ネギ坊主がなぜ古墳に?
晩秋の日差しのきついなか、上信電鉄の吉井駅から目的の多胡薬師塚古墳へ向かいました。地図でみると直線距離で1.2㎞ほどなので、さほど時間はかからないはずです。ところが、はじめての地というのは、そう計算したとおりにはいきません。しかも、区画がはっきりしない道も多く、国道254号線を越えてからが大変でした。目指す吉井中央中学が見えてこないのです。こういう時は、ナビのある車の人はいいですねなどと時々思います。ただ、徒歩は古墳を造った人々も歩いたみちだと思うと、まあいいかと思い直して歩を進めます。2度、3度聞いて、ようやく中央中学を背にして古墳に向かう道を発見。ところが、遠くから見た墳丘にはびっくりでした。「うーん」思わずうなりました。説明はいらないと思います。私の美的感覚とはほど遠かったからです。人それぞれですが。ネギ坊主に見えた植物の正体は竜の髭でした。墳丘は径25m、高さ3.5mの円墳です。考古学者右島和夫さんによれば、この時代としては大きな円墳だそうです。
それはともかく、切石をふんだんに使った石室は長さが4.95m。羨道は長さ2.3m、幅1.1mと狭く、天井近くはさらに幅0.8mほどに狭くなっています。この場合持ち送りと呼ぶのかわかりませんが、正面からみると△にみえます。高さが1.3mと低いのも特徴です。天井を含め大型の砂岩切石で構成された羨道を潜り抜けると、ボックス状の玄室が現れました。これまでみてきた玄室の多くは長さ(奥行き)が幅よりもかなり長いのが普通でしたが、この石室、長さ2.1mに対して幅は2.15mとほぼ変わりません。しかも高さも1.7mしかありません。こぶりです。しかし平滑された切石の左側壁の上部をみて驚きました。切組積みとよばれる強度を増すためにの石材加工がなされているのです。この石室の測量も行った右島和夫さんの「群馬の古墳物語(下巻)(上毛新聞社、2018年)には、ヤマト王権による本格的な寺院造営が進められたこともあり、この地でも、高い技術力をもった石工が古墳造営事業に携わっていたとあります。なるほどという感じです(撮影2021年11月24日)。
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それはともかく、切石をふんだんに使った石室は長さが4.95m。羨道は長さ2.3m、幅1.1mと狭く、天井近くはさらに幅0.8mほどに狭くなっています。この場合持ち送りと呼ぶのかわかりませんが、正面からみると△にみえます。高さが1.3mと低いのも特徴です。天井を含め大型の砂岩切石で構成された羨道を潜り抜けると、ボックス状の玄室が現れました。これまでみてきた玄室の多くは長さ(奥行き)が幅よりもかなり長いのが普通でしたが、この石室、長さ2.1mに対して幅は2.15mとほぼ変わりません。しかも高さも1.7mしかありません。こぶりです。しかし平滑された切石の左側壁の上部をみて驚きました。切組積みとよばれる強度を増すためにの石材加工がなされているのです。この石室の測量も行った右島和夫さんの「群馬の古墳物語(下巻)(上毛新聞社、2018年)には、ヤマト王権による本格的な寺院造営が進められたこともあり、この地でも、高い技術力をもった石工が古墳造営事業に携わっていたとあります。なるほどという感じです(撮影2021年11月24日)。
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