古墳を動画で見るサイト guami_38_36のblog

なんでも実際に見てみないと気が済まない私。古代史初学者として3世紀中頃から7世紀初頭にかけて東北から九州まで造られた5200基もの古墳の内、墳丘が残り実際に墳頂まで登れるものを訪ねはじめました。2011年秋のことです。既に先輩方が古墳のブログやHPを立ち上げられて今でも大いに刺激を受けています。ただ、権力者がなぜこれほど大きな構築物を造ったのかに興味がある私には、残念なことに大半の画像が静止画であるためにそのスケール感が伝わってきませんでした。偶然、動画で撮ってみたら案外いける。そんな思いで撮りためた古墳動画を見て頂くことにしました。素人の撮影ですから、古墳マニアや専門家の方々からは厳しいご指摘はあるかと思います。ブログでは基本情報とともに一つの古墳に3-5本程度の動画(各1分以下)を用意しました。この素人の試みが古墳を具体的にイメージする一助となれば幸いです。

■古墳時代の時期区分
 このブログでは古墳時代を広瀬和雄さん(国立歴史民俗博物館名誉教授)が通説として紹介している古墳時代を前期(3C中頃から4C後半頃)、中期(4C末頃から5C後半頃)、後期(5C末頃から7C初め頃)、終末期(7C前半頃から8C初め頃)に区分して捉えています(前方後円墳の時代、岩波新書、2010年)。
■アップの順番
 前期⇒中期⇒後期(終末期)の古墳を一基ずつワンセットにして全国の古墳を網羅することを目指しています。三基の古墳には何ら有機的な関係はありません。一つの地域に集中して前期から終末期まで掘り下げて見るのが一般的ですが、敢えてそうしなかったのは古墳時代の前期、中期、後期に全国でどのような墳墓が築かれたかを知りたいと思ったからです。古墳の築造年代は専門家の間でも様々な意見があり実年代を確定することが如何に困難なことかは承知しています。そのような限界の下でも古墳を横断的にみると今まで見えてこなかったものが見えてきたような気がします。専門分野外の古墳時代に関心を持ちはじめて日も浅い者ならではの冒険です。
■ご覧になる方法
最新記事12件についてはそのまま下にスクロールすれば見れます。各都府県別古墳は右の一覧をクリックしてください。文中にも関連の古墳に直接飛べるようにリンクを貼ってあります。

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  栃木県壬生町の牛塚古墳(クリックすれば飛べます)と巨大円墳丸塚古墳(いずれアップします)を見学した後、両古墳の間の道を500mほど南下すると(一つ信号があります)、結構大きな敷地をもつ地元企業が左手にあり、目指す壬生愛宕塚古墳はその真裏にありました。こんもりした森が目印です。

 雑木林に一歩足を踏み入れるとそこは動画1のような異空間が広がっていました。個人的に雑木林が好きなので思わず嬉しさのあまり息を飲みました。静謐の一言です。周濠を囲むようにぐるっと回る周堤が墳長80mに欠ける前方後円墳の墳丘をより大きく見せています。東国の後期古墳の多くに採用されている段築の一段目が広いのです。どこかで見た古墳に似ています。そうです。群馬県大室古墳群の中二子古墳です(クリックすれば飛べます)。周堤、周濠、それに幅広の広い段築一段目のテラス。墳長111mと一回り大きい中二子古墳と壬生愛宕塚古墳、是非、比較してご覧ください。中二子古墳の周堤には復元された円筒埴輪が立ち並んでいましたが、壬生愛宕塚古墳も周堤、テラスに数多くの円筒埴輪や人物埴輪がみられたそうです(訪問後の2017年夏に周堤、周濠の調査が行われましたが、今回の記述を大きく変える結果はなかったようです)。築造時期は畿内では前方後円墳の築造が下火になりつつある頃の6C後半で、東国ではまだまだ相当規模の前方後円墳が造られます。なお、今回の壬生愛宕塚は三基の中では最も早く、次に牛塚、そして最後に超大型の円墳、車塚古墳が造られます。

 墳丘自身は前方部が極端に発達した典型的な後期古墳ですが、本来ならば後円部にありそうな愛宕神社社殿がなんと前方部にあります。後円部では十分な敷地が確保できなかったからではないでしょうか。神社は元禄7年(1694年)壬生藩主だった松平輝貞が壬生城の魔除けとして建立したと伝えられています。壬生城址には壬生町の歴史民俗資料館があり、牛塚、車塚、愛宕塚古墳などの道順の確認や資料入手に便利です。月曜休館です。壬生駅まで東武宇都宮線で行き、北東方向1㎞にある歴史民俗資料館にまず寄るというのがベストでしょう。

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壬生愛宕塚古墳基本データ

所在地 栃木県壬生町

形状 前方後円墳

規模 墳長77m 後円部径 34m 高さ5.5m、前方部幅46m 高さ5.5m

築造時期 6C

出土品 円筒、盾持ち人埴輪

史跡指定 国指定

特記事項 牛塚、車塚古墳とセットでまわるのがお勧めです



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近鉄奈良線の瓢箪山駅から真東に1㎞ほど。山の中腹に東大阪市の郷土博物館があります。後ろには生駒山系が広がるかなり急な斜面を登ることになります。ここに6C後半から7C初頭にかけて山畑古墳群は築かれ続けたようです。もとは横穴石室を持つ小規模の円墳を中心として100基ほどあり、開発の進んだ今でも70基ほどが確認できるそうです。郷土博物館の敷地内には。今回は、山畑21号墳と22号墳(クリックすれば飛べます)に続いて上円下方墳というかなり変わった墳丘をもつ2号墳を紹介します。

是非とも見て頂きたい横穴石室です。とにかく巨大。墳長は16.6mあり、聞けば八尾市の愛宕塚古墳につぐ大阪府で第二位の規模だそうです。これまで紹介した奈良県桜井市の赤坂天王山古墳や岡山県総社市のこうもり塚古墳など、より大きな横穴石室もありますが

それらに引けをとらないといってよいでしょう。大王墓が前方後円墳から方墳、そして八角墳に移行するなか、円墳、方墳のような単純な墳丘ではなくのちの天皇陵にも採用される上円下方墳が用いられているのです。残念ながら残存する墳丘は円墳にしかみえません。

それに一辺は28mと小さな方墳の上に14mの円墳が載るという小規模なものです。それにしては石室が異常ともいえるほど巨大です。既にアップし復元された姿を確認できる東京の府中熊野神社古墳もほぼ同規模ですが、方墳の部分が二段になっている点で違いがあります(クリックすれば飛べます)。残念ながら山畑2号墳のほうは段築はなく、東大阪市郷土博物館の方のお話では、基壇となる方墳を造っている間に横穴石室を造り、その上に円墳を重ねたと考えられるとのことです。なお石室は動画キャプションではアバウトに書きましたが、石室長は16.6m 玄室長6.4m 幅(最大幅)2.5m、高さ3.1mです。羨道は10.2mあり、手前半分ほどの天井板石が崩落しています。石材は生駒山系で産出する斑糲岩(はんれいがん)いう表面がでこぼこした石を用いています。山畑古墳群の他の古墳同様、馬具関連の副葬品(鞍金具)が出土しているところから被葬者は馬飼部を率いた渡来系の人物だとみられています(撮影日2016927日)

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能美市の歴史民俗資料館の東側の尾根に広がる和田山古墳群(小型の円墳)は比較的こぶりの円墳が連なります。やはり二度目は勝手が違います。どこに何があるか大凡の見当がつきます。そう静止画像しか前回は撮らなかったので再訪なのです。ところが生憎の春の雨。花時雨(はなしぐれ)というのでしょうか。それもあってか人には出会わず、春の終わりを独り占めしました。

1号墳から12号墳まで連なっているので5号墳は丁度真ん中あたりにありそうですが、尾根を降り切ったところの独立した丘陵頂上にあるのです。如何にも他の古墳を従えているといいった印象をもちます。5号墳が和田山古墳群では唯一の前方後円墳で規模も56mと比較的大きめなこともそうした見方を裏付けるような気がします。そして何より出土した副葬品の大半が武具だったことに驚かされます。動画4に見る短甲をはじめ槍、鉄刀、鉄剣、鉄槍、鉄鉾、矢束等が二つの粘土郭の埋葬施設から出土しています。現地の説明板によれば、現在までこれほど豊富に武具等が埋葬されていた例は日本海側では和田山5号墳だけだそうです。5C中頃、軍事部門を担当していた豪族で、朝鮮半島への出兵にも功があったのかもしれません。

再訪してよかったと思ったのは、前方部が異常に発達していて中期の一般的な前方部の発達ぶりをはるかにしのいでいる点が、草に覆われた夏ではよくわからなかったのです。今回、それがはっきりと目に飛び込んできました。独立丘陵の頂上という敷地の制約も後円部面積を十分にとれなかった理由かもしれません。

能美古墳群では既に秋常山1号墳秋常山2号墳を紹介しています(古墳名をクリックすれば飛べます)。道を隔てた徒歩で10分ほどのところにあります。是非、比較してご覧ください。秋常山のほうが早く築かれたと考えらているようですが、だとすれば両者はどのような関係にあったのでしょう。そうしたことに思いを馳せるのも楽しいですね。アクセスはJR小松駅から寺井史跡公園行き小松バスで30分ほど。昼間に5-6本、あります。バス停前に消防署があり、その裏に能美市歴史民俗資料館があります。パンフレットなどが入手できます。和田山古墳群はその東側にあります(撮影2017年4月12日)
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和田山5号墳基本データ

所在地 石川県能美市

形状 前方後円墳

規模 墳長56m 後円部径29m 高さ5m、前方部幅47m 高さ4m

周濠なし

築造時期 5C

出土品 三角板鋲留短甲、鉄刀、鉄剣、鉄槍、鉄鉾、矢束等武具多数 埴輪なし

史跡指定 能美古墳群として国指定

特記事項 秋常山古墳群とトータルで観察の必要



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  今回紹介する前期古墳は墳長約75mの前方後方墳の桜井古墳です。JR常磐線の原ノ町駅の東1.5㎞ほどの新田川を見下ろす台地に位置しています。2011311日、東日本大震災による高さ10mほどの津波が桜井古墳を襲ったことは報じられていたので、いずれは訪れたいと思っていました。海からは3㎞ほどのところです。既に紹介した宮城県岩沼市の亀塚古墳も近くまで津波が押し寄せたことは知られていますが、桜井古墳の場合、墳丘の目の前まで津波が押し寄せ、周囲はガレキの山という状況だったようです。

震災から6年半、ようやく現地を訪れることができました。道を尋ねた古老は新築された家を指しながらあそこでも二人が犠牲になったよと話されましたが、もちろん、当時の爪痕は残っていません。南相馬市の文化財担当の方の話によれば津波は動画4に示すように河川敷ギリギリで止まり、墳丘には押し寄せることはなかったようです。新田川を支配していたはずの二人の被葬者はどのような思いでこの大津波を見ていたのでしょうか。

肝心の古墳ですが、前方後方墳ということがよくわかる復元ぶりです。後方部は一辺45m47m。南北がやや長い方形で高さは6.8mもあります。たしかに後方部から見る高さ3mしかない前方部はかなり傾斜がきつくみえます。前方部幅は30mしかなく全体としてきれいなバチ型をしています。本格的な発掘調査は行われていませんが、割竹形の木棺が二基、後方部頂にはあったようです。陥没した坑から推定しています。二基というのも興味深いところです。どのような関係にあった二人なのでしょう。墳丘は緑濃く形状を観察するにはギリギリのタイミングでした。やはり草が枯れた冬場がベストです。ただし、青空がのぞいたということもあり、保護色に染まった墳丘はなかなかの風情でした。

なぜ前方後円墳ではなく前方後方墳なのでしょうか。既に紹介した中通り(福島は西から会津、中通り、浜通りと三区分されている)の大安場古墳(クリックすれば飛べます)が前方後方墳でした。今回は太平洋岸に近い浜通りで前方後方墳です。なにか理由があるのでしょうか。思い出すのは下野(栃木県)では駒形大塚那須八幡塚上侍塚下侍塚古墳(いずれもクリックすれば直接飛べます)などが前方後方墳としてこの頃に盛んに造られています。相互に交流があったことが考えられます。

葺石、埴輪はなく他方、動画からおわかりのように後方部は三段築成、前方部は無段です。

周濠があったといわれていますが、河川敷側はかなり狭く、どのように巡っていたのか気になるところです。出土品としては底に穴の開いた(底部穿孔)壺が知られています。

 今回は、前方部西側の径20mの円墳と後方部東側の一辺27.5mの方墳も動画5で紹介しています。アクセスは冒頭に書いたようにJR常磐線原ノ町から歩くのがベストです。駅東側に通る県道12号線をひたすら東に南相馬警察署まで歩きその200m先を左折したところに古墳公園があります。徒歩30分程度です。バスは一日2便程度しかなく使えません。

それにしても東京からの往復は不便です。仙台まで新幹線で行き常磐線で東京に戻る形になります(撮影、201795日)
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桜井古墳基本データ

所在地 福島県南相馬市原町区

形状 前方後方墳(1号)、円墳(2号)、方墳(7号)

規模 1号 後方部 一辺45m×47m 高さ6.8m、前方部幅30m 高さ3m

2号 円墳 径20m 高さ2m7号一辺27.5m 高さ3.3m

築造時期 1号、7号 4C後半、2号5C

出土品 1号 穿孔壺、2号 鉄剣破片、7号 銅鏡、赤色顔料、土師器(高坏、器台等)

史跡指定 1号 国指定 2号 7号 市指定

特記事項 なし




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宮崎県西都市にある国の特別史跡西都原古墳群の三回目です。一回目は前期古墳の35号墳と13号墳(古墳名をクリックすれば飛べます)を紹介しましたが二回目は群中最大規模の前方後円墳陵墓参考地の女狭穂塚、男狭穂塚古墳の陪塚と考えられている円墳169号墳でした(クリックすれば飛べます)。今回は206号墳に指定されている鬼の窟(いわや)古墳です。

 動画3の遠景でおわかりのように周囲の堤のせいでしょうかまるで要塞のように見えます。円墳の高さは7.3m、径は36.4m×33.6mとややいびつです。動画キャプションはアバウト表記です。北郷泰道さんの『西都原古墳群』(同成社、2005年)によれば二重目の周濠がめぐり、内堀から外堀に向けた排水施設が確認されています。その部分に表示があるのに気が付きました。副葬品は盗掘のためかほとんど残されていなかったようで石室からは馬具の破片や釘および、須恵器、土師器が出土しているだけのようです。玄室は羨道より幅の広い両袖型ですが(動画2の最後で紹介)、石室内の照明が大きすぎて、この石室の特徴が

わかりずらくなっています。

 円墳を囲む周濠の外側にさらに周る堤。実に印象的です。これまで数多くの円墳を紹介してきましたが、こうした光景に出会ったことはありません。動画3で多少映っていますが、黄金色の菜の花とのバランスが絶妙です。西都原古墳群を紹介するときに必ずといってよいほど使われる理由がよくわかります。他の地域であれば円墳の周囲には建物が立ち並び

眺望を妨げますが、さすが特別史跡です。西都原古墳群見学にはアクセスは宮交シティから一日2本出ている西都原考古博物館直行バス(復路も2本)を利用するのが便利です。1時間15分かかります(撮影日2017323日)。
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鬼の窟(いわや)古墳(169号墳)西都原古墳群(3)基本データ

所在地 宮崎県西都市

形状 円墳 二段築成 二重の周濠、周堤

規模 径36.4m×33.6m、高さ7.3m

築造時期 6C

出土品 石室内から馬具片、棺釘、須恵器・土師器

史跡指定 国の特別史跡

特記事項 現在まで西都原古墳群中 唯一の横穴石室



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  JR桜井線沿いには数多くの古墳が築かれています。これまで紹介したものだけをあげるだけでその多さに改めて驚きます。北から並べると下池山古墳中山大塚古墳黒塚古墳、崇神天皇陵(行燈山古墳)、櫛山古墳纏向石塚古墳纏向出現期古墳(矢塚古墳、勝山古墳、東田大塚古墳)、ホケノ山古墳それに箸墓古墳になります(古墳名をクリックすれば直接飛べます)。いずれも出現期を含む前期古墳です。ところが今回の珠城古墳群は中期を飛び越して6Cの前期から後期にかけて造られた前方後円墳なのです。中期に位置づけられる古墳は西山塚古墳しかありません。なぜこれほど密集といってもよいほど前期古墳が造られた三輪山の麓、奈良盆地東南部にパタリと古墳が造られなくなったのはどうしたことでしょう。専門家ではなくとも権力の移動があったのではないかと推察することは可能です。少なくともこの地域に古墳を築こうとは思わない権力者が新たに登場したといえないでしょうか。既に紹介している佐紀古墳群の古墳の被葬者たちがその候補になります。そして6Cになると規模は小さいものの豪華な副葬品が出土した今回の珠城古墳群が巻向に造られました。

 こぶりとはいえヤマト古墳群では観察が不可能だった石室、それも横穴石室が見られるという点で1号墳は特に貴重です。石室自身は動画1でおわかりのように、自然石を使用した素朴なもので平面加工などは丁寧にはされていません。豪華な副葬品が出土した組合式箱式石棺は橿原考古学研究所の敷地内に移築されています(動画2の最後)。石室、石棺からは挂甲、刀子、ガラス製小玉、環頭太刀、武器類、工具類、金銅製勾玉などが含まれます。3号墳からも太刀類、挂甲小札、鉄鏃、杏葉が出土しています。埋葬施設が不明の2号墳は前方部の高さが印象的で後期古墳の特徴を見た気がしました(動画3)。なお、前方部端からの眺めは素晴らしいのひとことです。アクセスはJR桜井線巻向駅から県道129号線に出て北に上り辻北の交差点を東に歩くと左手にみえます。(20151028日、201759日)。

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  墳丘の上を歩く、石室の中を観察するというこのブログの趣旨からすれば必ずしも相応しい古墳ではないかもしれません。しかし200mを越える二つの古墳が寄り添うように並んで造られている点はビジュアル的にも見事で濠に沿ってあるく価値は十分にあります。しかも百舌鳥・古市古墳群の大型古墳の周囲とは違い、人の声もはっきり聞こえるほどの静謐さに包まれています。視界を妨げるような建物もまったく見られず別世界に飛び込んだ感じがします。まだ紹介していないより大型の佐紀古墳群の五社神古墳の周辺と比べても、

違いは大きいと思います。墳丘には登れないし、全体を見渡すこともできないという大きなハンディがあるにもかかわらず、是非、一度は足を運んで頂きたい古墳です。

 それにしても道路一つ隔てて二つの、いや今回紹介していない佐紀高塚古墳を入れれば三基がジグゾーパズルのように入り組んでいるわけですが、どのような理由があるのでしょう。専門家の調査によれば陵山古墳の後円部をよけるようにして石塚山古墳が造られたために濠が細くなっているそうです。このことから陵山のほうが先に造られたことがわかっています。繰り返しますが残念なことに全体を見渡すことはまったくできませんが、せめて動画1で二基の古墳の寄り添う姿をご確認ください。

 なお佐紀古墳群では既に瓢箪山古墳塩塚古墳(クリックすれば飛べます)を紹介しています。是非、合わせてご覧ください。略図に今回の古墳と他の佐紀古墳群の位置関係を示してあります。近鉄平城駅から徒歩10分です。(撮影2016118日)。
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名古屋市の中心熱田神宮には愛知県で最大墳長を誇る151mの前方後円墳断夫山古墳があります。しかし6C後半の築造の後期古墳。前期古墳ではそこから北東方向に30㎞ほど行った標高198mの東谷山(とうごくさん)の麓に墳長115mの白鳥塚古墳があります。(犬山市に墳長123mの前期古墳青塚古墳があるので白鳥塚は県下では第二位の大きさ)。

 東谷山麓には数多くの古墳が築かれ、白鳥塚古墳はじめ山頂の尾張戸(おわりべ)神社古墳、中社古墳、南社古墳、志段味(しだみ)大塚古墳、勝手塚古墳、東谷山白鳥古墳などが国の史跡に指定され地名を冠し志段味古墳群と呼ばれています。それにしても地名をどう読むか戸惑うことが多いですね。

 目指す白鳥塚古墳はJR高倉寺駅からさほど遠くないところにありました。南下し庄内川を渡ると愛知県立大学の守山キャンパスの校舎が見え、道を挟んだところに古墳公園として整備されています。すぐ気が付いたのは(動画1)前方部の高さが後円部のそれよりもずっと低いことでした。前方部の幅も後円部径よりもぐんと狭く後円部径75mに対して40mしかありません。前期古墳だなとすぐにわかります。

後円部に登ってみると埋葬施設が図示されているのかと勘違いした石英の石片が円形状に並べられていました。埋葬施設がないわけはないと思うのですが発掘調査が近年は行われていないのでよくわからないそうです。とはいえ白鳥の名は墳頂が石英の小礫で覆われたからともいわれています。墳頂以外の墳丘全体は川原石で覆われていたようでかなり葺石は残っていますし、くびれ近くの部分は動画2にあるように復元され、全体をイメージするのに役立ちます。

 白鳥塚こふんと同様に4C央から後半の築造と考えられているこれまでアップした古墳をいくつか紹介しておきます。佐賀県の金立銚子塚古墳(以下、いずれも古墳名をクリックすれば飛べます)、岐阜県の昼飯大塚古墳、山梨県の甲斐銚子塚古墳、山形県稲荷森古墳などがあげられます。いずれも墳長100mを越えるかやや欠ける規模のもので大型といってよいと思います。比較してご覧ください。アクセスは冒頭に記したとおりです(撮影2017314日)。

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白鳥塚古墳基本データ

所在地 愛知県名古屋市守山区

形状 前方後円墳

規模 墳長115m、後円部径75m高さ約15.2m(北)12.6m、前方部幅40m 高さ6.7m(北)5m(南) 後円部三段、前方部二段 葺石あり

築造時期 4C

出土品 不明

史跡指定 国指定

特記事項 なし



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  これまでさきたま古墳群を一基ずつ紹介してきましたが、今回は群の南側(博物館を右手に見た奥)の三基をまとめて見ていただこうと思います(図参照)。さきたま古墳群といえば、観光客はじめ古墳マニアが多数訪れる古墳群として有名です。とりわけ日本最古の文字資料ともいえる金錯銘鉄剣が出土した稲荷山古墳には多くの人が墳丘目指して列をなしています。ついで墳丘の後円部が展示館になっている将軍山古墳、巨大な円墳の丸墓山古墳も人気です。丸墓山古墳の動画でおわかりのように墳頂からは古墳群の半分ほどの地域を見渡すことができます。さらに古墳群は南に広がっており、そこから愛宕山、奥の山、鉄砲山の三基の前方後円墳を取り上げます。残念ながら県立さきたま史跡の博物館(国宝の鉄剣を展示)を見ると満足する人々が多いのか、こちらの三基には人がほとんどいません。見応えがある墳丘なのに勿体ないですね。

肝心の築造時期ですが、6C、前半の愛宕山、中頃の奥の山、後半の鉄砲山の順で造られたと考えられています。近畿地方では次第に前方後円墳の築造は下火になった頃、すでにどこかで触れたように、東国では盛んに造られ、その一例が今回の三基になります。とりわけ鉄砲山の墳丘は109mと大型です。すでにアップした120m稲荷山(以下古墳名をクリックすれば当該頁に飛べます)、135m二子山を加えるとさきたま古墳群には5Cの終わりから6Cにかけて三基もの大型墳が造られていることになります。しかも径100mもある円墳 丸墓山もその間に造られているのです。ただただ驚きます。

今回の三基を含め墳丘周囲には二重の濠が巡っていたことがわかっています。二子山の濠は一度目の訪問時には水があり、墳丘が浮かんでいるように見え美しかったのですが、築造時は空堀であったこと、水が墳丘裾を削ってしまうことから本来の水なしの濠として復元されています。また、後期の前方後円墳に見られる前方部の発達はいずれの古墳にもみられます。後円部径よりも前方部幅が広く、高さも前方部のほうが後円部より高くなっています。なお今回の三基については他の古墳とは異なり、あったはずの造出しは復元されていません(愛宕山はなし)。

アクセスは公共交通機関の場合いくつかあります。さきたま古墳公園のHPに詳しいルートが紹介されています。行田駅から市内循環バスが一番便利ですが本数が少なく、二度目は本数が多いJR吹上駅から朝日バスで佐間経由 行田折返し場・総合教育センター・行田工業団地行に乗り産業道路で下車。徒歩15分のルートを使いました(撮影2015714日、201631日)

古墳踏査を重ねて気がついたことは多数の古墳を保存した大型の古墳公園は意外なことに関西よりは関東や九州に多いことです。さきたま古墳群に加え群馬県高崎市の保渡田古墳群(かみつけの里古墳公園)、群馬県前橋市の大室古墳群が特におすすめです。
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愛宕山古墳、奥の山古墳、鉄砲山古墳(さきたま古墳群6)基本データ

所在地 埼玉県行田市

形状 前方後円墳

規模 愛宕山古墳 墳長53m、後円部径30m 高さ3.4m、前方部幅30m 高さ3.3

奥の山古墳 墳長70m、後円部径43m 高さ6.8m 前方部幅47m 高さ7.4m、鉄砲山古墳 墳長109m 後円部径55m 高さ9.0m、前方部幅69m 高さ10.1m

築造時期 愛宕山 6C前、奥の山6C央、鉄砲山6C

出土品 愛宕山古墳 円筒、形象埴輪、奥の山古墳 円筒、形象埴輪、鉄砲山古墳 円筒埴輪、須恵器、土師器

史跡指定 さきたま古墳群として国指定

特記事項 各古墳には盾形の二重周濠が巡っている。



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