古墳にワクワク(旧古墳を動画で見るサイト)         guami_38_36のblog

古墳にワクワク(旧古墳を動画で見るサイト)へようこそ。なんでも実際に見てみないと気が済まない私。古代史ファンとして3世紀中頃から7世紀初頭に東北から九州まで造られた数多くの古墳の内、墳丘が残り実際に登れるものを訪ねはじめたのは2011年秋のことです。その間、偶然動画で撮った長野県千曲市の森将軍塚古墳が転機になりました。墳丘のスケールや石室の空間を味わうには動画が最適。そんな思いから撮りためたものを見て頂くことにしました。素人ですから古墳マニアの先輩諸氏や専門家の方々からは厳しいご指摘はあるかと思います。基本情報に加え一古墳につき1の動画(2-4分)を用意しました。なお以前は短い複数の動画を用意しましたが統合版として1本にする作業を行っています。この試みが古墳を具体的にイメージする一助となれば幸いです。

■検索の仕方
A古墳掲載の頁を探す最も簡単な方法は、古墳名(A古墳)と都府県ないし市町村名を検索の窓に入れる方法です。わかっていれば市町村名で絞り込むほうが早いと思います。ただA古墳に触れている記事すべてがヒットする可能性があります。漠然と古墳を検索したい場合には、各古墳記事に主宰者の好みで(動画のできなど)つけた「特におすすめ」、「おすすめ」、「時間があれば」(ご覧頂きたい)のタグを利用する方法です。これに各都府県名や前方後円墳などのタグを追加すれば「栃木県」で「おすすめ」の「前方後円墳」がヒットします。なお検索結果は画面下部に示されます。
■古墳時代の時期区分とアップの順番
 このブログでは古墳時代を前期(3C中頃から4C後半頃)、中期(4C末頃から5C後半頃)、後期(5C末頃から7C初め頃)、終末期(7C前半頃から8C初め頃)に区分しています(広瀬和雄、前方後円墳の時代、岩波新書、2010年)。当初アップは前期⇒中期⇒後期(終末期)の古墳を一基ずつワンセットにして全国の古墳を網羅することを目指していました。一地域で前期から終末期までどのような古墳が築かれたかを見るのが一般的ですが、前期、中期、後期に全国でどのような墳墓が築かれたかを知りたいと思ったからです。ところが、群集墳が登場する後期になると古墳の数は飛躍的に増加し、最初のルールを変えざるを得なくなっています。今では後期、終末期の古墳、それも石室の紹介が多くなっています。
■ 最新記事何件かについてはそのまま下にスクロールすれば見れます。記事中にも関連の古墳に直接飛べるようにリンクを貼ってありますのでご利用ください。

タグ:宮崎県

墳丘と現代が見事に調和した古墳群
 このブログでも何度か紹介してきた一ッ瀬川の西側2㎞ほどのところに造られた西都原古墳群(たとえば西都原古墳群(1)(クリック)今回の祇園原古墳群(新田原古墳群の一つ)は反対に一ッ瀬川東側1㎞ほどのところに広がります。西都原古墳群の多くは古墳時代前期から中期にかけてのものですが、祇園塚古墳群は中期から後期のものがほとんどのようです。つまりこの地域を支配する豪族たちの墓域が西都原古墳群から祇園原古墳群を含む新田原古墳群に移動したということになります。  
 宮崎市内から終点の西都バスセンターまで行き、歩くには時間的ロスが多く今回はタクシーを利用しました。国の特別史跡西都原古墳群とは違って、こちらのほうは近くまでバスが運行していないからです。新富町の総合交流センター「きらり」の方の説明では、古墳群の最も北側にある祇園原神社でタクシーを降り、南側に散らばる古墳の数々を見るのがよいとのこと。大正解でした。今回はその第1回目、67号墳、68号墳、それに大久保塚と呼ばれている92号墳です。いずれも100mには満たないものの中型から大型の大きさの前方後円墳です。  感心したのは古墳と住宅が調和して存在していたことでした。開発規制があるのかはわかりませんが住宅が古墳を取り囲むように迫っているところも決して少なくありません。同じ宮崎県にもあります。ところが、ご覧になっておわかりのように、ここでは古墳がメインで、現代の人々の生活は一歩引いているように見えます。おそらく地域の方々にとり、古墳の墳丘は借景のようなものなのかと思いました。筆者のそうした印象は祇園原古墳群を南下するにつれますます強くなりました(撮影2020年11月17日)。 PNG 祇園原古墳群の位置 21年11月19日作成
PNG 祇園原古墳群(1)21年11月20日作成
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小さな石室にこれほど豪華な副葬品・・・


 南九州の東側に集中して造られた地下式横穴墓を見なければと、発掘調査後に石室の現物を移築して覆屋で整備保存している島内139号墳に行ってきました。宮崎市内から現地えびの市への移動が、想像を超えて大変でしたが、その話は後回し。肝心の今回の139号を説明するのはなかなかに難しく、どこまでわかりやすくできるか不安です。  一般的に地下式横穴墓といわれるものは地下に1mほど竪穴を掘って、そこから横に玄室を掘るというものです。私の理解では墳丘はなく、したがって鹿児島県大崎町で聞いた話では、現在でも土地整備中に空洞がみつかるということがあるというものでした。今回の島内地下式横穴墓群を説明したえびの市のHPにも「墳丘を造らず地下の「玄室」に遺体を葬る九州南部特有の墓です」とあります。ところがこの動画の後半で紹介している139号に隣接する真幸村(まさきそん)古墳1号墳は径24m、高さ2.5mの円墳で周濠には地下式横穴墓が確認されている(県HP)そうです。歴史資料館の方の話では、近年の研究では墳丘は高くはないもののあったのではないかと考えられ、地元の古老によれば、開墾される前は塚があちらこちらに見えたという記録もあるそうです。139号は駐車場整備の過程で偶然発見されたそうですが、石室のある地表面一体は墳丘が存在したと考えられる状況だそうです。つまり古墳時代から現代に至る過程で、さほど高くない墳丘は削平されてしまったということです。真幸村古墳も残りの11基は既に消滅しています。  肝心の139号墳に戻りますが、甲冑等武具類等豊富な出土品からもわかるように地下式横穴墓といわれるものよりも上位の石室構造です。横穴式石室系板石積み石棺墓と名付けられていますが、立坑を堀り、そこから短い羨道を横に掘り、大きな板石を用いて玄室を設けるというものです(イメージ図参照)。埋め戻されたすぐ横に、石棺墓自身が覆屋に囲まれて移設されています。 高さが玄室で94㎝しかなく、男女2体を豪華な副葬品の数々とともに葬っているのですから、かなり窮屈な印象です。これら出土品は周辺一帯に広がる地下式横穴簿からのものを含め、えびの市の歴史民俗資料館で見ることができます。その質、量ともに半端ではありません。象嵌による装飾を施した鍛冶具も見つかっています。当然、なぜ、南九州の、えびの高原に古墳時代の一時期(5C末から6C後半)、こうした墳墓が築かれたかが疑問として浮かびます。在地首長ながら、ヤマト王権と強い関係を持ち、各地で前方後円墳を築くことを許されたクラスの人物ということになりますが、被葬者の武人的性格からするとヤマト王権の軍事部門を担当していたか朝鮮半島との交渉に携わっていたのではないかと考えられているようです。  宮崎市からのアクセスは難航しました。熊本行の高速バスでえびの高原下車。タクシーでJR 九州吉都線京町温泉駅へ移動。そこからマップにある現地まで徒歩30分でした(撮影2020年11月18日)。 PNG 島内139号平面図 21年9月6日作成
PNG島内139号模式図 21年9月6日作成
PNG島内139号ルート
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国富町の皆様の古墳ですが


 国の史跡といっても色々です。本庄古墳群(1)で紹介したように、このブログでみてきた墳丘の残りのよい古墳群とはかなり違います。多くは街道筋に造られたこともあり、人の手が加えられ、墳丘は築造時とはかなり違っています。国富町第5次総合計画で詳しく紹介されていますが、数回にわたり全古墳を調査した記録からもそのことはわかります。調査の背景にはこれ以上の古墳の破壊を食い止めようという意図があったと思いますが、国富町の方々には申し訳ないのですが、時既に遅しと考えるのは私だけでしょうか。中途半端に残すのであれば削平したほうがよいのではないかと思ったりもします(史跡指定されているので墳丘自体は触れられないことはわかっていますが)。他方、比較的残りのよい前方後円墳が、開発の波に押され、新築住宅に囲まれてしまう事態だけは避けるというような配慮が必要ではないでしょうか。部外者の勝手な感想です。本庄古墳群(1)クリック)と合わせて
ご覧ください(撮影2020年11月19日)。PNG 本庄古墳群主要古墳 21年6月12日作成
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古くから国の史跡指定の古墳ですが・・・

 
 この古墳群のある場所を説明するには、町の大通りの左右に点在していますという言い方が最も適当です。実際、指定を受けている57基の古墳の多くが市街化区域にあります。多くの古墳や古墳群が町の中心から離れたところに立地していることからすると、かなり異色です。しかも、見慣れた円墳や前方後円墳だけでなく、南九州特有の地下式横穴墓(ただ埋め戻されている)も含まれています。あの小学校の裏に、あの店の横に、あの開発中の建売住宅の裏側にという感じです。ということで見学はびっくりするほど容易です。国富町役場で貰った「こんなにたくさん!本庄の古墳」(クリアファイル)を手元にゆっくり回っても2時間もあれば十分です。  
 今でも古墳群が国富町の中心にあることからわかるように、古来、この地が商業、流通の拠点であったことは間違いありません。北には深年(ふかとし)川が南には本庄川が流れ、細長い本庄台地と呼ばれる肥沃な土地です。動画の最後に登場する前方後円墳37号の後円部に立つとその立地を体感できます。ただ、残念なことに人々の日常生活と不即不離である立地のせいか、今回紹介した4基を含め墳丘の大半が大きく削平され、土留めのためにコンクリートで裾が固められているものもあります。本庄古墳群と同じ1939年に史跡指定を受けた西都原古墳群(こちらは国の特別史跡)とはその点が大きく違います。
 目につきやすいということもあって古くから記録、研究が活発に行われ、今回紹介している前方後円墳38号の墳丘に建つ剣塚稲荷神社の宮本真琴氏は明治期に古墳のスケッチを含め、詳細な記録を残しています(このスケッチは、国富町のHPにある本庄古墳群保存管理計画書にあります)。それを見ると現在の墳丘とあまり変わりのない様子が確認でき、昔から開発の波に晒された古墳群であることがわかります。もっとも、現在の住民の方々が、この古墳群に愛着をお持ちのことはこの計画書を読むとよくわかります。ただ、いずれ紹介する墳丘がよく残る26号墳(てんの塚古墳)の南側は、建売住宅の建設真っ最中。これでよいのだろうか、しばし考えてしまいましたアクセスは宮崎たちばな通りから国富綾行きのバス(1時間に1本はある)で国富下車、目の前に役場があります。(撮影2020年11月19日)。PNG 本庄古墳群(国富町)(宮崎)場所 21年5月20日作成

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