古墳を動画で見るサイト guami_38_36のblog

なんでも実際に見てみないと気が済まない私。古代史初学者として3世紀中頃から7世紀初頭にかけて東北から九州まで造られた5200基もの古墳の内、墳丘が残り実際に墳頂まで登れるものを訪ねはじめました。2011年秋のことです。既に先輩方が古墳のブログやHPを立ち上げられて今でも大いに刺激を受けています。ただ、権力者がなぜこれほど大きな構築物を造ったのかに興味がある私には、残念なことに大半の画像が静止画であるためにそのスケール感が伝わってきませんでした。偶然、動画で撮ってみたら案外いける。そんな思いで撮りためた古墳動画を見て頂くことにしました。素人の撮影ですから、古墳マニアや専門家の方々からは厳しいご指摘はあるかと思います。ブログでは基本情報とともに一つの古墳に3-5本程度の動画(各1分以下)を用意しました。この素人の試みが古墳を具体的にイメージする一助となれば幸いです。

■古墳時代の時期区分
 このブログでは古墳時代を広瀬和雄さん(国立歴史民俗博物館名誉教授)が通説として紹介している古墳時代を前期(3C中頃から4C後半頃)、中期(4C末頃から5C後半頃)、後期(5C末頃から7C初め頃)、終末期(7C前半頃から8C初め頃)に区分して捉えています(前方後円墳の時代、岩波新書、2010年)。
■アップの順番
 前期⇒中期⇒後期(終末期)の古墳を一基ずつワンセットにして全国の古墳を網羅することを目指しています。三基の古墳には何ら有機的な関係はありません。一つの地域に集中して前期から終末期まで掘り下げて見るのが一般的ですが、敢えてそうしなかったのは古墳時代の前期、中期、後期に全国でどのような墳墓が築かれたかを知りたいと思ったからです。古墳の築造年代は専門家の間でも様々な意見があり実年代を確定することが如何に困難なことかは承知しています。そのような限界の下でも古墳を横断的にみると今まで見えてこなかったものが見えてきたような気がします。専門分野外の古墳時代に関心を持ちはじめて日も浅い者ならではの冒険です。
■ご覧になる方法
最新記事12件についてはそのまま下にスクロールすれば見れます。各都府県別古墳は右の一覧をクリックしてください。文中にも関連の古墳に直接飛べるようにリンクを貼ってあります。

タグ:前方後円墳

大阪方面からJR阪和線に乗り百舌鳥駅で下車すると踏切を越えた右後に仁徳天皇陵(大仙古墳)が見えます。踏切を越えず左に100mほど歩くと目指す御廟山古墳の緑濃い墳丘が住戸の間からのぞきます。うーん。幅広の周濠に囲まれた墳長203mの前方後円墳は動画でご覧頂ければわかるように堂々たるものです。くびれもよくわかります。北側前方部寄りから接近したのですが、中期特有の前方部の発達ぶりも確認できます。百舌鳥古墳群の中では仁徳陵履中陵土師ニサンザイ古墳(いずれもクリックすれば飛べます)に次ぐ規模です。既にアップ済みのいたすけ古墳よりは50mほど大きくなります。残念ながら百舌鳥古墳群の大半の大型前方後円墳がそうであるように、御廟山も宮内庁が陵墓参考地に指定しています。なんと応神天皇の墓の第2候補だというのです。現在の応神天皇陵が誤りであった場合に代わって御廟山古墳が応神天皇陵として繰り上がるわけですが、なんとも不思議です。

 加えて宮内庁管理(濠は堺市)のために墳丘に登ることはもちろん、一般人には接近することも叶いません。仁徳天皇陵、履中陵と既に紹介した墳丘と美しくはありますが同じように見えるのはそうした根本的な問題にありそうです。当然、発掘調査は行われておらず埋葬施設も副葬品もわかっていません。ただし護岸工事のために宮内庁と堺市が行った調査から円筒埴輪列、葺石が確認をされています(御廟山古墳の発掘成果、堺市)。5C半ばの築造でも埴輪の特徴から仁徳天皇陵よりも古いと専門家はみているようで倭の五王の側近の墓ではないかと考えている人もいるようです。そこまでわかってなぜそれ以上発掘調査ができないのか隔靴掻痒の感は免れません。なお、御廟山のいわれは応神天皇の御廟というところにあるようです。アクセスは冒頭に書きました(撮影2016525日)。
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御廟山古墳基本データ

所在地 大阪府堺市

形状 前方後円墳

規模 墳長203m、後円部径113m 高さ17m、前方部幅136m 高さ17m

三段築成、葺石あり

築造時期 5C

出土品 円筒埴輪

史跡指定

特記事項 百舌鳥古墳群中第4位の墳長



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  今回の前期古墳は千葉県市原市にある姉崎天神山古墳です。墳長130mの前方後円墳です。既に紹介した六孫王原古墳、二子塚古墳が属する姉崎古墳の中では最大規模を誇ります。その詳細はあとで触れるとして、市原市は20167月中旬ゲリラ豪雨に見舞われ住宅街の道路が濁流に変身した様子がテレビでも報じられました。姉崎古墳群からも至近の距離のところです。今回の姉崎天神山古墳や六孫王原古墳を歩いていてなるほどと思いました。姉ヶ崎駅から古墳群に向けて急な登坂が続きます。動画2や3でもおわかりのように西の東京湾方面だけでなく谷をはさんで南の丘陵もよくみえます。標高は30mから40mもあり古墳を築くには絶好の場所ともいえます。

天神山古墳を含む養老川流域の姉崎古墳群は上海上国造(かみつうなかみのくにのみやつこ)とその前身豪族により4C中頃から継続的に造られたと考えられており、全国古墳編年集成(雄山閣、1995)によれば、今回の天神山、釈迦山(いずれアップ)、二子塚古墳(クリックすれば飛べます)、山王山(消滅)、ずっと飛んで7C後半に六孫王原(クリックすれば飛べます)の順で築かれたようです。ということは古墳時代のほぼ全期間を通じて古墳が造られたことになります。いずれの古墳にも養老川流域を支配した豪族が眠っているに違いありません。

肝心の天神山古墳ですが、残念なことに丘陵先端に雑木に覆われて位置することと周辺の開発のために横から墳丘全体を撮ることがかないませんでした。唯一全体像がわかるのは後円部東側から前方部を臨んだ動画3だけです。それでも、その大きさはかなり伝わってくるのではないでしょうか。後円部径が60mを超え、前方部幅は50m超と、中期以降にみられる前方部の発達はありません。そうしたところからも天神山古墳が前期に位置することがわかります。くびれ部分には天神様がまつられており前方部側から後円部への視野を遮ります。全国の古墳にはこうした例が少なくありませんが(一例は岐阜県大野町の上磯古墳群、動画1 クリックすれば飛べます)、神社のお蔭で墳丘が残されてきたことを考えるとわがままは言えません。

アクセスですが姉ヶ崎駅から徒歩が地形の変化もよくわかりお勧めです。姉ヶ崎駅から椎津変電所のある交差点を目指し歩き、そこから登りになる姉崎神社の東側の道路を進み、一つ目を左折し(東方向)道なりに進むと左に天神山古墳の道標が出ています。その道を下ると動画1の冒頭のシーンになります(撮影2016年2月2日)。
姉崎天神山古墳







姉崎天神山古墳基本データ

所在地 千葉県市原市

形状 前方後円墳

規模 墳長130m、後円部径60m 高さ14m、前方部幅55m 高さ8m

築造時期 4C

出土品 土師器、鉄鏃、刀子、管玉

史跡指定 県指定

特記事項 姉崎古墳群中 最大規模



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今回の中期古墳は兵庫県伊丹市にある前方後円墳の一種、帆立貝型の墳丘を持つ御願塚古墳です。ごがつかあるいはごがづかと呼ぶようですがなかなか難しい読み方です。伊丹市HPによれば御願塚古墳を中心として200300メートルの範囲内にかつて満塚(みちづか)・掛塚(かかりづか)・温塚(ぬくめづか)・破塚(やぶれづか)と称する塚地が存在していたそうで(現在は消滅)、「御願塚」の地名は御願塚とこれら4基の塚とをあわせて「五が塚」と呼んだことからという説もあると書かれています。墳長52mと決して大きなものではありませんが、阪急電鉄宝塚線の稲野駅前の住宅地を歩いた5分ほどの至近距離にある周濠に囲まれた墳丘は堂々たるものです。この規模の古墳が5C後半200mほどの距離に5基もあったとすれば壮観だったに違いありません。

その頃南に30㎞ほど南下した河内では誉田御廟山古墳(応神天皇陵)や市の山古墳(允恭天皇陵)が和泉では大仙古墳(仁徳天皇陵) (クリックすれば飛べます)などの巨大古墳が築かれていました。巨大古墳だけに目が行きがちですが同じ頃に、ヤマト王権を支えたであろう豪族の墓が近隣にいくつもあることに改めて驚かされます。もっとも専門家や古墳ファンの方々からは何も今更といわれてしまいそうですが・・・。

動画2に見るように墳頂には南神社の社殿があり短い前方部が後円部から十分に見通せないのが残念ですが、神社があったために墳丘が消滅せず残ったともいえそうです。墳丘は動画1でわかるように二段築成です。埋葬施設は後円部に竪穴石室があり石組も確認されているそうですが、詳細は不明です。現在の周濠の外側にも濠がめぐっていたようで、濠と濠の間からは円筒埴輪が多数出土しています。帆立貝型の前方後円墳としてすでに紹介したのは東京世田谷区の野毛大塚古墳、大阪府岸和田市の風吹山古墳があります。ともに規模も大きく墳丘を遮る立ち木がないので、帆立貝型前方後円墳をイメージするにはよいと思います。古墳名をクリックすれば直接飛べます是非、比較してご覧ください。

御願塚古墳へのアクセスは書きましたように阪急電鉄宝塚線稲野駅から北に商店街を歩いた100mほど歩いた住宅街にあります。すぐにわかります(撮影2016年4月6日)。
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御願塚古墳基本データ

所在地 兵庫県伊丹市稲野

形状 前方後円墳(帆立貝型)

規模 墳長 52m、後円部径39m 高さ7m、前方部幅13m 高さ2m 

二段築成

築造時期 5C

出土品 埴輪、土師器

史跡指定 県指定

特記事項 本文中にあるように近隣に四基の古墳があり、ごがつかの御は五番目の古墳といわれています。



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  今回の前期古墳は佐賀県佐賀市の金立銚子塚古墳です。98m100mにわずか欠けますが、動画からわかるように周濠に囲まれた前方後円墳は実に堂々としています。よくぞ1700年近くもの間、築造当時の墳丘が維持されてきたものです。佐賀平野では第二位の規模だそうで、第一位は以前紹介した墳長114m船塚古墳(クリックすれば飛べます)で背振山を背に西に30㎞ほどのところにあります。是非、比較してごらんください。

 後円部に登り前方部方向を眺めると典型的な前期古墳であることがわかります。後円部径58mに対して32mと幅が狭く細いのです。いわゆる柄鏡形といわれる前期に特有のものです。桜井茶臼山古墳がよく典型例として紹介されます(クリックすれば飛べます)。明瞭にみることができる段築は動画3で確認できます。

佐賀県の考古学者、蒲原宏行さんは、「これまで知られる範囲では、金立銚子塚古墳の98mという規模は同時期の筑紫平野の中で、第二位の小郡市三国の第1号墳の68mをはるかに凌駕しており」と述べ、その意義について強調し、船塚古墳とともにこの地の古墳について「従来北部九州へのヤマト政権の進出は朝鮮半島進出の軍事的拠点として、玄界灘沿岸地域を中心に進められた点が強調されているが、筑紫平野や宇土半島基部など有明海沿岸の貯地域との連携にも強い関心が払われていたことの証しといえよう」と述べています(風土記の考古学⑤ 同成社、1995)。なるほど被葬者をそうした役割を果たしたのではないかと考えると墳丘がまた違ってみえます。

佐賀駅前バスセンターから運転免許センター行きで佐賀整肢学園前で下車し、北に100mほど歩き自転車屋の角を左折し突き当りまで進むと右手に墳丘がみえます。バスは一時間に一本はあります(撮影20151225日)。
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金立銚子塚古墳基本データ

所在地 佐賀県佐賀市金立町

形状 前方後円墳

規模 墳長 98m、後円部径58m 高さ8m、前方部幅32m 高さ4.6m

後円部三段、前方部二段築成 葺石

築造時期 4C

出土品 壺形土器(土師器)

史跡指定 国指定

特記事項 本文にも書いたが佐賀県では船塚古墳に次ぐ二番目の規模の前方後円墳




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  非常に紹介するのが難しい古墳です。墳長が180m、周濠を含めると273mと大古墳ですが、動画でおわかりのように墳丘全体が竹やぶに覆われていてなかなか見通しがききません。とはいえ近鉄の久津川駅から商店街をとおり10分ほど歩いて着いた現地は、それまでの景色が一変し、古墳の大きさを実感することができます。一回目の訪問では雨のため、後述する造り出しの発掘調査は中止。ブルーシートが覆われた現場から全体を見たあと、墳丘に登りました。市民の皆さんの(車塚森づくり2011)の伐採作業も追いつかないのでしょう。如何に整備が難しいかを実感しました。そこで日を改めて、20161月末に再訪しましたが、状況はあまり変わりませんでした。何より度肝を抜かれたのは、下調べでわかっていたとはいえ明治27年(1894年)に、旧国鉄奈良線の工事の際に勾配修復のために後円部の三分の二ほどを土取りし、見るも無残な変わり果てた姿を見たことでした。動画2でご覧いただけます。ただ、その乱暴な掘削の結果、有力者しか使わない長持形石棺が未盗掘のまま発見され、三角縁神獣鏡を含む銅鏡7面などが出土しています。そのことは大阪羽曳野市の誉田御廟山古墳(応神天皇陵)と同じ設計(縮小)という指摘(城陽市教育委員会)からもわかります。

 前回の中期古墳、太田天神山古墳(クリックすれば飛べます)もそうでしたが、このぐらいの規模になると前方部まで見通すことはなかなか難しく、それがまた巨大さを実感する証のようなものにも感じられます。中期の古墳は前方部の発達がみられ前方部幅が後円部径よりも広いのでなおさらです。丁度、前方部から後円部に歩く途中にJR奈良線の電車が通過。動画4では敢えてその音を残しています。また、墳丘の二段目の西側段築に沿って遊歩道が造られており、見上げると墳丘の陵線がよくわかりました。
 車塚古墳の東側、JR奈良線の踏切をわたったすぐのところにほぼ同じ時期に造られた

前方部が短い墳長104mの前方後円墳(帆立貝型)丸塚古墳があります。残念ながら訪れた時は全体が雑木林と雑草に覆われていました。また、車塚古墳の北側すぐのところ、スーパーいずみやの駐車場横には墳長110mの前方後円墳、芭蕉塚古墳がありますが、ここは民有地のため竹やぶの生い茂った墳丘を眺めるだけです。それだけに車塚古墳の整備が待たれます。

聞けばここを史跡公園にするとのこと。出現期の芝ケ原古墳(クリックすれば飛べます)はじめ城陽市教育委員会は、史跡の保存整備に熱心です。是非、期待したいものです。最新の発掘調査では東西約10m南北約20mの西側の造り出しから残存する葺石、円筒埴輪、家型など形象埴輪が出土したとのことです。詳しくは久津川車塚古墳現地説明会(2015919日)をご覧ください(アップされています)。アクセスは近鉄京都線久津川駅から東に歩き二つ目の信号を左折した右手。10分ほどです。また城陽市歴史民俗資料館には車塚古墳出土の長持型石棺のレプリカ等が展示されています(撮影2015年9月8日、2016年1月26日)。

 
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今回の前期古墳は愛媛県今治市の前方後円墳、妙見山古墳です。規模は墳長55mとやや小ぶりですが前期、それもかなり早い段階に造られた古墳が復元された墳丘だけでなく、後円部の埋葬施設も見学できる点で大変に貴重です。折角の機会なので高松だけでなく足を延ばして今治市までと思ったのですが、案外、移動に時間がかかりました。高松を737分の特急で発ち、今治経由で古墳近くの大西駅に着いたのは101分です。そこから午前の石室の見学時間10時半に間に合うように急ぎました。古墳のある藤山健康文化公園まではさほどの距離ではなく徒歩で20分ほど。ところが園内の奥にある古墳までは急坂が続き、着いたのは40分ぐらいだったでしょうか。それでも苦労した甲斐のある見事な古墳が待ち受けてくれました。地山を切り出した墳丘なので山の端に古墳が連結しているという感じは、動画1でわかるとおりです。残念ながら、斜面に立っているのと、整形されていない2号墳上は雑木林で1号墳を見通すことができません。部分的ですが葺石の葺かれた壺形埴輪の並ぶ前方後円墳の雄姿をもう少し遠くから見ることができればと思いました。

  短めの前方部(幅31m)と後円部(径36m)に埋葬施設があり、前方部と後円部の接続部分から埋葬施設に潜り込むことができます。動画3をじっくりご覧ください。築造した人々はこのような形で竪穴石室をみることはなかったわけですが、見学者には、その構造を知ることができて大変貴重です。発掘調査に携わる考古学者など専門家にとっては常識なのでしょうが、目の当たりにすると臨場感は格別です。これでは横穴石室とは違い追葬はできないことがよくわかります。天井の板石は、別途、公園内に保存されているほか、出土品の展示が行われている資料館もあり様々な角度から妙見山古墳を勉強することができ、大変に充実した施設です。

 妙見山古墳を含め全国を眺めると前期、それも箸墓古墳(クリックすれば飛べます)と同時期、あるいはその直後に造られた古墳が少なくありません。一般的には前方後円墳はヤマト王権周辺ではじまり、徐々に全国に広まっていったという見方は今では否定されつつあるようです。大阪大学教授の福永伸也さんは「かつては時間をかけて徐々に地域に浸透していくと考えられていた前方後円墳が、箸墓古墳の成立から数世代のうちには、古墳時代の最大分布域に近い東北南部から九州南部にまで及んだことが近年では明確になってきた。そこには、向き出しの物理的な強制による支配ではなく、儀礼における中心―周辺関係を巧みに利用した政権側のソフトな地域戦略が読み取れる」(前方後円墳の成立、日本歴史 第1巻 原始・古代1、岩波書店、2013)と述べています。妙見山古墳が前方後円墳であることを考えれば、かなり早い時期にこの地とヤマト王権が密接な関係を有していたのでしょう。これまでアップした古墳動画では、大分の赤塚古墳、岡山市の浦間茶臼山古墳(いずれもクリックすると飛べます)が妙見山古墳と同じ頃に造られています。

注意しなければならないのは埋葬施設内の見学です。午前、午後の二回しか解錠しません。また、雨天の場合も閉鎖のようです。現地ではボランティアの方が解説をしてくれます。事前に休館日も含め大西藤山歴史資料館(0898-53-2313)に確認をするとよいと思います。





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妙見山古墳基本データ

所在地 愛媛県今治市大西町

形状 前方後円墳

規模 墳長 55m、後円部径 39m 高さ 7m 、前方部幅 33m 高さ 4m 二段築成

築造時期 3C

出土品 後円部埋葬施設棺外に鉄剣、鉄斧、鉄刀の破片など、棺内に銅鏡の痕跡 前方部埋葬施設からは四獣鏡、鉄器残片、くびれ辺りに二重口縁壺形土器

史跡指定 国指定

特記事項 隣接して2号墳、3号墳がある






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本動画中のキャプションで東側と西側が逆になっていました。東側西側 西側東側です。失礼しました。

   いつアップしようか迷っているうちに一年半も過ぎてしまいました。このブログは比較という点にこだわっているので同規模の墳長を持つ畿内の古墳をいくつかを紹介してからと思っていたのです。それにしても本人が言うのもおかしいですが関東最大の前方後円墳墳長210mの太田天神山古墳は、天気にも恵まれ実に美しく撮れました。現地に朝早く着くよう、始発近くの電車に乗った記憶があります。その墳丘は、前年夏にみたのとは全く違っていました。動画4の最後に夏の墳丘(静止画像)を加えています。

 古墳関係の啓蒙書、専門書でも必ず触れられているのが太田天神山古墳です。畿内、河内の政権が百舌鳥・古市古墳群の巨大古墳を築いていた頃、この地でも210mという突出した規模の古墳が築かれたのです。上野では既に紹介した前橋天神山前橋八幡山古墳
(クリックすれば飛べます)のように前期にも相当規模の前方後円墳や後方墳が造られますが、太田天神山古墳との関連でいえば宝泉茶臼山、浅間山古墳(いずれも未アップ)とそれまでにない170m規模の前方後円墳が先行して造られています。太田天神山古墳は両古墳をしのぐのですから首長としての力は傑出していたのでしょう。それを示しているのが動画2でも紹介した全体を覆う葺石です。右島和夫、千賀久「古墳時代」(河出書房新社、2011)では、「付近一帯には石材が乏しい。巨大古墳を葺石で覆うためには、古墳の力南に六キロの利根川、あるいは北に約六キロの渡良瀬川から運び込む必要がある。このような条件下では、葺石自体を断念するが一般的である」としています。それでも人々は懸命に古墳築造に取り組んだのです。私は見ることができませんでしたが、くびれ辺りに後円部の埋葬施設の長持型石棺の一部が露出し、それは畿内の大王墓クラスに匹敵するものだったとそうです。残念ながら既に盗掘されており、めぼしい出土品はありません。
  後円部は三段、前方部は二段築成、後円部から前方部に至あるいてみましたがあまりに幅が広く、左右が視野に入らないほどでした。京都府城陽市の久津川車塚古墳(いずれアップします)でも同じ印象でした(いずれアップします)。墳丘西側は崩れています。墳長210mですから、墳丘全体を見渡すことはなかなか難しいのですが、巨大な周濠がまわっており、それが可能となりました。同規模の中期古墳には奈良県馬見古墳群の巣山古墳(墳長220m)(クリックすれば飛べます)。宝来山古墳(墳長227m)(クリックすれば飛べます)があります。是非比較してご覧ください。

アクセスは東武伊勢崎線太田駅北側にある東国歴史街道を西方向に道なりに600mほどあるくと太田天神山古墳です。駅から徒歩20分(撮影日2015219日)。

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太田天神山古墳基本データ

所在地 群馬県太田市内ケ島町

形状 前方後円墳

規模 墳長210m 後円部径120m 高さ16.8m、前方部幅126m 高さ 12m

後円部 三段築成、後円部二段築成 葺石あり

築造時期 5C

出土品 円筒埴輪、水鳥埴輪

史跡指定 国指定

特記事項 本文中で触れたように関東で最大の前方後円墳

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  動画1でおわかりのように甲府盆地を見下ろす標高425mにある復元された銚子塚古墳の姿は実に優美でした。思い浮かんだのは10㎞ほど南に下った甲府市にある甲斐銚子塚古墳にそっくりということでした。墳長は約6割程度と規模は小さいのですが、後円部径や高さ前方部幅など比率がよく似ています。専門的な見地からも類似性は指摘されているようで日本古墳大辞典(東京堂出版、1986)は甲斐銚子塚古墳(クリックすれば飛べます)とは墳形や副葬品や埴輪の製作技法からも類似性が指摘されていると述べています。
 古墳は八代ふるさと公園の一角にあり桜の季節ということもあり家族連れでにぎわっていました。よく整備され気持ちのよい墳丘です。古墳を身近に感じるにはこうした方法は有効に違いありません。もちろん、利用者がマナーを守ることは大前提ですが。
 説明板によれば、現在は後円部の裾だけ葺石が復元されていますが築造当時は墳丘全体が葺石で覆われ埴輪がめぐっていたようです。埋葬施設は後円部頂に丸太をくり抜いて、それを合わせ周囲を粘土でくるんだ粘土郭だったようで、その位置は動画3でわかります。江戸時代宝暦3年(1763年)に発掘が行われ銅鏡、鉄刀、鉄斧、玉類が出土した記録があるとも書かれていました。前期古墳だということは、後円部側から前方部をみるとよくわかります。裾幅が広がっておらず、いわゆる前方部の発達が中期以降と違いみられないのです。
 前方部の先には、陪塚でしょうか径23mの円墳、盃塚古墳が復元されています。築造時期は5Cにくだりますが、鉄鏃、鉄刀なども出土しています。
 アクセスですがJR中央線石和温泉駅から車で20分。今回、時間がなかったということもありこの古墳踏査の原則を破ってタクシーで現地に向かいました。実車時間20分ほど。

結構な距離です。八代ふるさと公園は四季折々の花々が来訪者を迎えてくれるようです。

是非、どうぞ(撮影日2016年3月31日)


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岡銚子塚古墳基本データ

所在地 山梨県笛吹市八代

形状 前方後円墳

規模 墳長92m、後円部径48m 高さ7.5m、前方部幅41m 高さ4m

前方部 二段築成、後円部 三段築成

出土品 銅鏡、鉄刀、鉄斧、玉類、埴輪

史跡指定 県指定、盃塚は町指定

特記事項 本文中で指摘したように甲府市の甲斐銚子塚古墳との密接な関連が指摘されている

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さきたま古墳群は行田駅方面のバスの通る県道77号線を境に稲荷山古墳、二子山古墳のある北群(仮称)と鉄砲山、奥の山古墳等のある南群(仮称)にわかれます。今回、6C前半に造られた後期古墳として紹介する瓦塚古墳も南群にあります。丁度、国宝金錯銘鉄剣が展示されている博物館の東側に位置しています。

 動画では冬と夏の異なる表情の墳丘を紹介しています。墳長73mとやや小ぶりですが、後円部径が36.5m、前方部幅が47m、後円部高さが5.1mに対し前方部が4.9mとほぼ同じ、前方部の発達がよくみられる典型的な後期古墳です。墳丘は登れないので前方部の広がりが観察できないのがなんとも消化不良です。これまでアップした古墳で墳長がほぼ同じものとして2基あげておきますので、比較して是非ご覧ください。墳長76mの岐阜県大野町の登越古墳(野古墳群)(クリックすれば飛べます)、69mの千葉県我孫子市の水神山古墳(クリックすれば飛べます)です。こちらはともに登れますが、残念ながら中期古墳ということもあり前方部の発達はみられません。しかし墳長70m程度の古墳の規模をイメージするには適当だと思われます。

ガイドブックさきたまは、さきたま古墳群には多くの謎があるとして5点をあげています。①それまで古墳が造られていなかった場所に、突如として現れたこと、②東西約500m、南北約800mのせまい範囲の中に大型の古墳が濠をくっつけるような近さで、次々規則的に造られたこと、③前方後円墳は全て長方形または台形の二重の濠で囲うのを基本としていること、④西側に造り出しを持つ前方後円墳が多いこと、⑤前方後円墳の方向がおおむね同じであることをあげています。

略図にあるように、たしかに後円部が全て北東方向を向いているのが印象的です。同じように短期間に造られた群馬の大室古墳群とはだいぶ様相が異なります。長方形または台形の二重の周濠がめぐっている点も、この古墳群がビジュアル的に統一された印象を受ける理由かもしれません。おそらく同じ造墓集団の手になるものだったのでしょう。これまでに超大型の円墳丸墓山(以下同様にクリックすれば飛べます)にはじまり、二子山将軍山稲荷山とアップしています。まだ、いくつかの古墳が残っていますが、それぞれの動画からさきたま古墳群の全体像を捉えることができるのではないかと思っています。

アクセスは公共交通機関の場合いくつかあります。さきたま古墳公園のHPに詳しいルートが紹介されています。行田駅から市内循環バスが一番便利ですが本数が少なく、二度目は本数が多いJR吹上駅から朝日バスで佐間経由 行田折返し場・総合教育センター・行田工業団地行に乗り産業道路で下車。徒歩15分のルートを使いました(撮影2015年7月14日、2016年3月1日)
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瓦塚古墳(さきたま古墳群)基本データ

所在地 埼玉県行田市

形状 前方後円墳

規模 墳長73m、後円部径36.5m 高さ5.1m、前方部幅47m4.9m

出土品 円筒埴輪、家形、水鳥など形象埴輪、琴を弾く男、首飾りをつけた女など人物埴輪

史跡指定 さきたま古墳群 国指定

特記事項 さきたま古墳群の前方後円墳中8基のうち5番目の墳長


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今回は既にアップした前二子古墳、小二子、後二子古墳同様、群馬県大室古墳群の一角を占める中二子古墳を紹介します。群中、最大規模の前方後円墳です。前橋の駅からバスで1時間ほど。次第に標高が高くなっていくことに気が付き始めた頃終点の大室公園に到着です。赤城山麓の標高130mの大地の整備された公園は、訪問した二度とも静寂に包まれていました。そこに復元された国指定の4基の前方後円墳と中小10数基の古墳が点在しています。

C初めに前二子(クリックすれば飛べます)、続いて6C前半に今回の中二子、後半に後二子(クリックすれば飛べます)古墳が、そして最後に小二子(クリックすれば飛べます)が築かれたと考えられています。畿内では前方後円墳の築造が終わりを迎えつつあった頃のことです。この地を含め上野(かみつけ、現在の群馬県)では依然として前方後円墳が造られ、これまでアップした古墳でいえば中二子の後に綿貫観音山(以下いずれもクリックすれば飛べます)、総社二子山前橋(天川)二子山と横穴石室を有する前方後円墳が築かれました(残念ながら中二子では埋葬施設は確認されていません)。葺石、埴輪なども畿内ではあまり見られなくなったにも関わらず東国では、そうした抑制的な姿勢はみられず、そのことは動画2の中二子の前堤に立ち並ぶ円筒、朝顔、盾持ち人の3000本にものぼる埴輪を思い出して頂けば十分ではないでしょうか。

墳長111mと大室古墳群中最大の前方後円墳は後二子同様に一段目のテラスが広く、それは実際の墳丘規模よりも大きく見せる効果を持っている気がします。前方部幅は後円部径よりも広く、高さも後円部と同じで後期特有の前方部の発達がみられます。墳丘の周りには幅15mほどの空の内堀が、その外淵には中堤がまわり、墳丘への道、わたりが2か所設けられています。一時期は水を湛えていたのではないかと考えられた時期もあったようですが近年の調査の結果空堀だったことが判明しています。今回で国指定の4基の古墳からなる大室古墳群のアップはとりあえず終了です。なお詳しくは前原豊さんが書かれた「東国大豪族の威勢 大室古墳群」(新泉社、2009)に詳しいです。前原さんの本ではじめて知ったのですが幕末の英国の外交官アーネスト・サトウも考古学に興味をもっていたそうで大室の地を1880年に訪れてスケッチ等残しているそうです。外国人考古学者としてはウィリアム・ゴーランド(冶金技術者として大阪造幣局に招かれ、傍ら全国の古墳の調査を行った)が有名ですが、彼以外にも日本の古墳に興味を持っていた外国人がいたとは驚きでした。
 アクセスは前橋駅北口から日本中央バス西大室線で終点の大室公園下車。50分ほどかかります。本数は日中で午前2本、午後2本程度です。ご注意ください(撮影2015930日)。



中二子古墳(大室古墳群)基本データ

所在地 群馬県前橋市西大室町

形状 前方後円墳

規模 墳長111m、後円部径66m 高さ14.8m、前方部幅79m 高さ14.8m

築造時期 6C

出土品 円筒埴輪、形象埴輪、須恵器

史跡指定 国指定

特記事項 埋葬施設は明らかになっていない

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