これは別格の横穴石室
掛木(かけぎ)古墳の石室は石を用いて造った石室というよりはまるで洞窟のようです。鏡石としての奥壁の巨石は当然のこととして側壁の大きさに度肝を抜かれました。2段、3段に積んだ大型の石の間に小型の石片を埋め込んで造られた側壁が一般的ですが、ご覧のように玄武岩製の超巨大な一枚の板石が中室の横壁を占領しています。それもリニューアル版を作成していて感じたのですが、どの石材も丸みを帯びています。前室、玄室も同様で、特に奥壁が持ち送りにしたがって、石材の幅が狭くなっていきますが、丸みを帯びながらなのです。工人の一工夫なのでしょうか。袖石の大きさにも驚かされます。玄室、中室の間の仕切りの石である梱(しきみ)石は敷石と同様に埋まっていたことからすると築造当時の石室高は現在以上あったものと推測されます(壱岐の古墳、壱岐市教育委員会、2008の記述から推測)。そう考えると空間の広がりはさらに大きなものとなります。
それにしても笹塚古墳(クリックすれば飛べます)等壱岐古墳群の他の古墳も同規模の複室構造の大型石室を有しており、壱岐島に短期間になぜという疑問は消えません。笹塚古墳のところで次のような見方があることを紹介しています。再録しておきます。「対馬塚、双六を除く4基は6C末から7C初頭というごく短期間で造られたとみられており、その背景には6C前半の北九州豪族の磐井が新羅と手を組みヤマト王権による百済支援を阻んだ(磐井の乱)ことに見られるように東アジアの複雑な情勢が関係しているとみられています。この間、半島と倭の間に位置する壱岐島の平坦基地としての価値が高まったことは容易に想像され、北九州からは豪族が移住したと考えられています。7Cの後半になると新羅は唐と手を結び、倭・百済連合と戦うことになりますが(白村江の戦い)、壱岐島には防衛ラインが敷かれ6C以来の傾向が引き継がれていきます。」被葬者は北九州から移住した豪族という見方ですが、ならば、これだけの大型石室を造るだけの労働力はどう確保したのだろうという次の疑問が湧いてきます(撮影2019年3月26日)。
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