古墳を動画で見るサイト guami_38_36のblog

なんでも実際に見てみないと気が済まない私。古代史初学者として3世紀中頃から7世紀初頭にかけて東北から九州まで造られた5200基もの古墳の内、墳丘が残り実際に墳頂まで登れるものを訪ねはじめました。2011年秋のことです。既に先輩方が古墳のブログやHPを立ち上げられて今でも大いに刺激を受けています。ただ、権力者がなぜこれほど大きな構築物を造ったのかに興味がある私には、残念なことに大半の画像が静止画であるためにそのスケール感が伝わってきませんでした。偶然、動画で撮ってみたら案外いける。そんな思いで撮りためた古墳動画を見て頂くことにしました。素人の撮影ですから、古墳マニアや専門家の方々からは厳しいご指摘はあるかと思います。ブログでは基本情報とともに一つの古墳に3-5本程度の動画(各1分以下)を用意しました。この素人の試みが古墳を具体的にイメージする一助となれば幸いです。

■古墳時代の時期区分
 このブログでは古墳時代を広瀬和雄さん(国立歴史民俗博物館名誉教授)が通説として紹介している古墳時代を前期(3C中頃から4C後半頃)、中期(4C末頃から5C後半頃)、後期(5C末頃から7C初め頃)、終末期(7C前半頃から8C初め頃)に区分して捉えています(前方後円墳の時代、岩波新書、2010年)。
■アップの順番
 前期⇒中期⇒後期(終末期)の古墳を一基ずつワンセットにして全国の古墳を網羅することを目指しています。三基の古墳には何ら有機的な関係はありません。一つの地域に集中して前期から終末期まで掘り下げて見るのが一般的ですが、敢えてそうしなかったのは古墳時代の前期、中期、後期に全国でどのような墳墓が築かれたかを知りたいと思ったからです。古墳の築造年代は専門家の間でも様々な意見があり実年代を確定することが如何に困難なことかは承知しています。そのような限界の下でも古墳を横断的にみると今まで見えてこなかったものが見えてきたような気がします。専門分野外の古墳時代に関心を持ちはじめて日も浅い者ならではの冒険です。
■ご覧になる方法
最新記事12件についてはそのまま下にスクロールすれば見れます。各都府県別古墳は右の一覧をクリックしてください。文中にも関連の古墳に直接飛べるようにリンクを貼ってあります。

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今回紹介する前期古墳、鏡塚古墳は既に紹介した石清尾山古墳群の石船塚古墳、猫塚古墳と同様、積石によって墳丘が築かれた珍しい古墳です。香川県高松市峰山の丘陵尾根には、こうした積石の古墳が3C半ばから4Cに連続して造られ、その形も双方中円墳、前方後円墳、方墳など多様です。今回の鏡塚古墳は猫塚古墳と同様、円墳の両側に方形部(前方部)がついています。猫塚古墳は円墳部分の中心が大きく盗掘のために抉られており墳丘が崩れていましたが、鏡塚は全体として一回りこぶりながらも墳丘はよく残っています。二つの動画から、その変わった形がよくわかると思います。

以前、韓国ソウルの石村洞古墳(くりっくすれば飛べます)をアップしましたが日本でも同様の積石塚がないか関心をもっていたところ、香川や長野の限られた地域に石積みによる古墳群があることを知りました。ご覧になってわかるように土を盛り上げて造られた墳丘と、ごつごつした安山岩を積んで造った墳丘とではまったく印象が違います。荒々しさの中にも強い意志を感じる、そんな気がしました。それにしても30㎝ほどの石の塊が続く墳丘を歩くのはなかなか疲れます。雨で積石が濡れていたらとても撮影は難しく、訪ねる方は天候を十分にチェックすることをお勧めします。なぜ土ではなく石なのかという疑問に対しては白石太一郎さんは「土よりも石材のほうが利用しやすい地理的環境によったものと考えられています」と記しています(古墳の知識Ⅰ、墳丘と内部構造、東京美術、1985年)。朝鮮半島の影響というわけでは必ずしもないようです。

 墳丘は全長70mで円墳部分の径は測量図からすると30mほどのように思われ、その左右(南北)に方形部(前方部)が続いています。猫塚古墳(クリックすれば飛べます)、前方後円墳の石船塚古墳(クリックすれば飛べます)と比較しながらご覧ください。

 現地へは高松駅琴電バスループバス市民病院(行きは西回りで30分)下車、徒歩約45分で標高約230mの峰山公園まで登り管理事務所で古墳群の地図をもらうのがよいでしょう。点在する古墳を歩くのに約2-3時間かかりますが、尾根からは北方向に瀬戸内海がよく見えます(撮影2016年3月24日)。

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鏡塚古墳(石清尾山古墳群)基本データ

所在地 香川県高松市

形状 石積みによる双方中円墳

規模 墳長 70m、円墳径 30mほど、方形部(前方部)端15mほど

2段築成

築造時期 4C央(前)

出土品 不明 

史跡指定 国指定

特記事項 円墳部に6基の埋葬施設があったともいわれるが不明。猫塚よりも一回り小さい。

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  今回は既に紹介した今市大念寺古墳の石室に続く出雲市にある後期古墳石室、上塩治築山(かみえんやつきやま)古墳です。訪問し終わって振り返ると妙蓮寺山古墳、宝塚古墳、上塩治地蔵山古墳(いずれアップします)とどれも印象に残る石室ばかりです。国の史跡に大正時代にすでに指定されていることだけを考えても、これら遺跡の重要性がわかります。同時に、如何にこの地域を支配していた豪族が力をもっていたかの証ということも理解できました。とりわけ今回の石室の長さは島根県では最も長く14.6mを数えます。そこに大小二つの精巧な家形石棺が縦(大石棺)、横(小石棺)に置かれており、どちらも横面に穴が開いているところが(専門的には横口というそうです)目を引きます。出雲市文化財課の担当者のお話では、埋葬者は棺の中でも生きていると考えられていたようで、そのための出入りの穴(口)だったとのこと。九州の影響を受けているそうで畿内の家形石棺にはみられない特色だそうです。死生観が地域によって異なっていたということのようです。今市大念寺古墳(クリックすれば飛べます)の全国一の規模も同じところに穴(口)が開いていました。比較してご覧ください。こうしていくつもの石棺をみるだけでもバラエティーに富んでいて飽きません。

 墳丘自体は見た目だいぶ崩壊が進んでいるようで雑木に覆われていることもあり円墳といわれなければ小山のようにしかみえません。それでも内部の石棺を目の当たりにして不思議な感覚に襲われました。1400年もの間、時空を超えてここに存在し続けていたのです。ただそれだけなのですが・・・。

現地を訪れてわかったことは動画1の冒頭のところカメラの後側に走る県道277号にも築山古墳群を形成する円墳が4基並んでいたということでした。現在は最近整備されたばかりの道路の下になり、その姿を確認することはできません。それだけに上塩治築山古墳の遺跡としての重要性がわかります。明治20(1887)に石室は開口され、大棺からは金銀双円頭太刀、須恵器、小棺からは金銀製冠、鉄器、須恵器等が出土しています(上塩治築山古墳パンフレット、出雲市)。
  アクセスは出雲市駅前から循環バスを利用してもよいですが私は1㎞ほどなので歩きました。277号を南へ下り島大東を左折して左側に動画1の見学者用駐車場が見えます。その奥の小山です(撮影2016年5月10日)。


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上塩治築山古墳基本データ

所在地 島根県出雲市上塩治町築山

形状 円墳

規模 径46m 高さ6m

築造時期6C

出土品 大棺から金銀双円頭太刀、須恵器、小棺からは金銀製冠、鉄器、須恵器等が出土

史跡指定 国指定

特記事項 羨道 長さ5.8m1.8m高さ2.2m、玄室 長さ6.6m2.8m高さ2.9m

石棺() 長さ2.8m1.4m 高さ1.7m()長さ2.1m 幅1.4m 高さ1.4m

 

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JR山陰本線出雲市駅から高架沿いに300mほど東方向に歩くと室町時代に開山された大念寺という古刹があります。今回紹介する古墳はその寺域にある墳長92mの前方後円墳です。今市と呼ばれるようになったのは古墳が造られたあとのことでしょうが、人々の賑わう市が開かれる要衝の地に大きな前方後円墳、しかも後円部には全国最大規模の石棺を擁する横穴石室が築かれています。斐伊川まで2㎞、日本海まで4㎞の地です。

 ただしJRの車窓からも大念寺はよくわかりますが、肝心の前方後円墳は墳丘に生い茂った雑木林に遮られてよくわかりません。本堂の右手奥にまわると墓石が多数立ち並ぶ大念寺の墓地があり、すぐ左手の高まりに横穴石室が開いています。ここが後円部西側に当たります。つまり石室のある径45mの後円部の奥に前方部があるということになります。墓地に沿って後円部をまわるとようやく前方部の墳丘が確認できました。

 約11mの横穴石室は江戸時代末期の1829年(文政9年)に行われた寺の改修の際に発見されたそうです(今市大念寺古墳パンフレット、出雲市文化財課)。玄武岩の自然石を使った羨道、前室、奥室からなる石室も見事ですが何より巨大な凝灰岩で造られた家形石棺に圧倒されます。長さが3.3m、幅が1.7m、高さが1.89mもあるのです。現在の日本人の平均身長よりも遥かに高いのですね。それに対して奥室の天井の高さは3.3mしかありません。少々バランスを欠いた印象です。その理由は私自身理解できていませんが、石棺の向かって右側横には四角の口が開いています。動画でも確認することができます。この巨大な石棺からすると墳丘はあとに造られたことが容易に想像できます。羨道の高さは1.8mしかなく石棺を通過させることは不可能だからです。

 文政年間に石室を開けた際には夥しい副葬品がみつかり、その内容は発見7年後に描かれた絵図に残されています。金銅製の履(くつ)、金環、メノウ玉・鈴等で前述パンフレットによれば金銅製の履は中国地方では2例と貴重なものだそうです。墳丘の規模、石棺の巨大さ、豊富な副葬品から、今市大念寺古墳が古墳時代後期、この地方を支配した強大な権力者の墓であることがわかります。これまで紹介した前方後円墳に造られた横穴石室と比較してご覧ください。石棺も残されている福岡県の東光寺剣塚古墳、奈良県の市尾宮塚古墳、京都府の天塚古墳、岡山県のこうもり塚古墳、群馬県の前二子古墳をあげておきます。石棺、横穴石室といっても多種多様であることがわかります。いずれもクリックすれば飛べます。

 アクセスは冒頭に書きましたように出雲市駅から徒歩で10分ほどの近さのところにあります。出雲大社、松江城だけではなく今市大念寺古墳も史跡めぐりの一つにいれてほしいものです(撮影2016年5月10日)。


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今市大念寺古墳基本データ

所在地 島根県出雲市今市町

形状 前方後円墳

規模 墳長 92m、後円部径 45m 高さ 7m、前方部幅47m(測量図から推測)不明

出土品 金銅製履(くつ)、金環、メノウ丸玉、鈴、太刀、槍の先など(江戸時代 1826年に石室が発見された時に描かれた絵図による)

史跡指定 国指定

特記事項 本文で述べたように石棺は国内最大規模 



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  今回紹介する中期古墳の塩塚古墳は近鉄京都線の平城駅から徒歩で15分ほどのところにある墳長105mを数える古墳です。佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群に属しています。奈良の古墳群では既に紹介した奈良盆地東南の山麓に位置する下池山古墳(クリックすれば飛べます)や中山大塚古墳(クリックすれば飛べます)が含まれるオオヤマト古墳群(群中最大の古墳は下池山の動画に出てくる西殿塚古墳)の次に造られています。4C末から5C前半にかけてのことです。その一部はいずれアップしますが墳長200mを超す前方後円墳が7基もところ狭しと並んでいます。その様子は壮観の一言です。全て陵墓ないし陵墓参考地となっていて周濠越しに眺めることしかできないのは残念です。


  そうした中で登ることはできませんが墳丘を間近に見ることのできる数少ない一つが塩塚古墳なのです。古墳時代に関心のある人でなければ佐紀盾列古墳群といっても知らない人が大半ではないでしょうか。もちろん私も数年前まではその一人でした。そもそも佐紀盾列という名称はどういう由来なのでしょう。佐紀は地名のようですが盾列(たてなみ)とは聞きなれません。どうやら地図を広げてみるとわかるのですが今回の塩塚、いずれ紹介する瓢箪山など中規模の古墳を含め200m超の7基を含めいずれも後円部が北、前方部が南を向いていることにヒントがありそうです。盾のように並んでいるのです。後世の人々がそうした点に着目して盾列と呼んだという解釈はなるほどと思わせます。


   肝心の塩塚古墳ですがフェンス越しに苦労して撮った動画はいかがでしょう。前方部は高さが後円部の9mに比べると極端に低く1.5mしかありません。どうやら後世、開墾され周濠にあたる部分に捨てられたようです。周濠は後円部周辺しか残っていません。とはいえこの程度の改変で墳丘が残されたことを喜ばないとけないのかもしれません。1970年代には開発のために削平されることになり関係者の努力で所有者が保存に同意をした経緯があります。墳丘の半分は雑木林に覆われていますが径70mを測る後円部の巨大さは残された周濠と見事にマッチしています。後円部には粘土槨の埋葬施設があり鉄製品が検出されているようです。

 
   近くの瓢箪山古墳とセットで訪れることをお勧めします。平城駅から東方向に位置する塩塚古墳への道は土地勘のない者にとってはなかなか難しいのですが、誰でも知っている郵便局(山陵町簡易郵便局)を目指すのがベストです。塩塚も瓢箪山もその東側に位置します。丁寧に教えてくれます(撮影2016年1月27日)。



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塩塚古墳(佐紀盾列古墳群)基本データ

所在地 奈良県佐紀町、歌姫町

形状 前方後円墳 二段築成

規模 墳長105m、後円部径70m 高さ9m、前方部幅55m 高さ1.5m

築造時期 5C前半

出土品 鉄剣、鉄刀子、蕨手刀子、鉄斧、鉄鎌等鉄製品

史跡指定 国指定

特記事項 埋葬施設は後円部に粘土槨あり(全長6.80m、幅は北部で1.45m、南部で1.30m)。葺石は検出されず埴輪もなかった。


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  高松港まで直線距離で3㎞ほどの標高200mの丘陵に広がる岩清尾山古墳群。峰山公園から15分ほど歩いて最初に訪れたのが今回紹介する双方中円墳という非常に珍しい墳丘をもった古墳でした。前方後円墳の後円部にあたるところの左右に前方部がついています。墳丘は201642日した石舟塚古墳(クリックすると直接飛べます)同様、全面が30㎝四方の石を積んだ古墳です。

岩清尾山古墳群を巡ることのできる道路からいったん雑木林を下り目の前にその一部が現れた時は驚きの一言でした。実に殺風景というべきでしょうか。荒涼とした景色なのです。足元から積石が崩れていく怖さを感じながら墳丘の上にようやく辿りついたところに広がっていたのが動画1の光景です。これまでも盗掘された古墳を見ることは珍しくはありませんでしたが、それにしても凄まじい抉られ方です。聞けば明治時代に鉱山開発を装った大規模な盗掘集団によって行われたとのこと。その残石が円墳上に放置されたままになっていて思わず陪塚と勘違いするところでした。墳長は96m、古墳群で最大の規模です。盗掘にあったにもかかわらず複数の埋葬施設から銅鏡、鉄鏃、銅剣、石釧など豊富に出土しているようです。

 積石塚は今となっては部分的に崩れ始めているとこともありますが消滅していない古墳の墳丘の保存状況は良好です。石清尾山古墳群の大半が4Cに造られたことを考えれば、当時の石組の技術の高さに感心せざるを得ません。積石塚がなぜこの地に造られたのかは誰しも疑問に思うところですが、近つ飛鳥博物館館長の白石太一郎さんは、前方部は地山を削り出して成形し、後円部のみ積石を用いている徳島市の八人塚古墳を例に、「その成因は土よりも石材のほうが利用しやすい地理的環境によったものと考えられています」と述べています(古墳の知識、東京美術、1985年)。

 加えて興味深いことはこの地域で積石塚どころか通常の墳丘をもった古墳も4Cいっぱいで造られなくなってしまっていることです。ずっと飛んで7Cになりまた増墓活動が盛んになりますが規模の大きくない円墳にとどまっています。その間、この地域は他の地域の首長が支配していたのでしょうか。まだ紹介していませんが前期と中期の間に、高松市から南東に15㎞ほどの寒川の地に四国最大の前方後円墳、富田茶臼山古墳が造られたことと無関係ではないような気がします。墳長は139mもある堂々とした古墳です。話が少々脱線しますが、こうしたことに思いを巡らすことができるのも考古学者の地道な研究に基づく古墳の編年作業が行われてきたからです。石野博信編、全国古墳編年集成、雄山閣出版、1995年は実に便利です。

現地へは高松駅琴電バスループバス市民病院(行きは西回りで30分)下車、徒歩約45分で標高約230mの峰山公園まで登り管理事務所で古墳群の地図をもらうのがよいでしょう。点在する古墳を歩くのに約2-3時間かかりますが、尾根からは北方向に瀬戸内海がよく見えます(
撮影2016年3月24日)。

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猫塚古墳(石清尾山古墳群)基本データ



所在地 香川県高松市峰山

形状 双方中円墳

規模 墳長96m 高さ5m

築造時期 4C

史跡指定 国指定(石清尾山古墳群)

出土品 銅鏡、鉄鏃、銅剣、石釧

特記事項 双方中円墳という珍しい墳丘は奈良県桜井市の櫛山古墳など数少ない。円墳部分には動画のキャプションにあるように巨大な盗掘跡がある。

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  今回紹介する後期古墳は福岡県福岡市にある夫婦塚2号墳、巨大な複式石室が完存しています。日本海(博多湾・今津湾・玄界灘)に面した福岡市の西部、背振山を挟み佐賀県という平野の端に位置します。小規模な140もの古墳からなる金武古墳群の一つで1号墳とともに同じころに造られたようです。残念ながら1号墳は明治時代に開墾され農地となり墳丘も石室も残されていません。福岡市のHP、文化財情報によれば、江戸時代に著された『筑前国続風土記付録』に「(金武村)乙石の北二丁斗に石窟二あり、共に口は南にむかへり」と記されており、その一つが2号墳というわけです。その頃にはすでにこの地域の人々にはよく知られた存在だったのですね。

 説明版に測量図が載っていますが方墳のようにも円墳のようにもみえネットで検索してもバラバラです。墳丘が一部崩れているためなのでしょうか。墳丘の遺存状況に比べると驚くほど石室はよく残されています。つい最近の築造というのは大げさにしてもとても1500年近くも前に造られたものとは思えません。一つの理由は花崗岩の一枚板石の巨石が豊富に使われているためなのでしょう。

肥後(熊本)地域が発祥といわれる九州に数多くみられる複式式石室の姿が非常によく残されています。複数の玄室があるために石室の長さは11mもありこれまでアップした古墳の中では埼玉県行田市の終末期の八幡山古墳14mにつぐものです。羨道はハの字型に広がっています。比較する意味があるかどうかはわかりませんが受ける印象はだいぶ違います。ぜひ八幡山古墳もご覧ください(クリックすれば飛べます)。皆さんはどう思われますか。
  古墳は竹林に囲まれています。動画1で確認できるように奥室から羨道方向を眺めると竹林がそよぎ、なかなかの風情です。
 

アクセスは天神から西鉄バス2番系統 金武営業所行きで南金武下車。かなたけの里公園まで徒歩10分(標識が出ている)。その管理棟で詳細を聞くのがよいでしょう。管理棟から徒歩7-8分、動画4のはじめに出てくる景色が道路越しに見えます(撮影2015年12月26日)。




 

夫婦塚2号基本データ

所在地 福岡県福岡市西区

形状 方墳(円墳)

規模 35mとも25mとも

築造時期 6C

出土品 須恵器、土師器、鉄釘、銅釘

史跡指定 福岡市指定

特記事項 横穴石室が完存している。全長11.5m、後室(奥)長3.6m 幅2.45m 高さ3.15m、前室長2.23m 幅2m 高さ2m、羨道長3.45m1.4m


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今回の中期古墳は金錯銘鉄剣が発掘されたことで知られるさきたま古墳群に属する稲荷山古墳です。墳長120mの堂々たる前方後円墳は1930年代後半に周囲の沼地の干拓事業のために前方部が大きく土取りされていたために修復復元されています。古墳群中では最も古く5C後半に造られた墳丘は中期古墳によくみられる前方部の発達が観察できます。62mの後円部径よりも前方部幅が74mと広く、高さも後円部11.7mと前方部10.7m1mの差しかありません。周囲にめぐらされた濠とも相まってより規模の大きな前方後円墳にみえます。
 これまでアップした古墳では京都府長岡京市の恵解山(いげのやま)古墳、このブログの表紙、群馬県高崎市の大鶴巻古墳、それに大阪府枚方市の禁野車塚古墳、前方後方墳ですが奈良県桜井市の下池山古墳がいずれも墳長120m前後です。4C初頭の禁野車塚、下池山古墳、大鶴巻古墳、恵解山古墳、そして稲荷山古墳の順で造られたようです。ぜひ、比較してご覧ください(古墳名をクリックすると飛べます)。稲荷山古墳は二段築成で葺石はなかったことが確認されています。ただし動画でおわかりのように三段築成のようにみえます。行田市の文化財担当の方のお話しでは一段目に見える濠からすぐのラインは基壇と呼ばれ土留めのようなもので段築ではないとのこと。調査の結果、基壇の上に二段築成の墳丘(二段目は墳頂)が載っていることがわかったそうです。ややこしいのはさきたま古墳群を含め、全国の古墳のすべてに基壇が造られているわけではなく詳細は発掘調査をしないとわからないケースが多いようです。
 さきたま古墳群は他の古墳を含め二重の濠がめぐっているのが特徴ですが復元された稲荷山古墳の周濠は一重で二重目は残念ながら確認できません。動画1の撮影位置の遊歩道あたりなのでしょうか。二重の濠越しにみる墳丘はさぞかし雄大だったのではないでしょうか。すでにアップしている将軍山二子山丸墓山の各古墳とともにご覧ください(クリックすると直接
飛べます)。
 稲荷山古墳が有名になったのは後円部頂の西側にある竪穴式石室から1968年に出土した副葬品の一つ金錯銘鉄剣の存在です。後に金象嵌で155文字が刻まれていることが明らかになった鉄剣は国宝の指定を受けています。たしかに動画4でおわかりのように文字が書かれていることは確認できます。撮影が可能だったのはラッキーでした。禁フラッシュ、禁接写を守れば撮れます。ズームを使って拡大してみましたが雰囲気が伝わっていればと思います。鉄剣は通常の展示方法とは違い縦に吊るされているので裏表がよくわかります。
 近つ飛鳥博物館館長の白石太一郎さんは江田船山古墳(熊本県)出土の文字入り大刀とともに「五世紀後半に倭国で作られたもので、日本列島における文字の本格的な使用のはじまりを示すものとしても、また同時期の文献史料がまだみられない五世紀の歴史を考える上からもきわめて貴重な資料である」と述べています(東国の古墳と古代史、学生社、2007年)。銘文は、「それが辛亥年(471年)に記されたこととともに、この剣を作らせたヲワケの祖先であるオホヒコからヲワケに至る八代の系譜を示し、さらにヲワケの一族が代々杖刀人(大王のそばに仕える近衛兵てきな人物、幾ちゃん注)の首として大王に仕えてきたこと」などが記されているのだそうです。そして大王のワカタケルは古事記や日本書紀にみられる雄略天皇を指すとみられています。倭の五王の武と考えられる雄略天皇といえば朝鮮半島への出兵、国内的にはヤマト王権を確立した5C半ばの王です。稲荷山古墳の被葬者が雄略天皇と何らかの関係を有していたことは確かなようです(撮影2016年3月1日)。



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 アクセスは公共交通機関の場合いくつかあります。さきたま古墳公園のHPに詳しいルートが紹介されています。行田駅から市内循環バスが一番便利ですが本数が少なく、二度目は本数が多いJR吹上駅から朝日バスで佐間経由 行田折返し場・総合教育センター・行田工業団地行に乗り産業道路で下車。徒歩15分のルートを使いました。


稲荷山古墳(さきたま古墳群)基本データ

所在地 埼玉県行田市埼玉

形状 前方後円墳

規模 墳長120m、後円部径62m 高さ11.7m、前方部幅74m 高さ10.7m

築造時期 5C後半

出土品  金錯銘鉄剣、画文帯神獣鏡、勾玉(まがたま)、銀環、金銅製帯金具、鉄剣、鉄刀、鉄矛、挂甲小札(けいこうこざね)、馬具類、鉄鏃

史跡指定 国指定

特記事項 文字115字が金象嵌された金錯銘鉄剣は国宝(古墳公園内の県立さきたま史跡の博物館で展示、動画4参照)





 

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