古墳時代後期ではずば抜けて大きな前方後円墳
名古屋市営地下鉄名城線西高蔵駅で降りると激しく車が行き来する国道19号線に出ます。南東方向に100mほど歩くと野球場がある熱田神宮公園があり今回の墳長151mの断夫山古墳は公園南端に眠っています。海抜10mほど。調べてみると古墳時代は海岸線がすぐ近くまできていたようです。鹿児島志布志湾沿いに築かれた横瀬古墳を思い出しました。それにしても全国を見渡してもこの規模の巨大前方後円墳は6C初から前半期には殆ど築かれていません。前方後円墳としては最後の大王墓といわれる五条野丸山古墳(318m)を除けば、大阪府高槻市の真の継体天皇陵といわれる今城塚古墳(墳長190m)、福岡県八女市の岩戸山古墳(墳長131m)、群馬県藤岡市の七興山古墳(145m)があるだけです。古墳時代には前方後円墳の規模が被葬者の力の大きさを示すことを考えれば尾張地域では飛び切りの有力者だったということでしょう。
歴史的にはこの尾張は王権と密接な関係がある極めて重要な地だったといわれています。尾張連草香(おわりのむらじくさか)の娘目子媛(めのこひめ)が継体天皇の后(安閑・宣化天皇の母)だったからです。断夫山古墳の被葬者は尾張連草香に関連する人物であったという解釈が説得力を持ってきます。また考古学者若狭徹さんは「前方後円墳と東国社会」(吉川弘文館、2018年)の中で、「藤岡市の七興山古墳は古墳時代後期においては東日本最大の前方後円墳であり、愛知県名古屋市の断夫山古墳とツートップの位置を占める。しかも、両古墳の平面測量図を重ねるとほぼ一対一の相似墳形となるのである」と興味深い事実を明らかにしています。ここでは深入りしませんが七興山古墳の墳形は当該地域で採用されてきた墳形規格とは違い真の継体天皇陵と言われる今城塚古墳と類似していることから断夫山古墳、七興山古墳、今城塚古墳の三古墳が6C前半期の倭の主要古墳として密接な関わりが想定されてくるとも記しています。
現在の墳丘は裾部が石垣で補強され微妙な感じですが後円部径よりもはるかに幅の広い前方部をもつ典型的な後期古墳であることが一周すればよくわかります。その前方部の南東端が削られていますがそれ以外は残りはよいというのが専門家の見方です。しかし全体は多くの前方後円墳同様、緑に覆われ見通しはきかないので三段築成ということはよくわかりません。円筒埴輪が巡り川原石で覆われていたようです。墳丘西側 くびれ部分に須恵器が多数出土した造出しがある一方、周濠は築造当時よりも幅を狭くした形で復元整備されています(撮影2017年3月14日)。動画撮影位置は2月までお待ちください。
断夫山古墳基本データ
所在地 愛知県名古屋市
形状 前方後円墳
墳長 151、後円部径80m 高さ13m、前方部幅116m 高さ16m
三段築成、葺石あり、周濠あり
築造時期 6C初
出土品 円筒埴輪、須恵器
史跡指定 国指定
特記事項 熱田神宮は本古墳を「陀武夫御墓」と呼び日本武尊妃の宮簀媛命(みやずひめのみこと)の墓としている。
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