡山県岡山市にある造山古墳(つくりやまこふん)です。現在の岡山県と広島県の東部等や兵庫県の西部の一部などを支配した吉備国の地域にあり、その盟主が眠っているとされる巨大古墳です。動画1に田畑の向こうに小山のように見える後円部が映っています。少しでもその雰囲気が伝わってくるとよいのですが・・・。データからみればその規模は大阪府堺市の百舌鳥古墳群にあって履中天皇陵に治定されている上石津ミサンザイ古墳に次ぐ全国で第4位の墳長350mを有します。両古墳の差は15mほどしかありませんからほぼ同じ大きさといってよいでしょう。前方部端の幅が後円部径よりもずっと広くなっている点も同じです(造山古墳にはミサンザイと違い周濠はない)。設計は同じ専門家集団によることは測量図からも推測できるそうです。5C前半、当時の吉備がヤマト王権と密接な関係をもっていたことを示す何よりの証拠かもしれません。造山古墳の周囲にはいずれ紹介する6基の陪塚が巡っています。

 動画4、5でご覧頂きたいのですが後円部から見る前方部は木々が伐採されたためでしょうか見通しもよく圧巻です。はじめて(動画を撮るために再訪)訪れた時は夏だったので墳丘は緑に覆われ前方部を十分に見通すことができず残念な思いをしたことを思い出します。関係者の造山古墳を大切にしたいという気持ちが伝わってきます。動画2の墳丘全体を見通せるところに来場者用の駐車場があるのも粋な計らいです。後円部は戦国時代に毛利氏が城を築いたために改変されています。


 肝心なことを書き忘れるところでした。一般の人が墳丘に登れる古墳では造山古墳は日本で最大規模です。陵墓でも陵墓参考地でもないからです。そうした点でも貴重な古墳なのです。いずれ紹介する3kmほど吉備路を西に歩いた総社市の作山古墳(つくりやまこふん)も全国第9位の286mを誇り、こちらも登れます。造山と作山。同じつくりやま古墳のために地元の人は「ぞうざん」「さくざん」と呼んでいます。5C前半と中頃にそれぞれ造られています。十分に歩ける距離です。セットでどうぞ。

 アクセスはJR吉備線の備中高松駅前を走る国道180号線の備中高松の信号を右折し、二つ目の高松中学校東の信号(ここに造山古墳の⇒表示)を西に1歩き足守川を渡ると動画1の景色が広がります(撮影2015年2月22日)。

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造山古墳基本データ

所在地 岡山県岡山市北区新庄下

墳形 前方後円墳

規模 墳長350m、後円部径190m 高さ29m、前方部端幅215m 高さ 25m

三段築成、葺石あり

築造時期 5C

出土品 円筒埴輪及び楯、靭(ゆき)、蓋(きぬがさ)家などの形象埴輪、古墳本体の発掘調査は行われていない

史跡指定 国指定

特記事項 前方部の荒(こう)神社の鐘楼脇に阿蘇凝灰岩製の長持型石棺(蓋なし)が置かれている。





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  今回は皆さんよく御存じの仁徳天皇陵として宮内庁が治定している大仙古墳をご紹介します。仁徳天皇陵古墳、大仙古墳、大山古墳と色々な呼び方があるようですが、ここではタイトルでは仁徳天皇陵とし、文中では大仙古墳とします。巨大古墳の分布図にある百舌鳥古墳群に属する日本最大の前方後円墳です。もっとも考古学的にみて仁徳天皇が葬られているのかどうかは判然としないようです。とはいえ築造時期と推定される5C前半の大王の墓であることはその規模からして衆目の一致するところでしょう(もっとも築造時期についても種々の見解があるようです)。

宮内庁が管理しているために墳丘には近づけません。それどころか余りの巨大さに全体像をつかむのも容易ではありません。一番外側の周濠を含めると全長は850m。一周できる遊歩道は2.8kmもありますから当然です。古墳がJR阪和線の三国ヶ丘駅と百舌鳥駅の間を占領している感じがします。あの巨大な森はいったいなにか、はじめて見た時にそう思ったことを思い出しました。もっとも大仙古墳を含む数々の陵墓からなる百舌鳥古墳群や古市古墳群のおかげで開発の波を食い止めることができたともいえそうです。歩けば容易にわかりますが陵墓ぎりぎりまで高層マンションやアパートが立ち並び、その光景は動画1、番外編の静止画像からも確認できます。

このブログは基本的には墳丘に登れる古墳を対象にしています。墳丘にも近づけない。ならば全体像を掴むにはどうしたらよいか。あの教科書掲載の画像を思い出し、ヘリコプターに乗ってみました。古代の人々が目にすることのできなかった巨大古墳の姿がそこには広がっていました。周囲には大仙古墳の被葬者の陪冢(ばいちょう、従者の墓)と思われるいくつか小規模墳も見えます。何を目的にこれだけ巨大な構造物を近接した地域に、しかも100年(5C-6C)の間に造ったのだろう。あらためてそう考えざるを得ませんでした。

現在では宮内庁管理で近づくことのできない古墳ですが、1872年(明治5年)には堺県が前方部の埋葬施設が露わになったことを理由に調査し、石棺や甲冑の絵図が残されました。その写真画像をはじめ大仙古墳の詳細を知りたい方々にお勧めしたい一冊があります。一瀬和夫さんの 古墳時代のシンボル・仁徳陵古墳(新泉社、2009年)です。わかりやすく丁寧な説明です。

アクセスはJR阪和線百舌鳥駅で下車。西方向に5分歩くと前方部端に着きます。拝所を含め遊歩道一周をお勧めします。拝所ではボランティアガイドさんの解説も聞けます。

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大阪・奈良大型古墳分布図

仁徳天皇陵(大仙古墳)データ

所在地 大阪府堺市堺区大仙町

形状 前方後円墳

規模 墳長 486m、後円部径249m 高さ35.8m、前方部幅307 高さ33.9m、三段築成

築造時期 5C前半

出土品 埴輪、須恵器

史跡指定 なし 宮内庁による陵墓指定

特記事項

現在ボストン美術館所蔵の甲冑、鏡、環刀が大仙古墳前方部の埋葬施設から発掘されたものと伝えられているが、専門家は出土品の年代考証から疑わしいとしている




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  関西に土地勘のない私は三陵墓西古墳のある奈良県都祁(つげ)南之庄町といっても見当がつきませんでした。地図を広げると奈良から南に桜井までJRで下り、そこから近鉄大阪線で榛原まで行き北にあがったところということがわかりました。標高300mから500mの大和高原に位置します。二度目の訪問は秋雨に遭って寒いぐらいでしたが冬季の寒さは容易に想像できました。それは藤原氏の陰謀で自死せざるを得なかった長屋王邸跡から都祁氷室と書かれた木簡が出土したことからもわかります。このエピソードは8Cの初頭には都祁という地名が用いられていたことを教えてくれます。西古墳はそれよりはるか以前の5Cはじめに築造されたといわれていますが、被葬者をはじめ人々は当時から都祁とこの地を呼んでいたのでしょうか。

 
  そうしたことに思いを巡らせていると雨に濡れた円墳、三陵墓西古墳が見えてきました。実に美しい。ところが感動に浸る間もなく、視界を遮るように仁王立ちした巨大な古代人石造モニュメントが見えてきました。古代遺跡を現代につなぐという思いからなのでしょうが正直興ざめです。気を取り直して古墳に目をやると古墳公園の入り口が墳丘よりも下ったところにあるために実際よりはるかに大きく見えました。動画から伝わってくるでしょうか。墳頂からはいずれ紹介する前方後円墳、三陵墓東古墳の雄姿が確認できます。

 
  アクセスは榛原から奈良バスで針インター行、南之庄東口下車徒歩5分。バスの進行方向と反対に少し戻ると看板が出ています。

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三陵墓西古墳データ

所在地 奈良県都祁南之庄町

形状 円墳

規模 円径 40m 墳頂径 16m 高さ5m

築造時期 5C前半

出土品 朝顔、円筒埴輪

史跡指定 県指定

特記事項 墳頂に二つの埋葬施設あり。第一主体部割竹型木棺粘土郭 
第二主体部組合せ式木棺直葬


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