古墳を動画で見るサイト guami_38_36のblog

なんでも実際に見てみないと気が済まない私。古代史初学者として3世紀中頃から7世紀初頭にかけて東北から九州まで造られた5200基もの古墳の内、墳丘が残り実際に墳頂まで登れるものを訪ねはじめました。2011年秋のことです。既に先輩方が古墳のブログやHPを立ち上げられて今でも大いに刺激を受けています。ただ、権力者がなぜこれほど大きな構築物を造ったのかに興味がある私には、残念なことに大半の画像が静止画であるためにそのスケール感が伝わってきませんでした。偶然、動画で撮ってみたら案外いける。そんな思いで撮りためた古墳動画を見て頂くことにしました。素人の撮影ですから、古墳マニアや専門家の方々からは厳しいご指摘はあるかと思います。ブログでは基本情報とともに一つの古墳に3-5本程度の動画(各1分以下)を用意しました。この素人の試みが古墳を具体的にイメージする一助となれば幸いです。

■古墳時代の時期区分
 このブログでは古墳時代を広瀬和雄さん(国立歴史民俗博物館名誉教授)が通説として紹介している古墳時代を前期(3C中頃から4C後半頃)、中期(4C末頃から5C後半頃)、後期(5C末頃から7C初め頃)、終末期(7C前半頃から8C初め頃)に区分して捉えています(前方後円墳の時代、岩波新書、2010年)。
■アップの順番
 前期⇒中期⇒後期(終末期)の古墳を一基ずつワンセットにして全国の古墳を網羅することを目指しています。三基の古墳には何ら有機的な関係はありません。一つの地域に集中して前期から終末期まで掘り下げて見るのが一般的ですが、敢えてそうしなかったのは古墳時代の前期、中期、後期に全国でどのような墳墓が築かれたかを知りたいと思ったからです。古墳の築造年代は専門家の間でも様々な意見があり実年代を確定することが如何に困難なことかは承知しています。そのような限界の下でも古墳を横断的にみると今まで見えてこなかったものが見えてきたような気がします。専門分野外の古墳時代に関心を持ちはじめて日も浅い者ならではの冒険です。
■ご覧になる方法
最新記事12件についてはそのまま下にスクロールすれば見れます。各都府県別古墳は右の一覧をクリックしてください。文中にも関連の古墳に直接飛べるようにリンクを貼ってあります。

タグ:古墳

  百舌鳥古墳群は仁徳天皇陵(大仙古墳)、履中天皇陵(石津ヶ丘古墳)など超大型の古墳が多く、また宮内庁がそれらを天皇陵としているために拝所やビルの谷間に見え隠れする姿を眺めるだけで近づくことすら叶いません。もっとも陵墓指定されていない他の前方後円墳も数多くありますし、円墳、方墳を合わせると100基以上が百舌鳥古墳群を形成していたそうです。現在では44基が残されています。これ以下の記述の事実関係は最近知った久世仁士さんの「百舌鳥古墳群をあるく」(創元社、2014)によっています。単なるガイドブックではなく考古学者としての著者の古墳保存のあり方など共感する部分がかなりありました。

 古市古墳群に比べ墳丘を間近に見ることのできる古墳は百舌鳥古墳群は非常に少ないです。しかも今回ご紹介する旗塚古墳、銭塚古墳、グワショウ坊古墳ともに原形からはかなり遠い形での保存になっています。とはいえ動画1と2に見る旗塚古墳の周囲にめぐる濠越しに見る墳丘は短い前方部と後円部の対比がよくわかります。墳長58m、後円部径42mと中規模の帆立貝型前方後円墳です。ところが動画のキャプションにも書きましたが堺市の都市緑化植物園の実験林として墳丘が用いられてきたために樹木が密生し墳形を確認することはできないのです。しかも墳丘下部は崩落防止のためでしょうか石垣が巡っており、これでは古墳の形をした山にしかみえません。久世さんも指摘されているように旗塚とグワショウ坊の古墳は、古墳名を記した石柱はありますが考古学的な説明板はありません。実に不思議です。旗塚古墳は円筒埴輪に加え朝顔、衣笠のような形象埴輪、そして石見型埴輪と呼ばれる盾形をした埴輪が出土した点で貴重だそうですが、ならばなおさらのこと史跡としての説明が必要です。兵庫県伊丹市の御願塚古墳(クリックすれば飛べます)がほぼ同じの墳長52mですから比較するには適当だと思われます。だいぶ保存状況は異なります。

 グワショウ坊古墳は径62mと百舌鳥古墳群中二番目の大きさですが削られた墳丘上にはうっそうと実験林が広がりとても古墳とは思えません。動画を撮る気力さえ失せてしまいました。様々な歴史的経緯があるのでしょうが残念の一言です。この二つの古墳から道を挟んだ大阪府立堺特別支援学校の校庭にある銭塚古墳は綺麗に整形された墳丘の裾周りをみて一瞬円墳かと思いました。調べてみると元は墳長72.5mの帆立貝型の前方後円墳で現在は学校建設のために前方部は削平されてしまったとのこと。旗塚よりも一回り大きな帆立貝型前方後円墳でありなんとか保存できなかったかと思うばかりです。皆さんはどう思われますか

これまでアップした百舌鳥古墳群は仁徳天皇陵(大仙古墳)、履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)、いたすけ古墳御廟山古墳です。いずれも古墳名をクリックすれば直接飛べます。アクセスはJR阪和線百舌鳥駅下車。仁徳天皇陵とは反対の南西方向に5分ほど歩くと右手に大きな公園が見えます。その中にあります。銭塚は道を挟んだところにみえます(撮影2017220日、2014125日)。
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旗塚古墳他 基本データ

所在地 大阪府堺市

形状 前方後円墳(帆立貝形)グワショウ坊 円墳、銭塚(帆立貝型形)

規模 墳長58m 後円部径41m 高さ不明、前方部幅25m 高さ不明

グワショウ坊 円墳 径61m 高さ不明、銭塚(帆立貝型前方後円墳)

墳長 72.5m、後円部径54m 高さ不明、前方部幅不明 高さ不明

築造時期 旗塚 5C央、グワショウ坊 5C後、銭塚 5C

史跡指定 百舌鳥古墳群として国指定

特記事項 なし


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 全国で前方後円墳が最も多く築かれたのはどこの県でしょう。ご存知の方も多いと思いますが今回その一基を紹介する千葉県が733基と第一位なのです。ついで群馬の455基、茨城が391と東国が続きます。多そうに見える奈良県は312基、大阪府は202基にとどまります。千葉県教育委員会の白井久美子さんによれば、このブログでも見てきたように関東では前期は前方後方墳が多数豪族の墓として採用される一方、近畿では前方後円墳がほとんど造られなくなった6C後半以降盛んに築かれていると指摘しています(「前方後円墳の理解」、千葉大学人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書 20142月)。その理由を白井さんは東北進出というヤマト王権の命題に呼応したためとみています。とても興味深い指摘でこのブログでも東国の古墳を紹介するときには頭に置いておきたいと思いました。

 肝心の今回の公津原古墳群ですが図の1にあるように三つの支群からなっています。JR成田線の成田湯川駅から南方向に歩くと八代台古墳群、天王塚・船塚古墳群、それに今回の最も南にある瓢塚古墳群が4㎞ほどの間に点在しています。元は公津原古墳群全体では120基を超える古墳があったようですが現在は38基余りが県の史跡に指定され住宅や公園の中に眠っています。既に方墳の大型墳船塚古墳(クリックすれば飛べます)を紹介しています。この地域は千葉県の北部に位置し、手賀沼・印旛沼周辺には既に紹介した巨大な方墳、龍角寺岩屋古墳や我孫子市の水神山古墳(クリックすれば飛べます)を含め多数の古墳が残されています。

 成田ニュータウンの造成に合わせて今回の公津原古墳群は復元整備されたようで住宅が密集するなかに古墳が溶け込んでいることに感心しました。いずれ紹介する団地や小学校の校庭のなかにも古墳が残され間近にみることができます。

 公津原3号墳は墳長45mと小ぶりですが前方部が未発達の前期古墳の特徴がよく残されています。天候に恵まれたこともあり南側からみる稜線の美しさが印象的でした。周濠の残存状況にも驚かされました。アクセスは成田湯川駅から徒歩をお勧めします。4-5時間あればゆっくりまわれます。撮影(20161231日)。
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公津原3号墳(瓢塚)基本データ

所在地 千葉県成田市加良部

形状 前方後円墳 周濠

規模 墳長45m、後円部径21m 高さ6m、前方部幅15m 高さ4m

1号墳 径25m 高さ2m2号墳 径23m 高さ2m

築造時期 4C

出土品 不明

史跡指定 県指定

特記事項 なし




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  今回紹介する古墳後期の最後頃(7C初)に築かれたと考えられる秋殿南古墳は既に紹介した桜井駅の南側に広がるいくつかの古墳の至近距離にあります。古墳を訪問しはじめた頃から何度も降りたったJR桜井線(近鉄〇〇線)桜井駅ですが、あらためて見返してみるとあの古墳がこんな近くにあったと改めて驚かされます。あとで言及する全ての古墳が2㎞四方に点在しています。はじめの頃はバスに乗り継いで目指す古墳を訪ねましたが、本数の少ないバスを待つよりも歩いたほうが時間のロスが少ないことに気が付きました。

 本題からは外れましたが、今回の秋殿南古墳、見応えのある横穴石室です。桜井駅の南東に聳える鳥見山(とみやま)の裾にある一辺26mの方墳です。といっても動画4でおわかりのように墳丘は雑木林に覆われており素人にはその形はまったくわかりません。南側に開口する横穴石室、ご覧のように入口は埋もれ羨道部分はもともと高さ1.4mほどしかないためにかなり前に進むのが大変でした。しかし7mほどの羨道を歩きながら正面に広がる奥行4.5mの玄室を見ると、そのコントラストの美しさとスケールに驚かされました。このあたりは、つい最近紹介したおそらくは庶民の家父長クラスの小ぶりの横穴石室とは全く違います。だいぶ前に訪れた秋殿南古墳ですが、動画を見返してみると同時代にこうした異なる規模の横穴石室が日本全国で築かれていたことに感慨を覚えました。

 秋殿南古墳の横穴石室は明日香村の精巧な切石で知られる岩屋山古墳(クリックすれば飛べます)に近いという解説もあるようですが少々違う印象です。花崗岩製と思われる石組はよりダイナミックな感じがするように思えるのですが・・・。アクセスは冒頭で書きましたように徒歩がお勧めですがバスの場合は桜井市コミュニティーバス(桜井駅南口発)談山神社行きで朝古下車。徒歩10分。バスは一時間に一本です。バス停から東に歩き(県道37号線)四つ目の辻を左折すると動画4の畑がみえます(撮影日20151027日)。

 なお参考のためにこれまでアップした近くの古墳と位置関係をあげておきます。クリックすれば飛べます。是非比較してご覧ください。

 前期の桜井茶臼山古墳メスリ山古墳、中期の兜山古墳、後期の谷首古墳、終末期の艸墓古墳安倍文殊院西古墳の各古墳です。
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秋殿南古墳基本データ

所在地 桜井市浅古

形状 方墳

規模 一辺24m26m)高さ不明 

横穴石室 長さ11.2m(天井石が残っているところまで)、玄室長さ4.48m

2.26m、高さ2.4m、羨道長さ6.72m アバ1.7m 高さ1.4m

築造時期 7C

出土品 不明

史跡指定 国指定

特記事項 なし




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 今回の6C末に造られたと考えられている径12mの小さな円墳、天神洞古墳については情報が乏しいのが実情です。動画に見るように墳丘及び横穴石室は復元され小さな公園内に保存されています。わかっていることはこの辺り一帯は香貫(かぬき)九十塚といわれる古墳群があり、そのなかに天神洞が含まれています。1970年代に行われた土地区画整理に際しての三基の古墳が発掘調査され武器類やメノウ製勾玉装身具、土器類などが多数出土したことがわかっています。沼津市教育委員会の説明では天神洞古墳は、これらの発掘調査で明らかになった結果に基づき、おそらくこのような横穴石室をもった円墳が存在したであろうという想定の下に復元を行ったということでした。

 地域的に近く、また6C末と同じ頃に造られたと考えられる静岡県富士市の円墳、実円寺西古墳(クリックすれば飛べます)は径18m 奥行9.5mに対して、天神洞古墳は径12mに対して奥行4mに留まっています。この古墳群にはこの規模の円墳がいくつもある群集墳だったと考えられます。この規模からして古墳の造営が有力な豪族しか造られなかった時代から、下位レベルのより小さな地域を治める豪族、さらには上位の庶民上層部の者、家父長クラスにまで可能となったことを示すものといえるのではないでしょうか。アクセスは沼津駅から東海バス大平行きで中瀬バス停下車信号まで戻り山側に渡り入るとすぐです(撮影20161011日)。


天神洞古墳(香貫古墳群)基本データ

所在地 静岡県沼津市中瀬町

形状 円墳(復元)

規模 径12m 高さ2.3m 横穴石室 長さ4m 床近くの幅1m、天井近くの幅0.75m

築造時期 6C

出土品 武器類やメノウ製勾玉装身具、土器類など多数

史跡指定 なし

特記事項 本文に書いたように天神洞古墳は区画整理に伴う発掘調査の結果明らかとなった遺構等から想定復元された横穴石室のある円墳。




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  八女古墳群は既にアップ済みの童男山古墳1号墳童山古墳2号・3号墳(クリックすれば飛べます)が最後に、今回の石人山古墳が最初に築かれた福岡県の八女市一帯東西に広がる丘陵に5Cから6Cに築かれています。中でも墳長130mを超える前方後円墳の岩戸山古墳は、ヤマト王権と軍事的抗争にまで発展した筑紫君磐井(つくしのきみいわい)の墓の確率が高いとされ、凝灰岩製の彫刻、石人・石馬が多数出土しています(いずれアップします)。他方、今回の石人山古墳はその名称の由来どおり、装飾された蓋のある家形石棺を守るかのように立ちはだかる武装石人で有名です。墳長107mの前方後円墳で築造の時期は岩戸山古墳よりも古く5C前半と考えられ被葬者は磐井の祖父との説もあります。

 墳丘は動画4で見るように雑木林に覆われていました。冬でもこの程度ですから夏場は墳丘自体あまり見えないのではないのでしょうか。気を取り直して東側に回り前方部の階段を戻ります。昭和を感じさせるコンクリートと鉄格子の小屋の中には武装石人が・・・。石人としては初期のものだそうです。

 顔面はほとんど石の塊状態で冑も裾まわりでかろうじてわかる程度です。朱が塗られていたことは目をこらすとわかりました。もちろん、造られた当初はこんなではありませんでした。どうやら病気による痛みが、石人のその部分を叩くと和らぐというこの地方の信仰が関係しているようです。風化だけではないのですね。それにしても少々気の毒です。裏にまわると動画2、3に見る装飾が彫られた横口式石棺が石室に半埋没の状態で見えました。残念ながら暗くて装飾自体はぼんやりしかみえません。入室できないのでやむなく鉄格子越しの撮影でしたが、たしかに美しい幾何学模様が彫られていることがわかりました。線刻模様をどのように誰が彫ったのでしょうか。

 この石室も石人も古くから地元の人々に知られていたようで、石室内の副葬品の多くは持ち去られ石人、埴輪以外は見つかっておらず武装石人のご利益はなかったようです。 

 JR久留米駅から西鉄バス筑紫船小屋行きで約30分、一条のバス停から広川町古墳公園資料館まで徒歩で15分ほど。バスの進行方向と反対に歩きセブンイレブンのある信号を左折し500mで広川町古墳公園資料館の看板がみえます。石人山古墳は資料館の裏手です。

 なおややこしいことにこの石人山古墳は八女郡広川町に、そして岩戸山古墳を含む他の古墳の多くは八女市にあります。そのせいでしょうか。八女市の岩戸山古墳資料館(最近超モダンな建物に移った)のHPの八女古墳群の古墳一覧のなかに石人山古墳は紹介されていないのです。考古学的には八女古墳群で最初に築かれた大型の前方後円墳は石人山古墳であるにもかかわらずです。現在の縦割り行政が古代の遺跡にも及んでいるという妙なことになっています。広川町の石人山古墳資料館にも簡易なHPがあり八女市の岩戸山古墳資料館ではリンクを貼れるように交渉しているというのですが・・・。今日にも解決できる話だと思いますが皆さんはどうお考えでしょうか(撮影2016年12月27日)。
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石人山古墳(八女古墳群)基本データ

所在地 福岡県八女郡広川町

形状 前方後円墳

規模 墳長107m、後円部径53m 高さ12m、前方部幅63m 高さ11m

周濠あり 前方部二段、後円部三段築成

築造時期 5C

出土品 石人、家等形象埴輪

史跡指定 国指定 
特記事項 石室壁は板石の平積み



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 古墳といえば埴輪はつきものですが実に奥が深いですね。古墳踏査をはじめる前、墳丘には教科書などでみかける人や馬、家形の形象埴輪が並んでいるのが一般的だと考えていましたが、必ずしもそうではないのですね。専門家や古墳ファンには笑われてしまいそうですが円筒形の埴輪が先行し、形象埴輪はだいぶ時がたってから登場することは歩いてみてわかったことでした。

円筒埴輪でも今回の動画1から3で紹介しているように、開いている孔の形が■や▽から中期以降○に変化しているようです。ということは円筒埴輪の孔の形を見ると古墳の築造時期の手掛かりが得られるということになります。大いに参考にさせて頂いたのは村井嵒雄さん他著古墳の知識Ⅱ(東京美術、1988)やネットで紹介されている円筒埴輪で有名な川西宏幸さんの編年です。

埴輪の状況は発掘調査の際に破片などが出土しわかるわけですが、築造当時埴輪がどう並べられていたかは復元された墳丘を目の前にしてはじめて実感できます。雑木林と化した墳丘や、前方後円墳、方墳、円墳など形はわかる程度の保存整備では埴輪や葺石の状況はよほど想像力を働かせなければ難しいと思います。その意味で今回、改めて紹介している復元古墳はいずれも実に見事ですし古墳理解に役立ちます。是非、本来の頁にもアクセスして頂ければと思います。

動画1では加計学園問題で一躍有名になった愛媛県今治市の妙見山古墳です。円筒埴輪は吉備で造られた特殊器台とよばれる壺などを置く筒状の器台が発達したものといわれています。定型化された最初の前方後円墳といわれる箸墓古墳からも出土しているそうです。

奈良県桜井市のメスリ山古墳は巨大な特殊器台型埴輪が多数並んでいたことで知られています。残念ながら墳丘に立ち並ぶ特殊器台にはこれまで遭ったことがなく、やむなく妙見山古墳の背の低い伊予形特殊器台と壺から想像して頂くことにしました。動画2では4C末に造られたといわれる兵庫県神戸市の五色塚古墳の埴輪に注目しています。4C末は時期区分でいうと前期と中期の境になりますが、立ち並ぶ埴輪の孔の形からは出土品が初期のものであることがわかります。左右に鰭(ひれ)がついた円筒埴輪が立ち並ぶ姿は被葬者を外界から守っていることを示しているのでしょうか。他方動画3で紹介している時代が下る中期の広島県東広島市の三ッ城古墳、京都府長岡京市の恵解山古墳にみる円筒埴輪の孔は○に変化しています。それに円筒埴輪にも鰭(ひれ)はついていません。単なる流行だったのでしょうか。

 円筒埴輪の列に混じって朝顔の花を上からみた感じの広がりをもつやや大型の円筒埴輪が確認できます。朝顔形円筒埴輪というそうですが朝顔が日本に入ったのは奈良時代といわれていることを考えると朝顔の花を模したものではなさそうです。


妙見山古墳五色塚古墳三ッ城古墳恵解山古墳(いずれもクリックすれば飛べます)(撮影日妙見山2016年3月26日、五色塚2015年7月8日、三ッ城2014年11月14日、恵解山2017年2月16日)。



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  今回の後期古墳福岡県福岡市にある今宿大塚古墳は私にとり非常に印象深い古墳です。この古墳踏査をはじめて間もないころ、まだ時期区分による墳丘の特徴もよくわからないままに大手ドラッグストアの裏手に墳丘を見た時、そのアンバランスな光景に度肝を抜かれました。動画でご覧になれるように古墳のすぐ後ろには絶え間なく車が行き来する高速道路が見え、その奥には特徴ある形の高祖山(たかすやま)が聳えています。周囲といえば住宅が立ち並び、さらに開発中です。よくいえば古代と現在が同居していますが一歩間違えば墳丘が住宅に取り囲まれてしまいそうです。

  ところが福岡市は実に見事な史跡公園を完成させました。この動画は2015年の暮れですからもう既に開園していると思われますが、二重の周濠を含め今宿大塚古墳が遠くから古代の人が見たであろう墳丘を完全に残すことにしたのです。できれば二段築成の一段目にあったといわれる葺石も復元してほしかったですが・・・。興味深いのは墳長が64mに留まることです。後期の6C前半にしては決して小さくはありませんが、そのことよりもこのブログで紹介した65m程度の古墳に比べるとはるかに大きく見えるのです。周濠があり墳丘の間近には遮るものがないことが最大の理由でしょう。

  墳丘がよく確認できる墳長64m級のアップ済み前方後円墳を紹介しておきます。ずいぶんと印象が異なります。いずれも古墳名をクリックすれば飛べます。是非、比較してご覧ください。石川県の能登部町にある墳長65m雨の宮2号墳(中期)、大阪府池田市の62m池田茶臼山古墳(前期)、千葉県千葉市の63m大覚寺山古墳(前期)、静岡県静岡市の墳長65m三池平古墳(中期)、奈良県高取町の墳長66m市尾墓山古墳(後期)。

  大塚古墳のあるJR筑肥線の今里駅から周船寺駅にかけての一帯は弥生時代には魏志倭人伝にある伊都国に属しその後も地域としてのまとまりをもっていたようです。それを跡付けるのが4C後半から6C後半、つまり古墳時代を通じて築かれた前方後円墳13基を含む300を越える古墳です。残念ながらその多くが開発によって消滅していますが九大学研都市駅の駅前の墳長44mの山ノ鼻1号墳(4C前半)、最も古い横穴石室と考えられる鋤崎古墳(4末)、既に紹介した石室を見学できる群中最大の墳長85mの前方後円墳丸隈山古墳(5C前半)(クリックすれば飛べます)それに今回の大塚古墳が首長墓ではないかとみられ今日まで残されています。

  墳丘は前方部の幅が43mと後円部径よりも4m長い典型的な後期の前方後円墳です。もっとも前方部の高さは後円部よりもやや低い5.5mに留まっています。もうひとつ印象的なのはくびれがさほど鋭角ではなく全体として寸胴な点です。埋葬施設は発掘調査が行われていませんが後円部南側にあると考えられています。葺石は一段目、円筒埴輪はテラス及び濠と濠の間の外堤には円筒埴輪、人物、馬の形象埴輪が並んでいたことがわかっています。アクセスは非常にわかりやすくJR筑肥線今宿駅から徒歩10分弱です。駅から西に100mほど歩き県道202号線を南に下ります。信号一つ目を過ぎドラッグストアがあるのでそこを右に入ると墳丘が見えるはずです(動画1の公園入口の道が見えるかもしれません)(撮影20151226日)。
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今宿大塚古墳(今宿古墳群)基本データ

所在地 福岡県福岡市

形状 前方後円墳 二段築成、下段に葺石 二重の周濠 8-12mの内濠、堤を挟み幅5m

外濠

規模 墳長64m、後円部径39m 高さ6m、前方部幅43m 高さ5.5m

築造時期 6C

出土品 円筒埴輪、人物、動物埴輪

史跡指定 国指定

特記事項 埋葬施設が後円部南側にあるとみられている



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  既に島根県安来市の古代出雲の王領の丘にある古墳のいくつかを紹介しましたが(たとえば造山2号墳クリックすれば飛べます)そこから日本海沿いに東に30㎞ほどのところ、鳥取県米子市に今回の岩屋古墳(向山1号)はあります。日本海を望み背後には大山が控える小高い丘に10数基の古墳が5C末から6C末の古墳時代後期に築かれています(向山古墳群)。岩屋古墳は最も遅くに築かれた横穴石室を持つ前方後円墳です。墳長は52mとさほど大きくはありません。くびれではなく後円部に造出しが設けられていたようです。さきたま古墳群の将軍山古墳と同様です(クリックすれば飛べます)。肝心の墳丘ですが初夏に訪れたためにどの古墳も緑一色。岩屋古墳もよくみないと前方部と後円部の違いもわかりません。救いは石室の見学には支障がなかったことでした。

動画でおわかりのように石棺ごと玄室(奥室)になっています。大阪羽曳野市の観音塚古墳お亀石古墳(クリックすれば飛べます)も石棺の辺の一部をくり抜き遺体を埋葬していましたが、こちらのほうは4.8m×2.8m、高さ2.5mもある巨大な石棺が丸ごと石室になっています。しかも壁石は一枚の板石です。塗られた朱がうっすらと残っています。手前の前室も同様のつくりですが天井石がなくなっています。崩壊を防ぐために入口には覆家とステンレス製の枠が設置されていますがもう少し古墳時代に相応しい気の利いた保護措置があってもよいのではないかと思いました。それでも崩壊の危険ありとして埋め戻し見学もできない石室が増加している現在、大変貴重です。アクセスはJR山陰本線淀江駅から徒歩で30分ほど。駅を北に歩き広域農道310号線を目指します。その道を白鳳高校前の信号まで進み右折、500mほどで右手に公園入口があります(撮影2016年7月7日)。
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岩屋古墳(向山古墳群)基本データ

所在地 鳥取県米子市

形状 前方後円墳

規模 墳長52m、後円部径30m 高さ6m、前方部幅20m 高さ

築造時期 6C

出土品 須恵器、円筒埴輪、人・馬・水鳥など形象埴輪、馬具

史跡指定 向山古墳群として国指定

特記事項 横穴石室  長さ9m、奥室(石棺) 4.8m×2.8m高さ2.5mの石棺式石室


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  今回紹介する古墳時代前期の4C前半頃に造られたと考えられる文殊山、阿弥陀山の両古墳は広瀬川(古墳時代には利根川が現在の広瀬川の位置に流れていた)沿いに4Cから7Cつまり古墳時代を通じて多数築かれた朝倉・広瀬古墳群に属しています。前橋埋蔵文化財センターの「朝倉・広瀬古墳群」のパンフレットによれば古墳群は旧利根川(広瀬川)の崖上に発達した前橋台地に位置し、北側には高燥な土地が帯状に延び、南側には肥沃な水田が広がる」東西4㎞ほど南北500mほどの範囲に造られています。

 実はこの古墳群から既に墳長130mの東日本では最大、全国でも第4位の前方後方墳、前橋八幡山古墳、墳長108m前橋二子山古墳天川二子山古墳ともいう)(クリックすれば飛べます)を紹介していますが、これらを含め昭和10年の調査では154基が確認されています。19基の前方後円墳、1基の前方後方墳、130基の円墳、1基の方墳、不明3基と首長クラスの主墳に部下たちの小墳が囲むように造られています。今では10基ほどが交通頻繁な道路沿い、立ち並ぶ住宅地の中に公園化され残されているだけですが、それでもパンフレットの地図に記された古墳の数の多さには度肝を抜かれます。

 今回の阿弥陀山と文殊山古墳は古墳群の最も東側に並ぶように位置しています。文殊山古墳については1995年の発掘調査では墳丘全体は川原石に覆われ、墳頂には壺形が立ち並んでいたわかっています。築造時期は4C前半から中頃とのこと。今では墳丘裾部は所有者の禅養寺の墓地となっていますが周囲をぐるっとまわれば大きな円墳ということはよくわかります。他方、発掘調査は行われておらず詳細は不明な阿弥陀山は円墳に短い前方部がついた小規模の帆立貝型の前方後円墳です。文殊山古墳と同じ頃に造られたのではないかと考えられているようです。動画1に見るように前方部には現代の墓石が立ちならんでいるものの墳頂から眺める文殊山古墳の墳丘は当時と変わらぬ姿に違いありません。アクセスはJR両毛線前橋大島駅から徒歩30分。前橋大島駅南側の4つ目の信号を左折ひたすら直進すると8つ目に禅養寺があり見渡すと二つの古墳が見えます(撮影 2017年2月7日)。
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阿弥陀山・文殊山古墳基本データ

所在地 群馬県前橋市

形状 帆立貝型前方後円墳(阿弥陀山)、円墳(文殊山)

規模 径25mの円墳に5mほどの前方部 高さ3.6m(阿弥陀山)径約50m 高さ6.1m(文殊山)

築造時期 4C

史跡指定 なし

出土品 壺(文殊山古墳)

特記事項 両古墳は民間所有



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  紹介する古墳とは直接関係ありませんが、考えていたよりもよく撮れているととても嬉しい気分になります。遠くから墳丘を確認できた琵琶塚古墳を見たあと道路を挟んで雑木林のなかに佇む今回の摩利支天塚古墳の墳丘は木漏れ日に輝いていました。幻想的な姿ですが動画で撮るとその様子はよくわからないというのが普通ですが、今回はその片鱗がうかがえるように思えます。一人悦に入っています。

 ところで今の栃木県(下毛野)には全国の古墳群と同様、河川流域に沿って周辺を支配していた有力者の墳墓が造られています。それまで目立った墳墓が築かれていなかった思川と姿川の合流点付近では、5C末になり今回の摩利支天塚古墳にはじまり、6C初に琵琶塚古墳((クリックすれば飛べます6C末には吾妻古墳(未アップ)と100mを優に越す大型の前方後円墳が造られます(この辺りの説明は(「古墳・下野市・壬生町周辺の古墳群」下野市教育委員会、壬生町教育委員会、2013)によっています。摩利支天塚の前方部は現状ではよくわかりませんが先が剣のように突き出る剣菱型をしています。以前紹介した西洋庭園のような栃木県宇都宮市の塚山古墳(5C後)(クリックすれば飛べます)が同様の前方部を有していました。築造時期は摩利支天塚のほうが少し後になりますが築造集団が同じだったのでしょうか。他方、琵琶塚、吾妻古墳に特徴的な一段目テラス(平坦面)が幅広かったの対して摩利支天塚は通常の二段築成です。葺石はなく埴輪が巡っていたことが明らかになっています。周濠は二重に巡っていました。

 北方向200mほどのところにある琵琶塚古墳が築かれる際には摩利支天塚古墳は既に完成していました。どんな思いで作業に当たっていた人々は摩利支天塚古墳の姿を見ていたのでしょう。想像が掻き立てられます。摩利支天社のお社が後円部に建てられていますが墳丘はあまり改変されていないそうです。アクセスは下野市にある小金井駅から西に国分尼寺跡を目指し姿川を渡ったところを左折し南に下ると右手に琵琶塚古墳が見えます。徒歩40分。西口にある下野市観光案内所がでわかりやすい地図をくれます(撮影2016128日)。

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摩利支天塚古墳基本データ

所在地 栃木県小山市

形状 前方後円墳

規模 墳長117m120m)、後円部径70m 高さ10m、前方部幅75m 高さ7m

二段築成 二重周濠

出土品 円筒埴輪

築造時期 5C

史跡指定 国指定 

特記事項 葺石は敷かれていない


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