山登り好きに知られる西目山が見下ろす古墳!
防府駅から中国・JRバスの山口大学・防府線で15分ほど。高井バス停で降りてまず目に入ったのは、動画冒頭の、急峻な山肌が露わになった山、西目山でした。思わず声が出ました。あとでわかりましたが目指す大日古墳は、この西目山の麓に築かれています。この西目山古墳、登山愛好家では知られた山だそうです。「山と渓谷」オンラインによれば、「岩稜が剥きだした山は、「標高のわりに北アルプスを彷彿させる」という山で、スリリングな登山が楽しめる山」だそうです。標高は312mとたしかに高くはありません。動画には西目山が見下ろすように赤い屋根の建物、防府病院がみえます。古墳は、それに隣接した霊園内に保存整備されています。昭和23年(1948年)とかなり早い段階で国の史跡に指定されたこともあり、地元では丁寧に見守られてきたようです。大日古墳と書かれた大きな石標が開口部手前にあり、羨道内に入ると床面には、簀の子が敷かれ、見学しやすいようになっています。羨門だと思われますが、開口部は石材で補強されています。ご覧のように長い羨道の先には、小さな祠が置かれた竜山石製の家形石棺があり(山口県ではここだけらしい)、この石室自体が特別なものということを表しています。
中央政権に近い有力な人物が葬られていたのではとみられています。理由は二つ。奈良明日香村の岩屋山古墳石室の特徴のいくつかがみられること(玄室の天井に近いところが内傾、羨道の天井に段差がある(残念ながら動画でははっきりとはわからない)、先に触れた竜山石の家形石棺が使用されていることの二つです。他方、玄室、羨道の石積みの段数などは、岩屋山古墳のそれとはだいぶ違います。とはいえ、畿内とのつながりは否定できないでしょう。同じ頃に築かれた在地の他の古墳には、こうした特徴はみられないそうです。そうしたところから、戦国時代の武将、大内氏の祖先、百済の琳聖太子の墓との伝承もあるようです。 墳丘は径15mほどの円墳と思われますが、前方後円墳ではないかとの見方もあります。ただ、畿内では前方後円墳の築造が既に終わった終末期にかかろうという7C後半に、わざわざ前方後円墳を造ったとは思えないのです。発掘調査が行われていないのでなんともいえませんが、ここでは円墳と考えたいと思います(撮影2022年12月末)。
防府駅から中国・JRバスの山口大学・防府線で15分ほど。高井バス停で降りてまず目に入ったのは、動画冒頭の、急峻な山肌が露わになった山、西目山でした。思わず声が出ました。あとでわかりましたが目指す大日古墳は、この西目山の麓に築かれています。この西目山古墳、登山愛好家では知られた山だそうです。「山と渓谷」オンラインによれば、「岩稜が剥きだした山は、「標高のわりに北アルプスを彷彿させる」という山で、スリリングな登山が楽しめる山」だそうです。標高は312mとたしかに高くはありません。動画には西目山が見下ろすように赤い屋根の建物、防府病院がみえます。古墳は、それに隣接した霊園内に保存整備されています。昭和23年(1948年)とかなり早い段階で国の史跡に指定されたこともあり、地元では丁寧に見守られてきたようです。大日古墳と書かれた大きな石標が開口部手前にあり、羨道内に入ると床面には、簀の子が敷かれ、見学しやすいようになっています。羨門だと思われますが、開口部は石材で補強されています。ご覧のように長い羨道の先には、小さな祠が置かれた竜山石製の家形石棺があり(山口県ではここだけらしい)、この石室自体が特別なものということを表しています。
中央政権に近い有力な人物が葬られていたのではとみられています。理由は二つ。奈良明日香村の岩屋山古墳石室の特徴のいくつかがみられること(玄室の天井に近いところが内傾、羨道の天井に段差がある(残念ながら動画でははっきりとはわからない)、先に触れた竜山石の家形石棺が使用されていることの二つです。他方、玄室、羨道の石積みの段数などは、岩屋山古墳のそれとはだいぶ違います。とはいえ、畿内とのつながりは否定できないでしょう。同じ頃に築かれた在地の他の古墳には、こうした特徴はみられないそうです。そうしたところから、戦国時代の武将、大内氏の祖先、百済の琳聖太子の墓との伝承もあるようです。 墳丘は径15mほどの円墳と思われますが、前方後円墳ではないかとの見方もあります。ただ、畿内では前方後円墳の築造が既に終わった終末期にかかろうという7C後半に、わざわざ前方後円墳を造ったとは思えないのです。発掘調査が行われていないのでなんともいえませんが、ここでは円墳と考えたいと思います(撮影2022年12月末)。