古墳を動画で見るサイト guami_38_36のblog

なんでも実際に見てみないと気が済まない私。古代史初学者として3世紀中頃から7世紀初頭にかけて東北から九州まで造られた5200基もの古墳の内、墳丘が残り実際に墳頂まで登れるものを訪ねはじめました。2011年秋のことです。既に先輩方が古墳のブログやHPを立ち上げられて今でも大いに刺激を受けています。ただ、権力者がなぜこれほど大きな構築物を造ったのかに興味がある私には、残念なことに大半の画像が静止画であるためにそのスケール感が伝わってきませんでした。偶然、動画で撮ってみたら案外いける。そんな思いで撮りためた古墳動画を見て頂くことにしました。素人の撮影ですから、古墳マニアや専門家の方々からは厳しいご指摘はあるかと思います。ブログでは基本情報とともに一つの古墳に3-5本程度の動画(各1分以下)を用意しました。この素人の試みが古墳を具体的にイメージする一助となれば幸いです。

■古墳時代の時期区分
 このブログでは古墳時代を広瀬和雄さん(国立歴史民俗博物館名誉教授)が通説として紹介している古墳時代を前期(3C中頃から4C後半頃)、中期(4C末頃から5C後半頃)、後期(5C末頃から7C初め頃)、終末期(7C前半頃から8C初め頃)に区分して捉えています(前方後円墳の時代、岩波新書、2010年)。
■アップの順番
 前期⇒中期⇒後期(終末期)の古墳を一基ずつワンセットにして全国の古墳を網羅することを目指しています。三基の古墳には何ら有機的な関係はありません。一つの地域に集中して前期から終末期まで掘り下げて見るのが一般的ですが、敢えてそうしなかったのは古墳時代の前期、中期、後期に全国でどのような墳墓が築かれたかを知りたいと思ったからです。古墳の築造年代は専門家の間でも様々な意見があり実年代を確定することが如何に困難なことかは承知しています。そのような限界の下でも古墳を横断的にみると今まで見えてこなかったものが見えてきたような気がします。専門分野外の古墳時代に関心を持ちはじめて日も浅い者ならではの冒険です。
■ご覧になる方法
最新記事12件についてはそのまま下にスクロールすれば見れます。各都府県別古墳は右の一覧をクリックしてください。文中にも関連の古墳に直接飛べるようにリンクを貼ってあります。

タグ:前方後方墳

  出雲地域はこれまで紹介してきたように四隅突出で知られる西谷墳丘墓(クリックすれば飛べます)、全国一の規模を誇る石棺を有する今市大念寺古墳(クリックすれば飛べます)、象嵌太刀が発掘された石室のある岡田山1号墳(クリックすれば飛べます)と見応えのある古墳がずらりと並んでいます。今回の山代二子塚古墳もそのひとつです。しかも畿内とは違い前方後方墳が古墳時代まで築かれた出雲地域のなかでも墳長94mと突出した大きさを誇っています。そうしたところから墳長100mの前方後円墳である今市大念寺古墳と出雲地域を東西で二分する勢力の東の雄の墳墓ではないかともいわれているようです。

 現地は古墳公園として整備され後方部の墳丘半分ほどの部分には墳丘の土層がわかる施設が造られています。数多くの古墳を訪問していますが、このような施設ははじめてお目にかかりました。後方部には今市大念寺と同様の巨大な石室が眠っているようですが、発掘調査は行われていないそうで少々残念です。

古墳には何の責任もありませんが動画を編集しながら、やや訪れる時期が悪かったかなと思っています。梅雨入り間近だったために木々が取り払われた山肌に草が生えた墳丘は見栄えに欠けているのです。もっとも前方後方墳ということはよくわかりますし、後方部と前方部の高さの違いも同様に明らかです。なお後方部の削平は太平洋戦争中に陸軍が射撃場設置用に土取りしたためだそうです。全国を歩いているとそうした例は山代二子塚古墳だけではないことがわかります。

アクセスはJR松江駅から一畑バスで大庭・出雲線で山代町下車北に徒歩5分ほどです。

バス停の南側には大庭鶏塚古墳がみえます(撮影2016512日)。動画キャプションの表記後方部は半分ほどしか残っていないというのは誤りでかなり削平されているというほうが正しそうです。

PNG yamashirozuka zu  shusei

山代二子塚古墳基本データ

所在地 島根県松江市山代町二子

形状 前方後方墳

規模 墳長92m、後方部一辺55m 高さ8m、前方部幅55m 高さ6.5m

二段築成、葺石

築造時期 6C

出土品 須恵器、円筒埴輪

史跡指定 国指定

特記事項 1925年(大正4年)にはじめて前方後方墳と名付けられた古墳とされる


にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

  金沢から七尾線で1時間40分ほど。今回紹介する前期古墳 雨の宮古墳群のある能登部駅に着きます。能登半島を三分の一ほど北にあがったところといったらイメージがつかめるかもしれません。標高190mほどの眉丈山の尾根に位置する前方後方墳の1号墳からは、今では農業地帯となった七尾南湾につながる潟湖が見渡すことができたに違いありません。とにかく眺望がすばらしいのです。この立地からみて、当時最も重要だった運送手段である水運を支配した豪族が被葬者であることは十分に想像がつきます。ヤマト王権も、このルートの重要性をよく知り地域の支配者との関係を重視したのでしょう。銅鏡、短甲(胴を覆う多数の石釧(石製の腕輪)等の副葬品からもそのようにいえそうです。

興味深いのは、前方後方墳の1号墳の北東にある雨の宮2号墳は前方後円墳で、他の小規模な古墳も多数の円墳に加え方墳もありとバラエティーに富んでいることです。以前紹介した、宮城県名取市の前期古墳の飯野坂古墳群(クリックすれば飛べます)はいずれも前方後方墳だったことを思い出します。こうした違いにそれほど大きな意味はないと考えるべきなのか。よくわかりません。前期の前方後方墳で同様の規模といえば長野県松本市の弘法山古墳(クリックすれば飛べます)があります。丘陵先端に築かれているという点でも同様です。是非比較してご覧ください。

 雨の宮1号墳の墳丘は動画からわかるように葺石が一面に貼られていますが、興味深いのは後方部の前方部側斜面の左右に、他の石よりはるかに大きな石一つずつ置かれていることです。訪問は二度目ですが、前回は全く気が付きませんでした。前方部側からみると人の目のようにも見えるのですが・・・。また墳丘の整形は二種類の土を交互に突き固める版築技法が用いられているそうで当時の最先端の技術を利用しながら古墳は築かれています。1回目の訪問は春先ということもあり葺石の隙間からは草がだいぶ覗いていましたが、今回はすっきりした墳丘を堪能することができました。こうしてみると動画でも触れていますが、縦の区画が明瞭です。担当者がわかれていたということなのでしょうか。石川県能美市の秋常山古墳でも同様のことが観察できました(クリックすれば飛べます)。

 90年代後半に復元された墳丘の前方部裾左側には後方部にあった雨の宮のお社が移築されています。この古墳も神社によって長く見守られてきたことになります。雨の宮王墓の館のボランティアガイドの方に案内して頂いたので効率よく短時間でまわることができました(撮影日20161031日)。





PNG amenomiya1gou zu 修正

雨の宮古墳1号墳基本データ

所在地 石川県能登部町

形状 前方後方墳

規模 墳長64m、後方部辺43m 高さ8.5m、前方部幅31m 高さ5.5m

二段築成、葺石あり

築造時期 4C

出土品 銅鏡、石釧など腕輪形石製品、短甲、銅鏃、太刀、鉄鏃

史跡指定 国指定

特記事項 後方部頂に二基の埋葬施設



にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

 今回紹介する岡田山古墳群の1号墳は前方後方墳の墳丘もさることながら出土した円頭太刀に銀象嵌で額田部臣と書かれていることがわかり一躍有名になりました(重要文化財に指定され展示館で常設展示されています)。古墳時代の文字資料はさきたま古墳群の稲荷山鉄剣はじめ非常に限られているからです。

 八雲立つ風土記の丘の展示館から至近の距離にある1号墳は動画1でわかるように遠くからその姿を確認することができます。小規模な前方後方墳ですが前方部手前に24-5m四方のテラスが付属しているためにより大きくみえます。その手前の2号墳は径43mの円墳が小さくみえるぐらいです。残念ながら両古墳ともに墳丘は登頂禁止なので1号墳の後方部と前方部の関係、前方部と大きなテラスの関係はよくわかりませんでした。岡田山古墳群は両古墳に加え、小規模な古墳5基からなっています。

 1号墳の後方部の西側には長さ5.6mの横穴石室が開口していて組合式家形石棺が置かれています。不思議なのは長さ1.5mしかなく高さ0.9m、幅も0.8mしかないことです。かなり小型です。副葬品も前述の太刀に加え、銅鏡、玉など多数発掘されています。ただ、石室と石棺がともに残り、しかも公開しているものは決して多いとはいえません。これまでアップしているものを思いつくままに並べてみると奈良県の都塚市尾宮塚赤坂天王山、佐賀県の西隅、岡山県のこうもり塚、群馬県の宝塔山、静岡県の賎機山といったところでしょうか。是非、比較してごらんください。古墳名をクリックすると直接飛べます。

 それにしても八雲立つ風土記の丘に眠る古墳は幸せです。周囲に墳丘を遮るものがほとんどなく築造当時の姿を想像することが十分に可能です。

 アクセスはJR松江駅一畑バス④乗り場 八雲行きで30分ほど。風土記の丘入口で下車して進行方向に進むと右に小さな坂があります。そこを登ると展示館裏の駐車場に出ます。交通量が多いのでご注意ください(撮影2016年5月12日)。
PNG okadayama1&2 zu shusei




岡田山1号墳と2号墳基本データ

所在地 島根県松江市大草町

形状 1号 前方後方墳 2号 円墳

規模 1号 墳長24m、後方部辺11.5m 高さ3.5m、前方部幅11.5m 高さ3m

三段築成 2号 径43m 高さ6.5m

出土品 埴輪、須恵器、鏡、鉄刀(銀象嵌銘あり)、鉄鏃、鞍金具等多数

史跡指定 国指定

特記事項 銀象嵌銘のある円頭太刀は国重要文化財



にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

アップの作業をしている本日から遡ること5年と8日間前に起こった東日本大震災(2011311日)。この大災害を忘れるわけにはいきません。いくつかの古墳がこの全容を目の当たりにしていました。これまで2度にわたり紹介した宮城県名取市の飯野坂古墳群(1飯野坂古墳群(2からわずか南東2kmのところには津波被害の映像が繰り返し流された仙台空港が、また東6km方向には高さ9.1mの津波による甚大な人的被害が生じた閖上地区(ゆりあげ)があります。

秋の陽射しが指す飯野坂古墳群は震災の恐ろしさを忘れるかのように嘘のように静まり返っていました。今回が最後となる飯野坂古墳群(3)の薬師堂古墳は古墳群中では墳長68m66m65mと諸説ある)と最大規模の前期築造の前方後方墳です。そして山居古墳や観音塚古墳からは最も離れた南、つまり今回の津波襲来に近いところに位置します。古墳群の各古墳は4C中に観音塚(飯野坂古墳群(1))⇒宮山(飯野坂古墳群(1))⇒薬師堂(今回)⇒山居(飯野坂古墳群(2))、山居北の順で築かれたと考えられています。前方後方墳が美濃に多数造られ、その影響が東北のこの地にも及んだと考えている赤塚次郎さんのような(NPO法人、古代ニワの里・文化遺産ネットワーク理事長)研究者もおられます。仙台平野では東海系の土器も発掘されていますが、飯野坂古墳群ではアップした古墳からの出土品は発掘調査が行われていないこともあり全くわかっていません。東海地方とのつながりが明らかにされれば大変に興味深いだけに是非、今後の研究に期待したいものです。

ところで歩いた時にはまったく気づかなかったのですが、いずれ紹介する雷神山古墳も飯野坂古墳群も地形図をみるとストンと切り立った丘陵にあります。いわば自然の要塞の隅に古墳は存在し、それもあって甚大な被害を免れたような気がします。名取市で震度6強を記録した大震災での揺れも飯野坂古墳群を襲ったはずですが、現在の薬師堂古墳からはなにも感じられないのも(修復されたのであればごめんなさい)そうした地形に助けられたのかもしれません。

アクセスは東北本線館腰駅か名取駅から徒歩がよいと思います。館腰駅から雷神山古墳を訪ねたあと西側入り口に出て126号線を北上し注意深く歩くと道沿いに飯野坂古墳群中最後に造られた薬師堂古墳方面の⇒が見えます。鳥居があり階段をあがると古墳があります。名取市HPの「位置関係はこちら」という地図を印刷して持参することをお勧めします(撮影2015年11月5日)。




PNG iinosaka3 yakukshidou zu

飯野坂古墳群(3)薬師堂古墳基本データ

所在地 宮城県名取市飯野

形状 前方後方墳

規模 墳長 68m、後方部辺 35m 高さ6.4m、前方部幅21m 高さ3.6m

築造時期 4C中頃 築造は観音塚、宮山、薬師堂、山居の順と考えられている

出土品 不明

史跡指定 国指定

特記事項 隣接地域に前方後方墳が集中して造られているところが全国的にもあまり類例がないとされる




にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

今回紹介する中期古墳は前期に近い4C末に造られと考えられる栃木県大田原市にある上侍塚古墳です。既に那須八幡塚古墳(116)駒形大塚古墳1129日)、下侍塚古墳(1216)と那珂川流域の古墳を紹介していますが、今回の上侍塚古墳は、それらの古墳同様に前方後方墳で、しかも最も規模が大きい114mを誇っています。水田に囲まれた美しい墳丘は一目でわかります。前期から中期初期に築かれた一連の古墳のなかの最大ということは周辺地域を支配した首長でもよほど有力であったことは容易に想像ができます。しかも極めて興味深いことに、上侍塚古墳のあと4C末以降那須の地で大きな古墳を造営した勢力は急速に衰え、小規模な円墳などが点在するだけとなったのだそうです。徳川光圀公の命で発掘が行われ上侍塚古墳からは鏡や石釧、管玉が出土しましたが絵図に描かれたあと埋め戻されています(前方後方墳の世界、なす風土記の丘資料館、1993年)。
   動画1からもわかるように前方部は南に向けて築造されており、北50mにある上侍塚北古墳の墳頂(動画番外編)からは、二つの前方後方墳の並び方がよくわかります。せっかく農家の方に墳頂まで登っていいよといって下さったのに申し訳ないですが、民有地にある古墳の保存整備は大きな課題ではないでしょうか。上侍塚の美しい墳丘との落差はあまりに大きすぎます。

 アクセスはお世辞にもよいとはいえません。東京からだと一日がかりです。バスも下侍塚古墳を見学できる時間に到着できるのは日に2本しかないので注意が必要です。西那須野駅から東野バス五峯の湯行きで黒羽支所まで行き、今回の場合30分待って(前回はほとんど待たずに接続のバスがあった)、大田原市営バス黒羽・佐良土線に乗り換え侍塚駐車場下車です。近くにある上侍塚古墳をみて、294号線沿いに歩き下侍塚古墳を訪ねました。小規模な侍塚古墳群が下侍塚古墳横に控えます。見応え、訪ねる価値は十分すぎるほどです。計画を十分に練ってお出かけください(撮影2015年10月22日)。
PNG kamisamuraizuka zu さいご



上侍塚古墳基本データ

所在地 栃木県大田原市 湯津上

形状 前方後方墳

規模 後方部 後方部60.5m×58m 高さ11.5m、前方部幅52m 高さ6.5m 葺石あり

築造時期 4C

出土品 捩文鏡、管玉、石釧、鉄鏃、甲冑片、鉄器片、鉄鉾身、鎧板、鎧片、鉄刀片、高坏等

史跡指定 国

特記事項 現在の水田側(西側)に周堀、埋葬施設は後方部に粘土郭

にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村


111日に飯野坂古墳群(1)として築造順に観音塚、宮山の両古墳を紹介しましたが、今回はそれに続く時期に造られた山居(さんきょ)古墳を紹介します(築造順ではいずれ紹介する薬師堂古墳のほうが先)。動画でおわかりのように前の二つの前方後方墳とは違い墳丘の雑木がほとんど伐採され全体像がはっきりわかります。後方部からの眺めは素晴らしく、周辺を見下ろす高台に造られていることがわかります。この点は飯野坂古墳群(1)で紹介した観音塚、宮山も同じなのですが雑木林に覆われて眺望がききませんでした。ただ動画1でわかるように段築と勘違いしてしまいそうな凹凸があります。古墳が以前農業用地として使われたり、団地造成に際して一部削られたためだそうです(名取市教育委員会の方の説明)。飯野坂古墳群(1)(2)それにいずれアップする(3)の薬師堂を加えると、至近の距離に670mクラスの前方後方墳が立ち並んでいることになるのですから壮観です。

肝心の築造時期ですが、現地説明版では最後に造られたと考えられる山居北古墳を含め4C内に収まるとの記述から後半としました。以前は5Cに造られたとの記述もあったようですが、今回の現地説明版は2015年に設置されたものであり、こちらの解釈を採用しました。今回の山居古墳も前方部幅が後方部の一辺よりも狭く発達していないのが特徴です。また、後方部が前方部よりも高くなっています。未調査のために埋葬施設等古墳について詳しくはわかっていません。それでも国指定の史跡になっているのは、隣接する区域に前方後方墳が集中して造られており、全国的にも例をみない特異な構成をとっているから(説明板)だと理解しました。

 アクセスは名取駅からコミュニティーバスなとりん号で山居(さんきょ)住宅前で降りるのが近いとされていますが、本数が極端に少ないので東北本線館腰駅か名取駅から徒歩のほうが早いと思います。館腰駅から雷神山古墳を訪ねたあと西側入り口に出て129号線を北上し注意深く歩くと道沿いに飯野坂古墳群中最後に造られた薬師堂古墳方面の⇒が見えます。鳥居があり階段をあがると古墳があります。観音塚、宮山方面へも案内⇒はありますが、必ずHPの「位置関係はこちら」という地図を印刷して持参することをお勧めします(撮影2015年11月5日)。


PNG iinozaka sankyo zu

今回紹介する中期古墳は京都府京田辺市にある大住車塚古墳です。100mほどの距離に、南塚古墳という同規模の古墳があり、二つの前方後方墳が並ぶ姿は全国的にも珍しいといわれています。両古墳のある山城地域にある京田辺市は地図を広げてみると京都、奈良、大阪方面へのほぼ中心に位置しています。古代から重要な交通の要所であったことがわかります。動画でみるように車塚古墳の墳丘は雑木林に遮られて冬場しか十分に観察できなさそうです。それでも訪れた晩秋でも後方部に細い前方部がついた墳丘はよくわかりました。もとは水が張られていた周濠あとはきれいに残されています。南塚古墳は動画でもわかるように周濠の一部が池として残されています。残念なことに車塚古墳より墳丘は削平され、びっしりと雑木林が繁茂しています。

大住駅から歩いてくると目に飛び込んでくる二つの古墳の姿は印象的でした。動画3の最後にその光景を載せています。車塚古墳は201619日に墳丘部の下草が燃えてニュースになりました。墳丘が損壊していなければよいのですが・・・。

アクセスはJR片町線大住駅から徒歩20分です。さほど複雑ではないのですが、京田辺市の観光案内所でよく聞いたほうがよいと思います。道路には歩道がなくひやひやしましたことを付け加えておきます(撮影2015年11月24日)。



PNG oosumikurumazuka zu

最近続けてアップしました岐阜県大野町の野古墳群(1218日南屋敷西、125日登越)。野村もみじの間からのぞく古墳の数々、大変印象的でした。その際にも書いたように野古墳群に先だって造られた古墳群があります。それが今回ご紹介する上磯古墳群で、野古墳群から南に6kmほど下ったところにあります。大野町遺跡詳細分布調査報告書(2009)によれば古墳群は、前方後円墳1基、前方後方墳2基、大型円墳1基で構成され、4C 代に連続して建設された首長墓とする見方が有力だそうです。円墳の笹山古墳は消滅し、前方後方墳の北山、南山の両古墳及び前方後円墳の亀山古墳が残存しています。築造も4C前半からその順で行われたようです(全国古墳編年集成、雄山閣出版、1995)。

動画では前方後円墳の亀山古墳は残念ながら紹介していません。野古墳群とは違い周辺が開発され住宅が建て込んでいるのです。亀山に関しては墳丘全体が雑草で覆われ前方部には小屋が建っており、とても古墳にはみえなかったからです。とはいえ、宝永7(1710)の盗掘では後円部から冠、太刀、馬具(鞍)、多量の朱が出たと伝えられ、また現在では県指定文化財となっている鏡(六獣鏡、四獣鏡)も後に前方部からに出土しています。それほど貴重な古墳なら、もう少し何とかならないだろうかと思わずにはいられませんでした。

墳長83mの北山古墳は動画1からわかるように北側にまわると全体像を確認することができました。墳頂の社殿が大きすぎて前方部から後方部を見通すことができないのもこれまた残念でした。もっとも明治期の社殿建設中には内行花文鏡(県指定文化財)、直刀、鉄鏃等が出土しています。ついで造られた南山古墳は北山より一回り大きな前方後方墳です。ただし、残存するのは一部が削平された後方部だけで全体像は想像するしかありません。この古墳からも複数の小型銅鏡や鉄鏃等が出土しているとの記録があります。

野古墳群のほうは残存する古墳の多くは墳丘がきれいに残っている一方、発掘調査が行われていないこともあり出土品は埴輪片が大半です。上磯古墳群については盗掘等々の機会に紹介したような遺物が出土しているのに(前掲、大野町遺跡詳細分布調査報告書)、整備状況はいま一つでした。色々な事情があるのでしょう。ただ今回禁を侵して利用したタクシーの運転手さんも、

野古墳群は知っているが、上磯古墳群は全く聞いたこともないし、お客さんを連れていったこともないと言っていました。HPには同じように紹介されているのに少々気の毒です。

アクセスは大野町役場までは野古墳群の記述をご覧ください。上磯古墳群については、岐阜に戻るバスの時間に間に合わないのでタクシーを使わざるを得ませんでしたが、事前に予約すれば低料金でタクシーが利用できると役場の人にあとで教えてもらいました(撮影2015年11月18日)。

PNG 1kamiisokofunngun zu

  3C後半に造られた飯郷作2号墳のある飯郷作遺跡は1970年代の後半、佐倉西高校の建設現場から発掘されたそうです。ビルやマンション、道路、鉄道など建設現場から貴重な古代遺跡が発見されることは珍しくないと承知していますが、一部とはいえきちんと整備し後世の人々の目に触れるようにしているケースはそれほど多くないのではないでしょうか。大半が考古学的調査を終えたあと何もなかったかのように削平されてしまいます。発掘される遺跡の数が多すぎる現状を考えれば、現在の人々の生活を優先させるべきだとの声が聞こえてきそうです。
  飯郷作遺跡にとりその点は大変に幸運でした。学校の建設中に発見されたわけですから。生きた教材としてこの遺跡を残すと当時の関係者が決断したのは当然でした。動画からわかるように校舎に囲まれた中庭的な空間に、弥生時代の方形周溝墓、方墳2基、前方後方墳1基が肩を並べるように整備保存されています。狭い地域に時代を越えて墓が造られているのです。墓制の変遷を辿ることができるわけで、だからこそ県の指定史跡になったのでしょう。前方後方墳はもう1基あったようですが現在では見ることはできません。
  案内して下さった先生によれば、学生が墳丘上で吹奏楽の練習をしたりすることもあるようです。それにしても約40年間きれいに保存されたのは学生や教職員の方々の意識の高さがあったからではないでしょうか。肝心の前方後方墳2号ですが、墳丘は墳長29mと小さいものの、前方部と後方部の形がはっきりとわかり実に興味深いです。出土品の一部は校舎内に展示されています。校舎が改修工事中のために校舎の上層階から見下ろすことができなかったのは残念でしたが、機会を見て再訪するつもりです。見学は佐倉西高校に事前に電話で申し込みをすればスムーズです。
  アクセスは京成志津駅南口から京成バス佐倉行で東邦大学佐倉病院下車目の前に佐倉西高校が見えます。バスは1時間に23本です。
PNG iigousakuiseki zu



飯郷作2号墳基本データ

所在地 千葉県佐倉市

形状 前方後方墳

規模 墳長 29m、後方部径 18.5m 高さ1.5m、前方部幅約10m 高さ1m

3号墳 一辺9.5m×12m4号墳9.5m×11m 

築造時期 3C

出土品 ガラス玉、銅鏃、底部穿孔土器(校舎内に一部展示)

史跡指定 県指定

特記事項 弥生時代の方形周溝墓から古墳時代前期の前方後方墳、方墳が近接して築造され墓制の変遷を知る上で重要


にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

以前から訪ねたかった東北一の規模を誇る前方後円墳 雷神山古墳(いずれアップします)。その近くに前方後方墳と方墳からなる4C代に造られた飯野坂古墳群があることを知ったのは名取市のHPでした。折角の機会に雷神山古墳だけではもったいないと近くの古墳を探したのです。地図を見ると歩けない距離ではありませんし、何より至近の距離に670mクラスの前方後方墳が立ち並ぶ様子は壮観に違いありません。早速寄ってみました。

動画からおわかりのようにいずれも至近の距離からしか撮れないのが少々残念でしたが、草刈りが終わったあとで墳丘を確認するには問題はありませんでした。動画からすると周囲も広々とした原野が広がっている気がしますが、住宅が密集して飯野坂古墳公園の一角だけが保存されているのです。俯瞰した古墳の表情がとれないのはそうした理由です。

 観音塚、宮山、いずれも前方後方墳ですが、現地説明版ではこの順で4Cに造られたとあり、最後の薬師堂古墳を含め全て4C内に収まるとの説明から後半としました。以前は5Cに造られたとの記述もあったようですが、今回の現地説明版は2015年に設置されたものであり、こちらの解釈を採用しました。今回の二つの古墳はいずれも前方部幅が後方部の一辺よりも狭く発達していないのが特徴です。また、後方部が前方部よりも高くなっています。未調査のために埋葬施設等古墳について詳しくはわかっていません。それでも国指定の史跡になっているのは、隣接する区域に前方後方墳が集中して造られており、全国的にも例をみない特異な構成をとっているから(説明板)だと理解しました。

 アクセスは名取駅からコミュニティーバスなとりん号で山居(さんきょ)住宅前で降りるのが近いとされていますが、本数が極端に少ないので東北本線館腰駅か名取駅から徒歩のほうが早いと思います。館腰駅から雷神山古墳を訪ねたあと西側入り口に出て129号線を北上し注意深く歩くと道沿いに飯野坂古墳群中最後に造られた薬師堂古墳方面の⇒が見えます。鳥居があり階段をあがると古墳があります。観音塚、宮山方面へも案内⇒はありますが、必ずHPの「位置関係はこちら」という地図を印刷して持参することをお勧めします。

border="0" allowfullscreen>

飯野坂古墳群(1)基本データ

所在地 宮城県名取市飯野

形状 観音塚古墳(前方後方墳)、宮山古墳(前方後方墳)

規模 観音塚古墳 墳長 63m、後方部辺 30m 高さ6m、前方部幅23m 高さ5m

宮山古墳 墳長 70m、後方部辺35m 高さ5.5m、前方部幅25m 高さ3.5m

築造時期 4C後半 築造は観音塚、宮山の順と考えられている

出土品 不明

史跡指定 国指定

特記事項 隣接地域に前方後方墳が集中して造られているところが全国的にもあまり類例がないとされる


PNG iinozaka1

にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

↑このページのトップヘ