古墳を動画で見るサイト guami_38_36のblog

なんでも実際に見てみないと気が済まない私。古代史初学者として3世紀中頃から7世紀初頭にかけて東北から九州まで造られた5200基もの古墳の内、墳丘が残り実際に墳頂まで登れるものを訪ねはじめました。2011年秋のことです。既に先輩方が古墳のブログやHPを立ち上げられて今でも大いに刺激を受けています。ただ、権力者がなぜこれほど大きな構築物を造ったのかに興味がある私には、残念なことに大半の画像が静止画であるためにそのスケール感が伝わってきませんでした。偶然、動画で撮ってみたら案外いける。そんな思いで撮りためた古墳動画を見て頂くことにしました。素人の撮影ですから、古墳マニアや専門家の方々からは厳しいご指摘はあるかと思います。ブログでは基本情報とともに一つの古墳に3-5本程度の動画(各1分以下)を用意しました。この素人の試みが古墳を具体的にイメージする一助となれば幸いです。

■古墳時代の時期区分
 このブログでは古墳時代を広瀬和雄さん(国立歴史民俗博物館名誉教授)が通説として紹介している古墳時代を前期(3C中頃から4C後半頃)、中期(4C末頃から5C後半頃)、後期(5C末頃から7C初め頃)、終末期(7C前半頃から8C初め頃)に区分して捉えています(前方後円墳の時代、岩波新書、2010年)。
■アップの順番
 前期⇒中期⇒後期(終末期)の古墳を一基ずつワンセットにして全国の古墳を網羅することを目指しています。三基の古墳には何ら有機的な関係はありません。一つの地域に集中して前期から終末期まで掘り下げて見るのが一般的ですが、敢えてそうしなかったのは古墳時代の前期、中期、後期に全国でどのような墳墓が築かれたかを知りたいと思ったからです。古墳の築造年代は専門家の間でも様々な意見があり実年代を確定することが如何に困難なことかは承知しています。そのような限界の下でも古墳を横断的にみると今まで見えてこなかったものが見えてきたような気がします。専門分野外の古墳時代に関心を持ちはじめて日も浅い者ならではの冒険です。
■ご覧になる方法
最新記事12件についてはそのまま下にスクロールすれば見れます。各都府県別古墳は右の一覧をクリックしてください。文中にも関連の古墳に直接飛べるようにリンクを貼ってあります。

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   動画5でその一端がお分かりになると思いますが、今回の作山古墳群、方墳、円墳、前方後円墳が一列に並ぶ姿は壮観の一言です。夕陽に映える墳丘を存分にお楽しみください。見事に復元された古墳は小規模ながら、古墳の総合展示場といった趣です。場所は天橋立から内陸に10㎞ほど入った京都府与謝野町になります。以前、丹後半島の神明山古墳を紹介しましたが(クリックすれば飛べます)、同時期に作山古墳群も築かれはじめていたということになります。隣接して築かれている蛭子山古墳は神明山古墳よりは小さいとはいえ墳長は145mもあります。いずれ紹介しますが、墳丘の一部は動画3の最後のほうでご覧になれます。

 造られた順に北から並べられた古墳は興味深いことに、方墳の5号墳と帆立貝式前方後円墳1号墳の前方部が重なっています。1号が築かれた時には5号墳の存在に気づかなかったのでしょうか。よく理解できません。各動画のキャンプションに書きましたように葺石があるもの、墳長に壺形埴輪による方形区画があるもの、葺石が全くないもの、色々です。それぞれが個性豊かです。各墳丘の裾には小規模な棺が埋葬され、1号墳だけでも木棺墓6基、埴輪棺墓6基、土器棺墓1基、土壙墓2基と15基もあり、古墳被葬者の権勢がうかがえます。

 また1号墳の墳頂の埋葬施設の復元も非常にリアリティに富んだ出来栄えです。組み合わせ式の石棺は副室が設けられており鉄製品が埋葬されていました。是非、動画2でその様子をご覧ください。こうした復元の試みは小石で囲ったり、図示するだけよりは明らかに古墳を理解するのに役立ちます。動画を撮るために二度の訪問となりましたが、再訪してよかったと感じられる古墳群でした。ガイダンス施設の古墳公園はにわ資料館も見応えがあります。残念ながらアクセスはよいとはいえず京都丹後鉄道与謝野駅からタクシーを利用するしかありません。10分ほどです(撮影日2015129日)。

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作山古墳群(丹後)基本データ

所在地 京都府与謝野町

形状 方墳(5号) 帆立貝式前方後円墳(1号)、円墳(2号)、方墳(3号)、前方後円墳(4号)

規模 5号方墳(一辺13m)葺石なし、1号帆立貝式前方後円墳(径36m、高さ4m)二段

築成、葺石、2号円墳(径28m、高さ3.5m)二段築成、葺石なし、3号方墳(一辺17m、高さ3m
葺石なし、4号前方後円墳(墳長30m、高さ3m)二段築成

築造時期 4C後から5C初、5号、1号、2号、3号、4号、5号の順

出土品 埴輪、1号墳からは銅鏡、石製品、玉類

史跡指定 国指定

特記事項 1号墳の埋葬施設は組み合わせ式石棺




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 今回の前期古墳は島根県安来市にある方墳2基です。造山古墳群の3号墳と1号墳(紹介順)。複数の古墳群からなる古代出雲王領の丘公園にあるいくつかの古墳群のうちのひとつです。頂上に登ると中海が眼下に広がる丘陵上に前方後方墳と複数の方墳が並びます。3号墳は38m×301号墳は60mもあります。前期古墳の方墳では全国で最大規模といわれ二段築成の様子が現在でもよくわかります。残念ながら墳丘に立つことにできる整備された3号墳と違い、1号墳は外周からの観察にとどまります。動画でおわかりのように谷越しに見る墳丘は、雑木林がおい茂り、よほど注意しなければ古墳であることはわかりません。3号墳や2号墳(前方後方墳)については標識がありますが、前期方墳では最大規模を誇るという肝心の1号墳は標識すらありません。1号墳は存在しないことになっている感じです。

安来市に電話してようやく見つけることができましたが、聞けば民間人の所有だからというものでした。市には所有者の方の理解を得られるよう粘り強い話し合いをお願いしたいと思いました。意外に思われるかもしれませんが古墳の相当数が民有地にあります。文化財として広く公開したいという考えの方ももちろんおられますが、既に耕作されている田畑の隅に古墳が造られている場合もあり、部外者に公開は難しいというところも多いようです。行政側が少しずつ古墳のある土地を買い上げて史跡整備にまでこぎつけたというところもあります。

 話が脱線しましたが、この出雲の古墳は、なるほどと思う特色があります。今回の2基もそうですが、方墳が多いのです。規模が被葬者の地位の裏付けという考え方からすれば、1号墳は当時の首長級の墓であったに違いありません。ということは前方後円墳、後方墳、円墳、方墳という古墳の一般的ランク付けは出雲では通用しそうにないということになります。ここで思い出すのは至近の距離に造られ既に紹介した時期的にはさらに古い塩津山1号墳(クリックすれば飛べます)も方墳でしたし、四隅突出の西谷墳丘墓(弥生墳丘墓)(クリックすれば飛べます)も、方墳の四隅の足をとれば方墳、いずれ紹介する造山2号墳は墳長50mの後期の前方後方墳です。全国的にみても後期に前方後方墳が造られるのは珍しく、同じ出雲の地域に墳長90mの山代二子塚古墳があります。方墳というのがこの地域のキーワードに思われます。荒島駅から今回の方墳2基がある古代出雲王領の丘公園から塩津山公園、宮山公園、仲仙寺公園と歩くのがよいでしょう(撮影2016511日)。

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造山古墳群(3号墳)(1号墳)基本データ

所在地 島根県安来市

形状 方墳

規模 3号墳 38m×30m 高さ不明、1号墳 60m 高さ5m(谷側二段築成)

築造時期 4C

出土品 銅鏡(三角縁神獣鏡)、太刀、玉類

史跡指定 国指定

特記事項 1号墳はこの時期で全国最大の方墳。民有地にあるために公園内案内図にも図示されていないので注意



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  JR中央本線の石和温泉から東南方向に5㎞ほどいったところに今回の終末期古墳、経塚古墳は山梨県森林公園 金川の森にあります。現地に赴いてもさほど標高は高いと感じられませんが348mもあると知っていささか驚きました。近くに笛吹川が流れ、今回の経塚古墳を含め後期から終末期の国分古墳群がこの地域には築かれています。墳丘は一つ前に紹介した白鳥陵の15分の1ほどですが八角墳という珍しい形式で全国でも12基ほどしか確認されていないようです。奈良県明日香村の天武・持統合葬墓がよく知られています。このブログでは兵庫県宝塚市の中山荘園古墳(クリックすれば飛べます)、群馬県藤岡市の伊勢塚古墳(クリックすれば飛べます)をすでにアップしていますが今回の経塚古墳は復元整備されたこともあり八角形が極めて明瞭に見て取れます。

 前方後円墳→前方後方墳→円墳→方墳の順に格付けがなされてきたというのが通説ですが、八角墳はどこに位置づけられるのでしょう。円墳の変形と考えるべきなのでしょうか。とはいえ八角墳が登場してしばらくたった7C後半以降はランクでは最高位となる天皇陵に特化されていくそうです(前述の天武・持統合葬墓の他、舒明、天智、文武陵)。それにしても八角墳の八角はどのような背景を持って生まれたのでしょう。現地案内板は中国思想、仏教思想の影響を指摘していますが、考古学者の土生田純之さんは、四方八方あまねく支配することの象徴という説、仏教の背景を紹介し、前者が現在では有力な解釈だと述べています(古墳の見方、ニューサイエンス社、2014)。

 残念ながら石室内部には入れませんが、羨道中途にある格子越しに内部を十分観察できます。石室の中央部が壁側に膨らむ胴張型であることも玄室が羨道より左右に広がる両袖式であることもわかります。

アクセスは石和温泉駅から岡銚子塚古墳のある八代ふるさと公園と経塚古墳のある金川の森公園までタクシーを利用しました。短時間で効率よくまわるには車がよいのでしょうが周辺の景色を観察する余裕がありませんでした(撮影2016年3月31日)。



経塚古墳基本データ

所在地 山梨県笛吹市

形状 八角墳

規模 直径12.5m 高さ2.2m

築造時期 7C

出土品 鉄斧

史跡指定 県指定

特記事項 全国で9例目の八角墳という珍しい墳丘の形


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   今回は大阪府羽曳野市にある古市古墳群の三回目として中期の墳長200mの白鳥陵と後期の墳長115mの清寧陵をセットとしてとりあげることにします。ともに前方後円墳です。いつもはご承知のように前期中期後期(終末期)をセットにしてアップしていますが、陵墓ないし参考地が大半を占める古市古墳群は墳丘に登ることはおろか近づくこともできません。そのため一回分を使うだけの素材が揃わないのです。極端にいえばどの古墳も地上から見る限り「同じ」に見えたりします。今回もそのおそれなしとはいえません。しかし、専門的にいえば白鳥陵(前の山古墳)も清寧陵(白髪山)も前方部が発達した時期の前方後円墳の典型とされています。

とりわけ清寧陵は前方部の幅が後円部径の二倍にも達しているのですから驚きです。残念ながら動画でその様子が手に取るようにはわかりません。googleyahooの地図検索で是非確かめて頂きたいと思います。

 おまけに規制がかかる前に開発がぎりぎり行われて民家が古墳を取り囲んでいます。清寧陵などなかなか全体像をつかむことがかないませんでした。古市古墳群には墳長425mの誉田御廟山古墳(応神天皇陵)を別格として200m超が6基、100m超が8基あり、これまで墳丘に登れる150m古室山古墳及び110m大鳥塚古墳(いずもれ古墳名をクリックすると飛べます)をアップしています。ただし、専門家は主軸の向きについて意味があるとは思えないとやはり今回のように遠くから眺めただけのものと違って古墳を実感できるよさがあります。興味深いことに白鳥陵、清寧陵、今回紹介していない駅の東側にある安閑天皇陵及び峯ヶ塚古墳(動画2の最後のキャプションで触れている)は後円部をいずれも東に向けています。ところで白鳥陵いわれの由来はは日本書記が「日本武尊は遠征の帰り道、伊勢の能褒野(のぼの)で亡くなり白鳥となって大和琴弾原(ことひきはら)を経由して古市に飛来し、また埴生野の空を向かって羽を曳くように飛び去った」と書き、それにちなんだものとされますが、記紀の記述の信ぴょう性はともかく白鳥陵は、羽曳野市とは別に奈良県御所市にも宮内庁が治定しているという事実はどう考えればよいのでしょう。陵墓といってもその程度のものだとすればまったく人々を寄せ付けない現状はどう考えてもおかしいと思わざるを得ません。いささか脱線しました。古墳自身にはなんの責任もありません。近鉄古市駅から西500mにある羽曳野市図書館に向いて歩きその途中、左手に白鳥陵が、さらに170号線を渡った先すぐのところに清寧陵があります(撮影2016926日)。




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白鳥陵(前の山古墳)(古市古墳群)基本データ

所在地 大阪府羽曳野市軽里

形状 前方後円墳

規模 墳長 200m、後円部径106m 高さ20.5m、前方部幅165m 高さ23.3m

二段築成、北側前方部寄りに造出し

築造時期 5C

出土品 円筒埴輪、家形、盾型など形象埴輪

史跡指定 宮内庁陵墓

特記事項 なし


清寧天皇陵(白髪山古墳)(古市古墳群)基本データ

所在地 大阪府羽曳野市西浦

形状 前方後円墳

規模 墳長115m、後円部径63m 高さ10.5m 、前方部幅128m 高さ11m

二段築成、北側に造出しあり

築造時期 6C

出土品 円筒埴輪、家形 朝顔等形象埴輪

史跡指定 陵墓参考地

特記事項 前方部幅が後円部径の二倍と前方部が極端に発達した前方後円墳




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  金沢から七尾線で1時間40分ほど。今回紹介する前期古墳 雨の宮古墳群のある能登部駅に着きます。能登半島を三分の一ほど北にあがったところといったらイメージがつかめるかもしれません。標高190mほどの眉丈山の尾根に位置する前方後方墳の1号墳からは、今では農業地帯となった七尾南湾につながる潟湖が見渡すことができたに違いありません。とにかく眺望がすばらしいのです。この立地からみて、当時最も重要だった運送手段である水運を支配した豪族が被葬者であることは十分に想像がつきます。ヤマト王権も、このルートの重要性をよく知り地域の支配者との関係を重視したのでしょう。銅鏡、短甲(胴を覆う多数の石釧(石製の腕輪)等の副葬品からもそのようにいえそうです。

興味深いのは、前方後方墳の1号墳の北東にある雨の宮2号墳は前方後円墳で、他の小規模な古墳も多数の円墳に加え方墳もありとバラエティーに富んでいることです。以前紹介した、宮城県名取市の前期古墳の飯野坂古墳群(クリックすれば飛べます)はいずれも前方後方墳だったことを思い出します。こうした違いにそれほど大きな意味はないと考えるべきなのか。よくわかりません。前期の前方後方墳で同様の規模といえば長野県松本市の弘法山古墳(クリックすれば飛べます)があります。丘陵先端に築かれているという点でも同様です。是非比較してご覧ください。

 雨の宮1号墳の墳丘は動画からわかるように葺石が一面に貼られていますが、興味深いのは後方部の前方部側斜面の左右に、他の石よりはるかに大きな石一つずつ置かれていることです。訪問は二度目ですが、前回は全く気が付きませんでした。前方部側からみると人の目のようにも見えるのですが・・・。また墳丘の整形は二種類の土を交互に突き固める版築技法が用いられているそうで当時の最先端の技術を利用しながら古墳は築かれています。1回目の訪問は春先ということもあり葺石の隙間からは草がだいぶ覗いていましたが、今回はすっきりした墳丘を堪能することができました。こうしてみると動画でも触れていますが、縦の区画が明瞭です。担当者がわかれていたということなのでしょうか。石川県能美市の秋常山古墳でも同様のことが観察できました(クリックすれば飛べます)。

 90年代後半に復元された墳丘の前方部裾左側には後方部にあった雨の宮のお社が移築されています。この古墳も神社によって長く見守られてきたことになります。雨の宮王墓の館のボランティアガイドの方に案内して頂いたので効率よく短時間でまわることができました(撮影日20161031日)。





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雨の宮古墳1号墳基本データ

所在地 石川県能登部町

形状 前方後方墳

規模 墳長64m、後方部辺43m 高さ8.5m、前方部幅31m 高さ5.5m

二段築成、葺石あり

築造時期 4C

出土品 銅鏡、石釧など腕輪形石製品、短甲、銅鏃、太刀、鉄鏃

史跡指定 国指定

特記事項 後方部頂に二基の埋葬施設



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今回は既に紹介した今市大念寺上塩治築山古墳(いずれもクリックすれば飛べます)の石室に続く出雲市にある後期古墳石室、上塩治築山古墳です。まだ妙蓮寺山古墳、上塩治地蔵山古墳(いずれアップします)をアップしていませんが、どうして古墳時代後期にこれだけ立派な石室をもった墳墓が集中して出雲の地域に築かれたのか謎は深まるばかりです。畿内の古墳にも石棺が残っているところは数多くありますが、狭い地域に集中してこれだけ特徴のある石棺が揃い、どれも入室して観察できるところはないと思います。その意味でも貴重です。

ただ今回の宝塚古墳は方墳か円墳かもわからないほど墳丘の損傷が激しく、羨道の天井石も崩れ落ちているのが残念です。もっとも切石積みの石室内部及び石棺は上塩治築山古墳同様に高度な技術が用いられていることが誰にでもわかる素晴らしいものです。武骨な自然石が積まれた壁も個人的には好きですが、凝灰岩の切石積みは加工技術の進歩をうかがわせる恰好の材料です。今回の石棺も今市大念寺、築山と同様、横口式石棺で大きく長辺の一つが刳り貫かれています。ここから被葬者の魂は棺の内外を行き来したということなのでしょう。

アクセスは簡単です。JR山陰本線西出雲駅のホテル前の道を277号線まで進み北東方面に800mほどで左に出雲西高校が見えます。高校方面に左折すると動画1の光景がみえます(撮影2016年5月12日)。



宝塚古墳(出雲市)基本データ

形状 方墳か円墳か不明

規模 不明 石室 長さ3.6m、幅2m、高さ2.5

築造時期 6C

出土品 不明

史跡指定 国指定

特記事項 なし



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 震災から半年を過ぎた熊本。上空から見た空港近くは屋根を覆うブルーシートが痛々しく、その爪痕の大きさに改めて驚かされます。ところが地域によってその被害の状況は全く違います。今回訪れたところは熊本市中心部から北に25㎞ほどのところです。 
 二度目の訪問で願いはかなったのでしょうか。その理由は後述するとして今回の古墳は中期と後期の境目(今回は中期に位置づけました)に造られたと考えられる熊本県玉名郡和水町にある江田船山古墳です。古墳時代に残る数少ない文字資料のひとつが出土したことで有名です。鉄剣に銀象嵌された75字から雄略天皇(5C半ば)に文官として仕えた人物が被葬者であることが明らかになっています。そのほか、発掘された銅鏡、冠、耳飾、玉、武具、馬具、鉄鏃等から、被葬者が朝鮮半島、大陸との交流を行っていたとみられています。それら国宝指定された出土品は東京国立博物館で展示され、その様子は和水町HPの動画で確認できます。

 豪華な副葬品が収められていた石棺のある石室は動画1でわかるように後円部西側に開口しています。なんとも無粋なコンクリートの入口が残念としか言いようがありません。とはいえ初期の古墳整備のスタイルは宮崎県の西都原古墳群も和歌山の岩橋千塚古墳群も同じで要塞を思い出させます。現在であれば墳丘と馴染む整備保護を考えるに違いありません。さて一度目の訪問ではガラス越しに見えるはず石棺が結露のために全く見えなかったのです。満を持して季節を変えて訪れたのですが、なんとまあ、今回も動画3で見るように家形石棺は水中に沈んでいるが如くでした。聞けばワイパーがすぐ壊れてしまい現在修理依頼中ということでしたが折角、遠路はるばる来たのにと愚痴も言いたくなります。それでも、なんとなくイメージはつかめる動画が撮れた気がします。動画3の終わりのほうに目をこらしてみると屋根の部分の突起に朱が残っていることがわかります。

 動画1でご覧いただいた墳丘は残存する二段、三段目は自然のままに(変形している)し、一段目は復元整形したのだそうです。樹木が生い茂る墳丘は枝ぶりの良い盆栽をみるようでまことに美しい。墳長は62mしかありませんから決して大きいとはいえません。それでもこれまでアップした同規模の中期の前方後円墳の静岡県の三池平古墳(クリックすれば飛べます)と比較すると江田船山のほうが大きくみえます。周囲に遮るものがないせいでしょうか、あるいは広いところでは13mもある周溝のせいなのでしょうか。

 アクセスはJR玉名駅から1-2時間に1本出てる産交バスに乗り菊水ロマン館下車徒歩5分。

道路沿いに大きな看板があります(撮影日2016年10月25日)。
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江田船山古墳基本データ

所在地 熊本県和水町玉名郡和水町

形状 前方後円墳

規模 墳長62m、後円部径41m 高さ10m、前方部幅40m 高さ7.5m 三段築成

築造時期 5C

出土品 鉄剣、銅鏡、冠、耳飾、玉、武具、馬具、鉄鏃等

史跡指定 国指定

特記事項 本文中で触れた銀象嵌銘鉄剣の製作者も文字を書いた人物名も記されている


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  古墳時代に関心をもちはじめて暫くたった頃、卑弥呼が眠るともいわれる墳長280m箸墓古墳(クリックすれば飛べます)につぐ大王の墓はどこにあるのだろうと思っていたところ、それらは三輪山を東に望む奈良盆地のごく狭い地域(10㎞×3㎞)に密集していることを知り驚いた記憶があります(簡単な地図と古墳の位置関係をJR桜井線とともに記してありますので参考にしてください。)3C央から100年の間に墳長200mを超える前方後円墳がこの地域に6基も築造されています。いずれも前期古墳に属し今回のメスリ山古墳は墳長224mを数えます(その後の調査で250mとの見方もあります)が、築造順では4番目になります。

 興味深いことに既に紹介した桜井茶臼山古墳(クリックすれば飛べます)とともに、今回のメスリ山古墳は陵墓指定されておらず本格的な調査も行われ、一般人の我々も墳丘にも登れる国指定の史跡です。古事記や日本書紀、さらには律令時代の施行細則の延喜式にもメスリ山古墳に関する記述はないそうです。実に不思議です。それはともかく墳長200mクラスで墳丘を実際に体感できる古墳の数は限られており、その意味でも実に貴重です。もっとも既にご存知の方も多いと思いますが、墳頂の埋葬施設(動画2でその天井石を映しています)から豊富な副葬品が発掘され、とりわけ未盗掘の副室からは大量の武器が出土し、また、埋葬施設を囲む方形の区画には高さ2m42㎝口径1m31㎝胴部径90㎝の最大規模のものを含む特殊円筒埴輪と円筒埴輪107本が立ち並んでいたそうです。その壮観な様子の復元図は橿原考古学研究所付属博物館(近鉄橿原線畝傍御陵前下車、徒歩5分)でその巨大な円筒埴輪とともにみることができますが、是非、メスリ山の墳頂に立ち、その姿を想像することをお勧めします。博物館のスペースでは現地の空間を表現することは難しいからです。

 肝心の墳丘ですが動画からも三段築成の後円部、二段築成の墳丘がよくわかります。ただし公園になっている北側からのみの景色で、八坂神社がある南側は民家が立ち並び一望することが難しいように思われました。また、高さ20mあまりの後円部の斜度はかなりあり葺石がゴロゴロしていることもあったかなり歩きにくいです。ただ、頂上にたどり着くとその広さに驚くこと間違いなしです。長さ6.75m1m強の竪穴石室の天井石がそのまま見ることができる機会もそう多くはありません。埋め戻された石室は高さ1.6mほどだったそうです。これらの画像を含む情報は千賀久さんのヤマトの王墓(新泉社、2008)が詳しいです。季節を変えて何度か訪れましたが、やはり木々の葉が落ちた晩秋から冬がベストでしょうか。アクセスは非常にわかりやすいです。JR桜井駅(近鉄でも)南口から南下する道を1㎞ほど奈良情報商業高校を目指し直進します。高校の前を東西に走る道の正面にみえる森がメスリ山古墳です。駅から徒歩20分ほどです(撮影2016224日)。
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PNG  オオヤマト古墳群の大型墓 図



メスリ山古墳基本データ

所在地 奈良県桜井市高田

形状 前方後円墳

規模 墳長228m、後円部径128m 高さ19m、前方部幅80m 高さ 8m

後円部三段、前方部二段築成、葺石あり

築造時期 4C

出土品 内行花文鏡、三角縁神獣鏡の破片、石釧、鍬形石、車輪石、椅子形石製品、櫛形石製品、石製合子などと玉類及び刀剣、副石室からは鉄矛(鉄剣形の槍先)236本の銅鏃、50本の石鏃、鉄製矢5本等

史跡指定 国指定

特記事項 メスリ山古墳のいわれははっきりしていないが、メスリはメグルが訛った者との解釈もあるようだ。



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 今回の後期古墳、江崎古墳は既に紹介した吉備の造山古墳作山古墳こうもり塚古墳(いずれもクリックすれば飛べます)からほど近いところにあります。こうもり塚古墳から吉備自然歩道を西に歩き備中国分寺を過ぎて北に500mほど上がったところにあります。住宅街の突き当りの丘陵の端に目指す江崎古墳はありました。動画3の後半がその姿を伝えています。ただ、墳丘は後円部から前方部にかけてかなりなだらかな印象があり、後円部の高さが5.2mもあった築造当時の様子は残っていません。興味深いのはこうもり塚もそうでしたが後期の前方後円墳であるにもかかわらず前方部は未発達です。この地域に特有な築造様式だったのでしょうか。

 石室は残念ながら入室がかなわず格子越しの撮影となりました。そのために両袖式の玄室の様子もよくわかりませんでした。こうもり塚古墳よりも石室の長さは5mほど短い13.8mです。動画からもわかるように玄室の天井の板石はコンクリート製(?)に変えられ明かり取りの穴がもうけられています。とはいえ6個の縄掛け突起をもった家形石棺の姿はきちんと確認することができました(動画2でじっくり見て頂きたいと思います)。発掘調査時に二体の成人男女性と思われる人骨とともに多数の副葬品が出土しているそうです。

 アクセスは冒頭に書いたとおりです。総社駅から吉備自然歩道を江崎古墳、作山古墳、こうもり塚古墳、造山古墳の順に歩くのもよいかもしれません(撮影2016222日)。
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江崎古墳基本データ

所在地 岡山県総社市

形状 前方後円墳

規模 墳長45m、後円部径32m 高さ5.2m、前方部幅25m高さ1.2m

長さ13.8mの横穴石室が後円部に存在。2.38m 幅1.4m 高さ1.31mの家形石棺あり

築造時期 6C

出土品 埴輪、馬具飾金具、銅鏡、刀剣、鉄鏃等製品、須恵器、土師器

史跡指定 県指定

特記事項 男女二体の人骨が出土



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大阪方面からJR阪和線に乗り百舌鳥駅で下車すると踏切を越えた右後に仁徳天皇陵(大仙古墳)が見えます。踏切を越えず左に100mほど歩くと目指す御廟山古墳の緑濃い墳丘が住戸の間からのぞきます。うーん。幅広の周濠に囲まれた墳長203mの前方後円墳は動画でご覧頂ければわかるように堂々たるものです。くびれもよくわかります。北側前方部寄りから接近したのですが、中期特有の前方部の発達ぶりも確認できます。百舌鳥古墳群の中では仁徳陵履中陵土師ニサンザイ古墳(いずれもクリックすれば飛べます)に次ぐ規模です。既にアップ済みのいたすけ古墳よりは50mほど大きくなります。残念ながら百舌鳥古墳群の大半の大型前方後円墳がそうであるように、御廟山も宮内庁が陵墓参考地に指定しています。なんと応神天皇の墓の第2候補だというのです。現在の応神天皇陵が誤りであった場合に代わって御廟山古墳が応神天皇陵として繰り上がるわけですが、なんとも不思議です。

 加えて宮内庁管理(濠は堺市)のために墳丘に登ることはもちろん、一般人には接近することも叶いません。仁徳天皇陵、履中陵と既に紹介した墳丘と美しくはありますが同じように見えるのはそうした根本的な問題にありそうです。当然、発掘調査は行われておらず埋葬施設も副葬品もわかっていません。ただし護岸工事のために宮内庁と堺市が行った調査から円筒埴輪列、葺石が確認をされています(御廟山古墳の発掘成果、堺市)。5C半ばの築造でも埴輪の特徴から仁徳天皇陵よりも古いと専門家はみているようで倭の五王の側近の墓ではないかと考えている人もいるようです。そこまでわかってなぜそれ以上発掘調査ができないのか隔靴掻痒の感は免れません。なお、御廟山のいわれは応神天皇の御廟というところにあるようです。アクセスは冒頭に書きました(撮影2016525日)。
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御廟山古墳基本データ

所在地 大阪府堺市

形状 前方後円墳

規模 墳長203m、後円部径113m 高さ17m、前方部幅136m 高さ17m

三段築成、葺石あり

築造時期 5C

出土品 円筒埴輪

史跡指定

特記事項 百舌鳥古墳群中第4位の墳長



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