古墳を動画で見るサイト guami_38_36のblog

なんでも実際に見てみないと気が済まない私。古代史初学者として3世紀中頃から7世紀初頭にかけて東北から九州まで造られた多くの古墳の内、墳丘が残り実際に墳頂まで登れるものを訪ねはじめました。2011年秋のことです。既に大いに刺激を受けている先輩方の古墳ブログやHPあります。ただ、なぜこれほど大きな構築物を造られたのかに興味がある私には、大半が静止画像のためにそのスケール感が伝わってきませんでした。偶然、動画で撮ってみたら案外いける。そんな思いで撮りためた古墳動画を見て頂くことにしました。素人の撮影ですから、古墳マニアや専門家の方々からは厳しいご指摘はあるかと思います。ブログでは基本情報とともに一古墳に3-5本程度の動画(各1分以下)を用意しました。この素人の試みが古墳を具体的にイメージする一助となれば幸いです。なお古墳名の次に■がある場合 石室の動画がご覧になれます。

■古墳時代の時期区分
 このブログでは古墳時代を広瀬和雄さん(国立歴史民俗博物館名誉教授)が通説として紹介している古墳時代を前期(3C中頃から4C後半頃)、中期(4C末頃から5C後半頃)、後期(5C末頃から7C初め頃)、終末期(7C前半頃から8C初め頃)に区分して捉えています(前方後円墳の時代、岩波新書、2010年)。
■アップの順番
 前期⇒中期⇒後期(終末期)の古墳を一基ずつワンセットにして全国の古墳を網羅することを目指しています。三基の古墳には何ら有機的な関係はありません。一つの地域に集中して前期から終末期まで掘り下げて見るのが一般的ですが、敢えてそうしなかったのは古墳時代の前期、中期、後期に全国でどのような墳墓が築かれたかを知りたいと思ったからです。古墳の築造年代は専門家の間でも様々な意見があり実年代を確定することが如何に困難なことかは承知しています。そのような限界の下でも古墳を横断的にみると今まで見えてこなかったものが見えてきたような気がします。専門分野外の古墳時代に関心を持ちはじめて日も浅い者ならではの冒険です。
■ご覧になる方法
最新記事9件についてはそのまま下にスクロールすれば見れます。各都府県別古墳は右の一覧をクリックしてください。文中にも関連の古墳に直接飛べるようにリンクを貼ってあります。

タグ:方墳

 美しい墳丘を持つ前方後円墳、岡銚子塚古墳から谷をはさんで北西に200mほどのところに今回紹介する方墳、竜塚古墳があります。一辺56m、高さは7.4mと結構な規模です。数多くの古墳を訪ねましたが、現代の構築物が墳丘を遮って全体を見渡すことができる古墳は決して多くはありません。今回の竜塚古墳はその点で例外的といってよいのではないでしょうか。二段築成の上段斜面に葺かれていた葺石こそありませんが、シルエットは古墳が築かれた当時と同じはずです。

 被葬者は岡銚子塚古墳(クリックすれば飛べます)に眠るこの地域の豪族だったのではないかと考えられていますが、木棺に入れられ墳頂の長方形の墓壙に埋葬されていたそうです。残念ながら副葬品は出土せず、数点の土師器が墳頂、周濠から見つかっているだけです。

 もう一つ動画3では岡銚子塚の陪塚と考えられる径23mの円墳、盃塚古墳も紹介します。墳丘が大きく破壊されていたため調査を経て現在の姿に復元されています。築造時期は竜塚古墳と同様、古墳時代中期の5Cにくだると考えられていますが、竜塚古墳と異なり鉄鏃、鉄刀なども出土しています。 アクセスですがJR中央線石和温泉駅から車で20分。今回、時間がなかったということもありこの古墳踏査の原則を破ってタクシーで現地に向かいました。実車時間20分ほど。結構な距離です。八代ふるさと公園は四季折々の花々が来訪者を迎えてくれます。(撮影日2016331日)
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竜塚古墳と盃塚古墳基本データ

所在地 山梨県笛吹市八代町

形状 竜塚古墳 方墳、 盃塚古墳 円墳

規模 竜塚古墳 一辺56m 高さ7.4m、二段築成 上段葺石 周溝

盃塚古墳 径23m 高さ4.5m 周溝

築造時期 5C

出土品 竜塚古墳 土師器、盃塚古墳 鉄鏃、鉄刀等

史跡指定 竜塚古墳 県指定、盃塚古墳 市指定

特記事項 どちらも岡銚子塚古墳と密接な関係があると考えられている



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  今回紹介する前期古墳は墳長約75mの前方後方墳の桜井古墳です。JR常磐線の原ノ町駅の東1.5㎞ほどの新田川を見下ろす台地に位置しています。2011311日、東日本大震災による高さ10mほどの津波が桜井古墳を襲ったことは報じられていたので、いずれは訪れたいと思っていました。海からは3㎞ほどのところです。既に紹介した宮城県岩沼市の亀塚古墳も近くまで津波が押し寄せたことは知られていますが、桜井古墳の場合、墳丘の目の前まで津波が押し寄せ、周囲はガレキの山という状況だったようです。

震災から6年半、ようやく現地を訪れることができました。道を尋ねた古老は新築された家を指しながらあそこでも二人が犠牲になったよと話されましたが、もちろん、当時の爪痕は残っていません。南相馬市の文化財担当の方の話によれば津波は動画4に示すように河川敷ギリギリで止まり、墳丘には押し寄せることはなかったようです。新田川を支配していたはずの二人の被葬者はどのような思いでこの大津波を見ていたのでしょうか。

肝心の古墳ですが、前方後方墳ということがよくわかる復元ぶりです。後方部は一辺45m47m。南北がやや長い方形で高さは6.8mもあります。たしかに後方部から見る高さ3mしかない前方部はかなり傾斜がきつくみえます。前方部幅は30mしかなく全体としてきれいなバチ型をしています。本格的な発掘調査は行われていませんが、割竹形の木棺が二基、後方部頂にはあったようです。陥没した坑から推定しています。二基というのも興味深いところです。どのような関係にあった二人なのでしょう。墳丘は緑濃く形状を観察するにはギリギリのタイミングでした。やはり草が枯れた冬場がベストです。ただし、青空がのぞいたということもあり、保護色に染まった墳丘はなかなかの風情でした。

なぜ前方後円墳ではなく前方後方墳なのでしょうか。既に紹介した中通り(福島は西から会津、中通り、浜通りと三区分されている)の大安場古墳(クリックすれば飛べます)が前方後方墳でした。今回は太平洋岸に近い浜通りで前方後方墳です。なにか理由があるのでしょうか。思い出すのは下野(栃木県)では駒形大塚那須八幡塚上侍塚下侍塚古墳(いずれもクリックすれば直接飛べます)などが前方後方墳としてこの頃に盛んに造られています。相互に交流があったことが考えられます。

葺石、埴輪はなく他方、動画からおわかりのように後方部は三段築成、前方部は無段です。

周濠があったといわれていますが、河川敷側はかなり狭く、どのように巡っていたのか気になるところです。出土品としては底に穴の開いた(底部穿孔)壺が知られています。

 今回は、前方部西側の径20mの円墳と後方部東側の一辺27.5mの方墳も動画5で紹介しています。アクセスは冒頭に書いたようにJR常磐線原ノ町から歩くのがベストです。駅東側に通る県道12号線をひたすら東に南相馬警察署まで歩きその200m先を左折したところに古墳公園があります。徒歩30分程度です。バスは一日2便程度しかなく使えません。

それにしても東京からの往復は不便です。仙台まで新幹線で行き常磐線で東京に戻る形になります(撮影、201795日)
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桜井古墳基本データ

所在地 福島県南相馬市原町区

形状 前方後方墳(1号)、円墳(2号)、方墳(7号)

規模 1号 後方部 一辺45m×47m 高さ6.8m、前方部幅30m 高さ3m

2号 円墳 径20m 高さ2m7号一辺27.5m 高さ3.3m

築造時期 1号、7号 4C後半、2号5C

出土品 1号 穿孔壺、2号 鉄剣破片、7号 銅鏡、赤色顔料、土師器(高坏、器台等)

史跡指定 1号 国指定 2号 7号 市指定

特記事項 なし




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 JR小松駅から小松バス国府台行きで30分ほど。小松市東部に開発された工業団地を通り住宅団地の中にある国府台バス停から徒歩で10分ほどで目指す河田山(こうだやま)古墳群史跡資料館はありました。開発で60基を越える古墳の大半は消滅し、そのうちの二基は資料館裏手の古墳公園に現状保存され、移築復元された12号墳と資料館内に33号墳の石室が残されています。開発された住宅団地は7-8㎞先に日本海を臨む標高4-50mのところにあり古墳を築くには絶好の地であったことはよくわかります。

 自然に任せた公園内の雑木林のなかに眠る1号墳、9号墳は墳丘がよく確認できず動画では紹介できません。他方、きれいに復元された方墳の12号墳ですが数十m先の道路建設現場から基盤ごと移築されたもので天井はアーチ形をしていたのではないかと考えられています。類例が国内にはなく朝鮮半島の影響ともいわれているようです(天井部分が完全に崩落していたために横壁の切石の組み方から推定)。一辺15mと小規模な古墳に完成度の高い切石が使われているというのは被葬者の力の大きさを偲ばせます。残存する横壁と奥壁はコンクリート製の天井がアーチ型になった上屋で覆われています。やや不思議な感じがする空間です。動画1の最後でおわかりのように墳丘が崩れてこないようにとぐるっと外護列石と呼ばれる石が回っています。既に紹介した終末期古墳 中山荘園古墳(クリックすれば飛べます)と同様です。動画最後の静止画像の石室内説明板には、「この部分に注目 天井がアーチ状になるように切り石を加工した全国的にも珍しい石室です」

また動画3では資料館に石室が保存されている河田山33号墳を紹介しています。玄室と羨道の間の仕切り石の役割でしょうか。しきみ石と呼ばれる石が横たわっているのが印象的です。アクセスは冒頭に書いたとおりですが本数は午前、午後2本程度と少ないのでご注意ください。バス停下車後資料館までの道順はわかりやすいです(撮影2016111日)。




河田山12号墳と33号墳基本データ

所在地 石川県小松市国府台

形状 12号墳 方墳 33号墳 不明

規模 12号墳一辺15m 33号墳 不明

石室 12号墳 奥行5m 幅2.2m33号墳 奥行3.26m 幅2m

築造時期 7C

出土品 不明

史跡指定 なし

特記事項 なし


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  今回紹介する古墳後期の最後頃(7C初)に築かれたと考えられる秋殿南古墳は既に紹介した桜井駅の南側に広がるいくつかの古墳の至近距離にあります。古墳を訪問しはじめた頃から何度も降りたったJR桜井線(近鉄〇〇線)桜井駅ですが、あらためて見返してみるとあの古墳がこんな近くにあったと改めて驚かされます。あとで言及する全ての古墳が2㎞四方に点在しています。はじめの頃はバスに乗り継いで目指す古墳を訪ねましたが、本数の少ないバスを待つよりも歩いたほうが時間のロスが少ないことに気が付きました。

 本題からは外れましたが、今回の秋殿南古墳、見応えのある横穴石室です。桜井駅の南東に聳える鳥見山(とみやま)の裾にある一辺26mの方墳です。といっても動画4でおわかりのように墳丘は雑木林に覆われており素人にはその形はまったくわかりません。南側に開口する横穴石室、ご覧のように入口は埋もれ羨道部分はもともと高さ1.4mほどしかないためにかなり前に進むのが大変でした。しかし7mほどの羨道を歩きながら正面に広がる奥行4.5mの玄室を見ると、そのコントラストの美しさとスケールに驚かされました。このあたりは、つい最近紹介したおそらくは庶民の家父長クラスの小ぶりの横穴石室とは全く違います。だいぶ前に訪れた秋殿南古墳ですが、動画を見返してみると同時代にこうした異なる規模の横穴石室が日本全国で築かれていたことに感慨を覚えました。

 秋殿南古墳の横穴石室は明日香村の精巧な切石で知られる岩屋山古墳(クリックすれば飛べます)に近いという解説もあるようですが少々違う印象です。花崗岩製と思われる石組はよりダイナミックな感じがするように思えるのですが・・・。アクセスは冒頭で書きましたように徒歩がお勧めですがバスの場合は桜井市コミュニティーバス(桜井駅南口発)談山神社行きで朝古下車。徒歩10分。バスは一時間に一本です。バス停から東に歩き(県道37号線)四つ目の辻を左折すると動画4の畑がみえます(撮影日20151027日)。

 なお参考のためにこれまでアップした近くの古墳と位置関係をあげておきます。クリックすれば飛べます。是非比較してご覧ください。

 前期の桜井茶臼山古墳メスリ山古墳、中期の兜山古墳、後期の谷首古墳、終末期の艸墓古墳安倍文殊院西古墳の各古墳です。
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秋殿南古墳基本データ

所在地 桜井市浅古

形状 方墳

規模 一辺24m26m)高さ不明 

横穴石室 長さ11.2m(天井石が残っているところまで)、玄室長さ4.48m

2.26m、高さ2.4m、羨道長さ6.72m アバ1.7m 高さ1.4m

築造時期 7C

出土品 不明

史跡指定 国指定

特記事項 なし




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  今回は奈良県平群町にある終末期古墳西宮(にしのみや)古墳を紹介します。  近鉄奈良線を生駒で乗り換え近鉄生駒線を南に下ると東側には落ち葉色の山々が広がります。冬の景色を楽しみながら7つ目の平群(へぐり)で降りて町役場に急ぎました。西宮古墳の次に訪れる予定の烏土塚(うどづか)古墳石室の鍵を借りるためです。西宮古墳は桜並木の竜田川沿いの道を500mほど歩いた平群神社の奥にありました。住宅の間に田畑が時折のぞく風情ある景色です。

 一辺36mの方墳は動画1でおわかりのように遠目にも古墳だとわかりました。近づくと三段築成の二段目の墳丘に横穴石室の入口らしきものがみえます。この石室はブログ開始間もなく紹介した奈良県明日村の岩屋山古墳(クリックすれば飛べます)、桜井市の安倍文殊院西古墳(クリックすれば飛べます)と並び飛鳥時代に造られた切石の石室では優れたものだそうです。そうした予備知識で入室してみるとうーんと思わず声が出ました。一枚の板石でできた羨道側壁の見事さ。とても1300年前のものとは思えません。おわかりのように羨道幅は狭く、それを遮るかのように盗掘の際に置き去りにされた蓋のないくり抜き式石棺が無造作に置かれています。玄室は奥壁、横壁全て一枚岩。説明板によると石積みの間は漆喰で塗り固められていたようです。また「羨道側石と天井石の前面を墳丘勾配に合わせて加工している」そうですがよくわかりません。築造技術に詳しければと悔やまれます。

 実はこの古墳は貼石(葺石は石を積むイメージに対して、貼り石は文字通り貼る)の残りがよいことで知られていますがうっかりして墳丘後ろに回るのを忘れ見過ごしてしまいました。再度訪問をしないといけません(撮影2017116日)。


西宮古墳基本データ

所在地 奈良県平群町

形状 方墳 三段築成 貼石

規模 一辺36m 

築造時期 7C

出土品 須恵器

史跡指定 奈良県

特記事項 被葬者が聖徳太子の子 山背大兄王子との説がある


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  古市古墳群の5回目。紹介する墓山古墳及び野中古墳と向墓山古墳の二基の陪塚はこれまで何度か訪れたもののタイミングが悪く墳丘が雑木林や雑草に覆われてよく見えませんでした。陪塚とは大型古墳に近接して位置する小型墳で、内容、規模などから大型墳との密接な関係(たとえば主従)が考えられるものです。今回はようやく宮内庁管理(墳丘のみ)の墓山古墳を含め多少はましな動画が撮れたように思えます。それにしても墳長が225mもある墓山古墳の南側の墳形に沿って現代の墓地が広がっている光景を眺めていると不思議な感覚に襲われます。古代と現代の共存でしょうか。後円部墳頂からは首長級の埋葬に用いられる長持形石棺が出土したという報告があるそうですから、巨大さの理由もわかります。雑木が部分的に伐採された今回の訪問ではおぼろげながら墳丘のスケールも分かりました。動画1である程度伝わったとすれば嬉しいのですが。

 動画2で紹介している墓山古墳の陪塚と考えられている野中古墳は短甲11(1領だけでも貴重との専門家の指摘)、兜11刀剣169など多くの武器武具はじめ出土したことで有名です。重要文化財に指定されたこれらの出土品は発掘調査にあたった大阪大学が保管しています(レプリカが藤井寺市のシュラホールで見られます)。陪塚の中規模の方墳にそれだけの副葬品が葬られていたことからしても主墳の墓山古墳の被葬者のランクの高さがうかがえます。時期から考えれば朝鮮半島で南下する高句麗に対抗する百済支援にまわった倭の有力者の一人なのでしょうか。

 動画3の墓山古墳の陪塚の一つと考えられている向墓山古墳はフェンスに囲まれた一辺68m、高さ10mもある大型の方墳です。残念ながら周囲の状況から俯瞰することができず全体像をつかむことができません。説明板によれば墳丘はよく残されているというのですが崩れた山のようにもみえます。隣接して羽曳野市のガイダンス施設があり古市古墳群出土の埴輪などが展示されています。この大きさをイメージして頂くためにほぼ同規模の一辺65mの滋賀県東近江市の天乞山古墳(クリックすれば飛べます)、一回り大きい一辺78mの千葉県成田市の龍角寺岩屋古墳(クリックすれば飛べます)を是非ご覧ください。向墓山古墳も築造当時はこのような姿だったのでしょうか。アクセスは近鉄南大阪線の古市駅から北に徒歩で15分。羽曳野市役所の西側裏にあります。なお墓山古墳と向墓山古墳は羽曳野市、野中古墳は藤井寺市にあります。なおこれまでアップした古市古墳群の各古墳は以下のとおりです。合わせてご覧ください。群中で墳丘に登れる数少ない古墳古室山大鳥塚の両古墳(それぞれクリックすれば飛べます)。白鳥、清寧陵(一度に紹介しています。クリックすれば飛べます)。はざみ山・野中宮山(一度に紹介しています。クリックすれば飛べます)(撮影日2016926日、2017220日)。
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墓山・野中古墳他 (古市古墳群)基本データ 

所在地 墓山、向墓山古墳 大阪府羽曳野市、野中古墳 藤井寺市

形状 墓山 前方後円墳、向墓山 野中 方墳

規模 墓山 墳長225m、後円部径135m 高さ約21m、前方部幅153m 高さ約19m

三段築成、向墓山 一辺68m 高さ10m 二段築成、野中 一辺37m 高さ4m 二段築成

築造時期 墓山、向墓山古墳 5C前半、野中古墳 5C

出土品 墓山 玉類、形象埴輪、向墓山 埴輪、野中 兜、刀剣類、鉄てい等 

史跡指定 野中古墳 国指定

特記事項 なし



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 古墳ファン 中でも石室ファンにはさほど珍しくもないかもしれませんが さほどこの世界を探訪して長くはない私には新鮮な驚きでした。古墳の大型化の時代は既に終わり、できるだけ規模を縮小して被葬者の霊を弔うということなのでしょうか。羨道、玄室、その中に石棺というこれまで見てきた石室とは違い、羨道に直接大型の石棺が接続されています。節約志向です。その石棺の短辺には横口が開いています。切り口がきれいなので盗掘孔ではないことはすぐにわかりました。蓋石も残されていると現地説明版にありましたが、発見できず。富田林市の教育委員会に聞いたところ委員会が保管しているそうです。そういえば石棺の長辺に横口が開き霊魂が外界と行き来できるようにしていると聞いたのは出雲市の今市大念寺古墳(クリックすれば飛べます)でした。お亀石古墳の横口は狭すぎてそれは難しそうです。

 そのお亀石古墳。富田林市の北1㎞ほどのところの山間にありました。近年の調査の結果一辺21mの方墳ということがわかっています。ただ動画でおわかりのように封土はほとんど削られ石舞台(クリックすれば飛べます)ほどではありませんが埋葬施設が露出しています。羨道左右の壁石を支えるまぐさ石を屈みながら進むと先に家形石棺が見えてきました。縄掛け突起が印象的です。その後、石室上部にまわると残りの縄掛け突起が夏草の影に覗いていました。動画2でご覧ください。また現地説明板は家形石棺の周囲には古墳の東南部に位置する飛鳥時代の新堂廃寺の瓦に共通する百済様式のものが積み上げられていたとし、被葬者が同寺の施主ではなかったかと書いています。

 この横口式石槨について白石太一郎さん(近つ飛鳥博物館館長)は「古墳時代の終末期には近畿地方の奈良県、大阪府を中心に、横口式石槨とよばれる、石棺様の一方の短辺側に横口を設け、さらにその前に羨道などを設けた埋葬施設が出現します。この施設は九州や山陰地方の石棺式石室と共通の要素をもつものですが、明らかに系譜を異にします」(古墳の知識Ⅰ 墳丘と内部構造、東京美術、1985)と述べています。お亀石古墳は家形石棺そのものの外観残されているという点で比較的古式のものとみられているようです。ご関心のある方は是非、白石本をお読みください。

 アクセスは近鉄大阪線富田林駅下車 北口に出て昭和町北信号を右折、次の緑が丘の信号を左折、緑が丘住宅をとおりすぎ200mほど進むと突き当りるのでそのまま西沿いにしばらく歩くと動画1の冒頭のところにでます。徒歩20分ほど(撮影2016年8月9日)。
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  このブログでは既に40を越える古墳石室を紹介していますが(201612月現在)、石室を覆う盛土が削られ石室がスケルトンのように完全に残っている古墳はありませんでした。似ているものとしては関東の石舞台といわれる埼玉県行田市の八幡山古墳石室(クリックすれば飛べます)がありますが、周辺状況などを考えると八幡山古墳には申し訳ないですが、その差は大きいと思います。そのぐらい驚きは突出しています。とりわけ400mほど南側にある都塚古墳(クリックすれば飛べます)から下ってくる途中で目にする石舞台古墳の巨大さには度肝を抜かれます(動画1でご覧ください)。

特筆すべきことは長さ約19mほどの石室の巨大さもさることながら一辺50mの方墳(前円下方墳の説もあり)が聳えていたことを想像できる飛鳥の丘に囲まれた空間の広がりにあります。あったはずの墳丘周囲には貼石のある周濠がめぐりさらに外堤が囲みます。国の特別史跡に指定されているのも納得です(古墳時代の特別史跡は紹介済みの安倍文殊院西古墳石室、巣山古墳(いずれもクリックすれば飛べます)9件に留まります)。いったいいつ盛り土が削られ石室が裸にされたのか興味深い問題ですが、蘇我馬子ともいわれる古墳の破壊は、蘇我氏に対する懲罰という意味からかなり早い段階で行われたのではないかともいわれていますが専門家の議論にお任せしたいと思います。

肝心の石室ですが77tともいわれる南側の天井の板石の巨大さはいったいなんでしょう。我々が利用している電車車両の重量は33tほどですから、その運搬方法を含め興味は尽きません。巨石を運搬するためのソリ、修羅(地面との摩擦抵抗を減らすための丸太の上に置く)を利用したのでしょうか。5Cに使われていたと考えられる修羅が藤井寺市で発掘され復元保存されていますが、8.8mもあります。動画5の最後に静止画像をつけてあります。石室に使われている石の総重量は2300tと推定。いやはや権力の大きさを改めて思い知らされました。残念ながら石室の中にあるはずの石棺は見出すことはできません。アクセスは近鉄飛鳥駅から奈良交通明日香周遊バスで石舞台下車すぐ。近くの都塚古墳訪問を含め帰路は飛鳥駅まで1時間弱ですから徒歩をお勧めします。(撮影2015212日、20161214日)。




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   動画5でその一端がお分かりになると思いますが、今回の作山古墳群、方墳、円墳、前方後円墳が一列に並ぶ姿は壮観の一言です。夕陽に映える墳丘を存分にお楽しみください。見事に復元された古墳は小規模ながら、古墳の総合展示場といった趣です。場所は天橋立から内陸に10㎞ほど入った京都府与謝野町になります。以前、丹後半島の神明山古墳を紹介しましたが(クリックすれば飛べます)、同時期に作山古墳群も築かれはじめていたということになります。隣接して築かれている蛭子山古墳は神明山古墳よりは小さいとはいえ墳長は145mもあります。いずれ紹介しますが、墳丘の一部は動画3の最後のほうでご覧になれます。

 造られた順に北から並べられた古墳は興味深いことに、方墳の5号墳と帆立貝式前方後円墳1号墳の前方部が重なっています。1号が築かれた時には5号墳の存在に気づかなかったのでしょうか。よく理解できません。各動画のキャンプションに書きましたように葺石があるもの、墳長に壺形埴輪による方形区画があるもの、葺石が全くないもの、色々です。それぞれが個性豊かです。各墳丘の裾には小規模な棺が埋葬され、1号墳だけでも木棺墓6基、埴輪棺墓6基、土器棺墓1基、土壙墓2基と15基もあり、古墳被葬者の権勢がうかがえます。

 また1号墳の墳頂の埋葬施設の復元も非常にリアリティに富んだ出来栄えです。組み合わせ式の石棺は副室が設けられており鉄製品が埋葬されていました。是非、動画2でその様子をご覧ください。こうした復元の試みは小石で囲ったり、図示するだけよりは明らかに古墳を理解するのに役立ちます。動画を撮るために二度の訪問となりましたが、再訪してよかったと感じられる古墳群でした。ガイダンス施設の古墳公園はにわ資料館も見応えがあります。残念ながらアクセスはよいとはいえず京都丹後鉄道与謝野駅からタクシーを利用するしかありません。10分ほどです(撮影日2015129日)。

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作山古墳群(丹後)基本データ

所在地 京都府与謝野町

形状 方墳(5号) 帆立貝式前方後円墳(1号)、円墳(2号)、方墳(3号)、前方後円墳(4号)

規模 5号方墳(一辺13m)葺石なし、1号帆立貝式前方後円墳(径36m、高さ4m)二段

築成、葺石、2号円墳(径28m、高さ3.5m)二段築成、葺石なし、3号方墳(一辺17m、高さ3m
葺石なし、4号前方後円墳(墳長30m、高さ3m)二段築成

築造時期 4C後から5C初、5号、1号、2号、3号、4号、5号の順

出土品 埴輪、1号墳からは銅鏡、石製品、玉類

史跡指定 国指定

特記事項 1号墳の埋葬施設は組み合わせ式石棺




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