古墳を動画で見るサイト guami_38_36のblog

なんでも実際に見てみないと気が済まない私。古代史初学者として3世紀中頃から7世紀初頭にかけて東北から九州まで造られた5200基もの古墳の内、墳丘が残り実際に墳頂まで登れるものを訪ねはじめました。2011年秋のことです。既に先輩方が古墳のブログやHPを立ち上げられて今でも大いに刺激を受けています。ただ、権力者がなぜこれほど大きな構築物を造ったのかに興味がある私には、残念なことに大半の画像が静止画であるためにそのスケール感が伝わってきませんでした。偶然、動画で撮ってみたら案外いける。そんな思いで撮りためた古墳動画を見て頂くことにしました。素人の撮影ですから、古墳マニアや専門家の方々からは厳しいご指摘はあるかと思います。ブログでは基本情報とともに一つの古墳に3-5本程度の動画(各1分以下)を用意しました。この素人の試みが古墳を具体的にイメージする一助となれば幸いです。

■古墳時代の時期区分
 このブログでは古墳時代を広瀬和雄さん(国立歴史民俗博物館名誉教授)が通説として紹介している古墳時代を前期(3C中頃から4C後半頃)、中期(4C末頃から5C後半頃)、後期(5C末頃から7C初め頃)、終末期(7C前半頃から8C初め頃)に区分して捉えています(前方後円墳の時代、岩波新書、2010年)。
■アップの順番
 前期⇒中期⇒後期(終末期)の古墳を一基ずつワンセットにして全国の古墳を網羅することを目指しています。三基の古墳には何ら有機的な関係はありません。一つの地域に集中して前期から終末期まで掘り下げて見るのが一般的ですが、敢えてそうしなかったのは古墳時代の前期、中期、後期に全国でどのような墳墓が築かれたかを知りたいと思ったからです。古墳の築造年代は専門家の間でも様々な意見があり実年代を確定することが如何に困難なことかは承知しています。そのような限界の下でも古墳を横断的にみると今まで見えてこなかったものが見えてきたような気がします。専門分野外の古墳時代に関心を持ちはじめて日も浅い者ならではの冒険です。
■ご覧になる方法
最新記事12件についてはそのまま下にスクロールすれば見れます。各都府県別古墳は右の一覧をクリックしてください。文中にも関連の古墳に直接飛べるようにリンクを貼ってあります。

タグ:前方後円墳

さきたま古墳群は行田駅方面のバスの通る県道77号線を境に稲荷山古墳、二子山古墳のある北群(仮称)と鉄砲山、奥の山古墳等のある南群(仮称)にわかれます。今回、6C前半に造られた後期古墳として紹介する瓦塚古墳も南群にあります。丁度、国宝金錯銘鉄剣が展示されている博物館の東側に位置しています。

 動画では冬と夏の異なる表情の墳丘を紹介しています。墳長73mとやや小ぶりですが、後円部径が36.5m、前方部幅が47m、後円部高さが5.1mに対し前方部が4.9mとほぼ同じ、前方部の発達がよくみられる典型的な後期古墳です。墳丘は登れないので前方部の広がりが観察できないのがなんとも消化不良です。これまでアップした古墳で墳長がほぼ同じものとして2基あげておきますので、比較して是非ご覧ください。墳長76mの岐阜県大野町の登越古墳(野古墳群)(クリックすれば飛べます)、69mの千葉県我孫子市の水神山古墳(クリックすれば飛べます)です。こちらはともに登れますが、残念ながら中期古墳ということもあり前方部の発達はみられません。しかし墳長70m程度の古墳の規模をイメージするには適当だと思われます。

ガイドブックさきたまは、さきたま古墳群には多くの謎があるとして5点をあげています。①それまで古墳が造られていなかった場所に、突如として現れたこと、②東西約500m、南北約800mのせまい範囲の中に大型の古墳が濠をくっつけるような近さで、次々規則的に造られたこと、③前方後円墳は全て長方形または台形の二重の濠で囲うのを基本としていること、④西側に造り出しを持つ前方後円墳が多いこと、⑤前方後円墳の方向がおおむね同じであることをあげています。

略図にあるように、たしかに後円部が全て北東方向を向いているのが印象的です。同じように短期間に造られた群馬の大室古墳群とはだいぶ様相が異なります。長方形または台形の二重の周濠がめぐっている点も、この古墳群がビジュアル的に統一された印象を受ける理由かもしれません。おそらく同じ造墓集団の手になるものだったのでしょう。これまでに超大型の円墳丸墓山(以下同様にクリックすれば飛べます)にはじまり、二子山将軍山稲荷山とアップしています。まだ、いくつかの古墳が残っていますが、それぞれの動画からさきたま古墳群の全体像を捉えることができるのではないかと思っています。

アクセスは公共交通機関の場合いくつかあります。さきたま古墳公園のHPに詳しいルートが紹介されています。行田駅から市内循環バスが一番便利ですが本数が少なく、二度目は本数が多いJR吹上駅から朝日バスで佐間経由 行田折返し場・総合教育センター・行田工業団地行に乗り産業道路で下車。徒歩15分のルートを使いました(撮影2015年7月14日、2016年3月1日)
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瓦塚古墳(さきたま古墳群)基本データ

所在地 埼玉県行田市

形状 前方後円墳

規模 墳長73m、後円部径36.5m 高さ5.1m、前方部幅47m4.9m

出土品 円筒埴輪、家形、水鳥など形象埴輪、琴を弾く男、首飾りをつけた女など人物埴輪

史跡指定 さきたま古墳群 国指定

特記事項 さきたま古墳群の前方後円墳中8基のうち5番目の墳長


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今回は既にアップした前二子古墳、小二子、後二子古墳同様、群馬県大室古墳群の一角を占める中二子古墳を紹介します。群中、最大規模の前方後円墳です。前橋の駅からバスで1時間ほど。次第に標高が高くなっていくことに気が付き始めた頃終点の大室公園に到着です。赤城山麓の標高130mの大地の整備された公園は、訪問した二度とも静寂に包まれていました。そこに復元された国指定の4基の前方後円墳と中小10数基の古墳が点在しています。

C初めに前二子(クリックすれば飛べます)、続いて6C前半に今回の中二子、後半に後二子(クリックすれば飛べます)古墳が、そして最後に小二子(クリックすれば飛べます)が築かれたと考えられています。畿内では前方後円墳の築造が終わりを迎えつつあった頃のことです。この地を含め上野(かみつけ、現在の群馬県)では依然として前方後円墳が造られ、これまでアップした古墳でいえば中二子の後に綿貫観音山(以下いずれもクリックすれば飛べます)、総社二子山前橋(天川)二子山と横穴石室を有する前方後円墳が築かれました(残念ながら中二子では埋葬施設は確認されていません)。葺石、埴輪なども畿内ではあまり見られなくなったにも関わらず東国では、そうした抑制的な姿勢はみられず、そのことは動画2の中二子の前堤に立ち並ぶ円筒、朝顔、盾持ち人の3000本にものぼる埴輪を思い出して頂けば十分ではないでしょうか。

墳長111mと大室古墳群中最大の前方後円墳は後二子同様に一段目のテラスが広く、それは実際の墳丘規模よりも大きく見せる効果を持っている気がします。前方部幅は後円部径よりも広く、高さも後円部と同じで後期特有の前方部の発達がみられます。墳丘の周りには幅15mほどの空の内堀が、その外淵には中堤がまわり、墳丘への道、わたりが2か所設けられています。一時期は水を湛えていたのではないかと考えられた時期もあったようですが近年の調査の結果空堀だったことが判明しています。今回で国指定の4基の古墳からなる大室古墳群のアップはとりあえず終了です。なお詳しくは前原豊さんが書かれた「東国大豪族の威勢 大室古墳群」(新泉社、2009)に詳しいです。前原さんの本ではじめて知ったのですが幕末の英国の外交官アーネスト・サトウも考古学に興味をもっていたそうで大室の地を1880年に訪れてスケッチ等残しているそうです。外国人考古学者としてはウィリアム・ゴーランド(冶金技術者として大阪造幣局に招かれ、傍ら全国の古墳の調査を行った)が有名ですが、彼以外にも日本の古墳に興味を持っていた外国人がいたとは驚きでした。
 アクセスは前橋駅北口から日本中央バス西大室線で終点の大室公園下車。50分ほどかかります。本数は日中で午前2本、午後2本程度です。ご注意ください(撮影2015930日)。



中二子古墳(大室古墳群)基本データ

所在地 群馬県前橋市西大室町

形状 前方後円墳

規模 墳長111m、後円部径66m 高さ14.8m、前方部幅79m 高さ14.8m

築造時期 6C

出土品 円筒埴輪、形象埴輪、須恵器

史跡指定 国指定

特記事項 埋葬施設は明らかになっていない

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  奈良盆地に4C後半から6Cにかけて築かれた馬見古墳群。今回中期古墳として紹介する一本松古墳は4C末の築造の墳長130mを数える前方後円墳です。同古墳群は北群、南群にわかれ、その間に一本松古墳が含まれる中央群が位置します。イメージ図で確認して頂きたいと思いますが、既に紹介した墳長220m巣山古墳(クリックすれば飛べます)、築造時のように復元されたナガレ山古墳(クリックすれば飛べます)も中央群に属します。一本松古墳は巣山古墳と同じ頃に築かれたことが発掘された円筒埴輪(埴輪棺墓として使用)から明らかになっています。 

動画1でおわかりのように芝に覆われた優美な墳丘が残されています。遠くから墳長130mの全体像を確認できるというのは大変珍しいといってよいと思います。それも公園化されているお陰です。墳丘の後円部径は80m、そして前方部幅は同じ80mと発達しています。残念なことに葺石、段築の有無他詳細は明らかになっていません。2006年に後円部東南部に公園施設を作ることになり調査が行われた結果小規模の方墳が検出されています。前述の円筒埴輪はその際に発掘されたものです。

 何度か馬見古墳群を歩いて気が付いたことがあります。保存整備の違いをこの目で比較確認できるのです。後円部径104mと大型のホタテ貝型として知られた乙女山古墳のように墳丘には登れるものも雑木林が繁茂するままにしてあるもの、ナガレ山古墳のように葺石を含め築造時のように復元されたもの、そして一本松古墳のように墳丘を芝で覆い保存整備したものの三種類です。全国の古墳を歩いていると大凡、この三つのタイプに区分することができます。馬見古墳群ではそれらの違いを中央群を歩くと実際に確認できるという点で実に貴重です。なお動画の番外編としてうっそうとした乙女山古墳の墳丘を短く紹介しています。

 アクセスは近鉄田原本線池部駅に隣接する河合町役場横に緑濃い総合スポーツ公園の入り口があり、そこから古墳公園につながっています。約1㎞ほどあります。徒歩15分。わかりやすく迷うことはないと思いますが役場で地図を貰うとよいでしょう(撮影2016524日)。


PNG 馬見古墳群(イメージ図)
PNG 現在の大阪市中心部から見た大型古墳群

一本松古墳基本データ

所在地 奈良県河合町

形状 前方後円墳

規模 墳長130m、後円部径80m 高さ12m、前方部幅80m 高さ4.5m

周濠、外堤あり

築造時期 4C

出土品 埴輪棺

史跡指定 

特記事項 なし




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晴天に映える雷神山古墳はどのように私を迎えてくれるのだろう。ワクワクしながら歩いた期待は裏切られませんでした。動画1の前方部端側から後円部にかけて広がる墳丘は、芝がきれいに刈り取られていたこともあり鮮やかの一言でした。墳長が169m、後円部径92mとほぼ同じなのは甲斐銚子塚古墳(クリックすれば飛べます)です。こちらの墳丘も美しく是非比較してご覧ください。ただ前方部幅は雷神山が96mに対して、69mとずっと狭くなります。甲斐銚子塚が造られたのは3C後半と典型的な前期古墳に該当します。雷神山古墳は前期と中期の境目に位置するだけあって前方部幅は96mと発達しています。後円部は3段、前方部は2段の筑成が施されている墳丘には一面葺石が葺かれ、壺形埴輪がめぐっていたようですが、整備にあたっては復元されていません。

また、動画キャプションでも触れているように前方部端には墓地があり墳丘自身が崩れています。植栽でカバーしているとはいえ些か残念です。京都府の長岡京市の恵解山古墳(クリックすれば飛べます)の墳丘も墓地があったことを思い出しました。昔の墓のために現在の墓を移すわけにはいかないのはわかりますが、現在まで墳丘がどのように人々によって扱われてきたかを知るには貴重な資料かもしれません。
   埋葬施設は発掘調査されていないために不明ですが東日本大震災の際に後円部頂の中央が1mほど陥没し埋葬施設ではないかとの指摘もあるようです。その後円部に隣接して陪塚ではないかといわれる径54mの円墳小塚古墳が築かれています。またその先、1.5㎞には雷神山古墳の被葬者に遡るこの地の支配者が葬られているともいわれる飯野坂古墳群(1)飯野坂古墳群(2)飯野坂古墳群(3)(それぞれクリックすれば飛べます)があります。こちらは中規模の前方後方墳が複数並んで築造されています。

アクセスはJR東北本線で2駅下った館腰駅前から西に200mほど歩き郵便局を見ながら右折すると左に館腰神社が見えます。その先を左折し道なりに歩くと右手に急な細い坂道が見えます。坂道を上り道なりに進むと前方部端入口説明板に到着します(撮影2015年11月5日)。
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所在地 宮城県名取市

形状 前方後円墳

規模 墳長 169m(168m)、後円部径 96m 高さ12m、前方部幅96m 高さ6m

後円部3段、前方部2段築成、葺石あり

小塚古墳 径54m 高さ6mの円墳 

築造時期 4C末(4C後とも)

出土品 壺形埴輪(底部穿孔(せんこう)土器とよばれ底に穴があいている古墳用に作られたもの

史跡指定 国指定

特記事項 被葬者は飯野坂古墳群との関連が指摘されている。飯野坂は前方後方墳であるのに対して雷神山は前方後円墳。

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  今回は既に紹介した今市大念寺古墳の石室に続く出雲市にある後期古墳石室、上塩治築山(かみえんやつきやま)古墳です。訪問し終わって振り返ると妙蓮寺山古墳、宝塚古墳、上塩治地蔵山古墳(いずれアップします)とどれも印象に残る石室ばかりです。国の史跡に大正時代にすでに指定されていることだけを考えても、これら遺跡の重要性がわかります。同時に、如何にこの地域を支配していた豪族が力をもっていたかの証ということも理解できました。とりわけ今回の石室の長さは島根県では最も長く14.6mを数えます。そこに大小二つの精巧な家形石棺が縦(大石棺)、横(小石棺)に置かれており、どちらも横面に穴が開いているところが(専門的には横口というそうです)目を引きます。出雲市文化財課の担当者のお話では、埋葬者は棺の中でも生きていると考えられていたようで、そのための出入りの穴(口)だったとのこと。九州の影響を受けているそうで畿内の家形石棺にはみられない特色だそうです。死生観が地域によって異なっていたということのようです。今市大念寺古墳(クリックすれば飛べます)の全国一の規模も同じところに穴(口)が開いていました。比較してご覧ください。こうしていくつもの石棺をみるだけでもバラエティーに富んでいて飽きません。

 墳丘自体は見た目だいぶ崩壊が進んでいるようで雑木に覆われていることもあり円墳といわれなければ小山のようにしかみえません。それでも内部の石棺を目の当たりにして不思議な感覚に襲われました。1400年もの間、時空を超えてここに存在し続けていたのです。ただそれだけなのですが・・・。

現地を訪れてわかったことは動画1の冒頭のところカメラの後側に走る県道277号にも築山古墳群を形成する円墳が4基並んでいたということでした。現在は最近整備されたばかりの道路の下になり、その姿を確認することはできません。それだけに上塩治築山古墳の遺跡としての重要性がわかります。明治20(1887)に石室は開口され、大棺からは金銀双円頭太刀、須恵器、小棺からは金銀製冠、鉄器、須恵器等が出土しています(上塩治築山古墳パンフレット、出雲市)。
  アクセスは出雲市駅前から循環バスを利用してもよいですが私は1㎞ほどなので歩きました。277号を南へ下り島大東を左折して左側に動画1の見学者用駐車場が見えます。その奥の小山です(撮影2016年5月10日)。


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上塩治築山古墳基本データ

所在地 島根県出雲市上塩治町築山

形状 円墳

規模 径46m 高さ6m

築造時期6C

出土品 大棺から金銀双円頭太刀、須恵器、小棺からは金銀製冠、鉄器、須恵器等が出土

史跡指定 国指定

特記事項 羨道 長さ5.8m1.8m高さ2.2m、玄室 長さ6.6m2.8m高さ2.9m

石棺() 長さ2.8m1.4m 高さ1.7m()長さ2.1m 幅1.4m 高さ1.4m

 

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  今回の中期古墳は5C前半(論者によっては初頭)に造られたとみられる全国の第三位の規模、墳長365mの巨大古墳、履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)です。既に紹介した仁徳天皇陵(大仙古墳)(クリックすれば飛べます)いたすけ古墳(クリックすれば飛べます)等と同様、百舌鳥古墳群に属しています。

江戸時代の絵図には履中天皇陵の表記がみられ、上石津ミサンザイ古墳の上石津は堺市に古墳の所在地が編入される前、泉北郡神石村の大字が上石津だったためのようです。遺跡の名称は考古学者の森浩一さんによれば「その所在地の大字や小字によるところが原則で、登呂遺跡や唐古・鍵遺跡(奈良県にある弥生時代の環濠集落遺跡、筆者注)などもすべてその原則にしたがっている」(森浩一編、日本の古代5、前方後円墳の世紀、中公文庫、1996年)のだそうです。知りませんでした。

もう一つカタカナ表記のミサンザイも不思議です。通説では陵の読み方ミササギが訛ってミサンザイとなったようです。既に紹介した土師ニサンザイ古墳のニサンザイも同様です。古墳の世界に迷い込むと次から次へと疑問が湧いてきます。専門家やプロはだしの古代史ファンには常識であっても戸惑うことが多く躓きそうになります。
 それにしても墳長365mの古墳は見事です。ヘリコプターによる上空からの様子は動画1でわかるように前方部が発達した典型的な中期古墳です。すぐ横にはいたすけ古墳も見えます(400mほどの距離)。奥の森状の仁徳天皇陵(大仙古墳)とは違い、地上に降りても墳丘を遠目に観察できるためにその大きさを感じることができます(動画1と動画3)。とはいえ周濠越しに見る墳丘は古墳の世界に関心のない人にとっては単なる緑の山です。
 宮内庁が被葬者としている履中天皇かどうかについても根強い異論があります。出土した土器、埴輪などの考古学的な成果からすると履中天皇陵の父である仁徳天皇陵の築造時期のほうが新しいといわれています。白石太一郎さんは5Cに入り最初に築かれた巨大古墳が上石津ミサンザイ古墳、ついで古市古墳群の誉田御廟山古墳(応神天皇陵、全国第二位の巨大古墳)、そのあとに大仙古墳(仁徳天皇陵)が造られたとみています(古墳からみた 倭国の形成と展開、敬文舎、2013)。
 JR阪和線百舌鳥駅から南西方面に500mほど下ったところにあります。徒歩7-8分(撮影2016年4月7日)。
大阪・奈良大型古墳分布図
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履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)基本データ

所在地 大阪府堺市西区

形状 前方後円墳

規模 墳長 365m、径205m 高さ27.6m、前方部幅235m 高さ 25.3m

築造時期 5C

出土品 不明

史跡指定 なし 宮内庁が履中天皇陵に治定

特記事項 全国で第3位の巨大古墳。陪塚が10基あったといわれる。


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  ブログを開設して丁度160基目に紹介する古墳です。動画を編集しながらあらためてその神明山古墳の大きさに驚いています。日本海を望む京丹後市の竹野神社の裏山にある墳丘は長さ190mもあり(動画のキャプションの一部が180mになっていますが間違いです)、葺石も埴輪もあったというのですから、その景観は南に100㎞ほど離れた神戸市の五色塚古墳(クリックすれば飛べます)とそっくりだったのではないでしょうか。五色塚は瀬戸内海、神明山は日本海に面しています。どちらも海を支配した有力豪族の墓であったに違いありません。興味深いことに、墳長(190mと194m)も後円部径(129m125m)も前方部の幅(78mと81m )もほぼ同じです。築造の時期も極めて接近しています。
 神明山古墳のほうは現在では水田や道路になっていますが、内海である潟湖が墳丘の真下まできていたと考えられています。墳頂からは当時と同様、奇岩 玄武岩でできた立岩がよく見えます。不思議な感慨にとらわれました。
  竹野神社の境内横から墳丘に登ってもどこが古墳かと思えるほどでしたが、しばらく歩くと動画2で見るように後円部が見えてきました。ラッキーなことに二度目の訪問では雑草に煩わされることもなく明瞭な墳丘が迎えてくれました。後円部頂には竪穴石室があったと考えられています。この点も五色塚古墳と同様です。
  日本海側にひと際突き出た丹後半島で最大の古墳はこの神明山古墳と思ったところそうではありませんでした。京丹後市の網野銚子塚古墳が墳長198mとやや上回り、これに与謝郡与謝野町の墳長145mの蛭子山古墳を加えて日本海三大古墳と呼ばれているそうです。両古墳もいずれ機会を見て紹介したいと思いますが、時を経ずして大型の前方後円墳はこの地では築かれなくなったことが考古学者の研究から明らかになっています(石野博信編、全国古墳編年集成、雄山閣出版、1995年)。ヤマト王権がこの地の支配者に対して巨大古墳の築造を許さなくなったためでしょうか。
   五色塚、今回の神明山古墳に加え、海を一望できる前期築造の前方後円墳として神奈川県逗子市・葉山町にまたがる長柄桜山二号墳(クリックすれば飛べます)を思い起こしていただきたいと思います。中期古墳ですが石川県能美市の秋常山古墳(クリックすれば飛べます)の墳頂からも日本海を望むことができます。
  アクセスは京都丹後鉄道峰山駅から丹後海陸鉄道バス 間人(たいざ線)で約30分。丹後庁舎前下車。丹後庁舎で地図をもらうとよいでしょう。徒歩15分。バスは1時間に1本ほど(撮影2015年12月9日)。

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神明山古墳基本データ

所在地 京都府京丹後市丹後町

形状 前方後円墳

築造時期 4C

規模 墳長190m、後円部径129m 高さ26m、前方部幅78m 高さ15m 三段築成

葺石、埴輪あり

出土品 石製合子(ごうす、蓋つきの容器)、石製椅子、石製坩(かん、ものを入れる容器)

土師器

史跡指定 国指定

特記事項 本文でも触れたように網野銚子塚、蛭子山古墳と並び日本海三大古墳と
呼ばれている



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  今回紹介する後期古墳は群馬県安中市にある墳長80mの前方後円墳、簗瀬二子塚古墳です。20157月にオープンしたばかりの古墳公園内にあり道を挟んでガイダンス施設があります。訪れたのはその一か月ほど後の夏真っ盛りの時期でしたが開園直後ということもあり、墳丘のシルエットは非常に明瞭でした。しかも巡っている二重の周濠のほぼ全域が公園なので、遠くから古墳全体を一望できます。もっとも墳長が80mと中規模であることも関係しているのでしょう。なかなかの出来栄えの復元古墳です。以前の墳丘写真をみると竹藪で覆われており復元後の姿とはだいぶ違います。築造時に近いのは現在の姿に違いありません。もっとも葺石や埴輪は復元されていません。同じころに復元された古墳は京都府長岡京市の恵解山古墳(クリックすれば飛べます)ですが、こちらのほうは一部ですが葺石も埴輪も復元されています。

それにしても今回の簗瀬二子塚古墳、墳長は97mと一回り大きいとはいえ高崎市の綿貫観音山古墳(クリックすれば飛べます)とよく似ています。後円部に横穴石室があるのも同じです。是非、比較してご覧ください。ともに後期の前方後円墳に特有の前方部の発達がみられます。簗瀬二子塚は動画2からわかるように前方部の北の端から南の端まで歩いてみると、後円部が見えないこともあり壁のように感じました。

とはいえ異なる点もあります。築造の時期です。綿貫観音山古墳は同じ6Cでも後半、簗瀬二子塚古墳はずっと早く6Cの初頭に造られたと考えられています。上野(かみつけ、現在の群馬県とほぼ同じ)地域では最初の横穴石室をもつ前方後円墳としても価値があるそうです。全長は11.5mもあります。

残念なことに、それほど貴重な古墳にもかかわらず、石室は閉鎖され見学はできません。市の教育委員会によれば湿度計など機器が設置されており開放の予定はないということでした。普段は閉鎖されていても京都府の物集車塚古墳(クリックすれば飛べます)のように一年に一度一週間ほど開けるところもあります。安中市は全国の例を参照されたのでしょうか。代わりにガイダンス施設には横穴石室内部が動画でみることができるというので、寄ってみましたが、数多くの石室に入った経験からすると、よくできているとはいえ実物にはかないません。と、ここまで書いて、皆さんご覧いただいている私の撮った動画も古墳理解のあくまで補完材料ということに気が付きました。現地を是非訪れて頂きたいと思います。

 新幹線の安中榛名駅前から安中市のコミュニティーバス磯部駅行きで原市小学校下車、南に徒歩10分、道路沿いにあるのでわかりやすいです。バスは1時間に1本ほどです(撮影2015年8月25日)。
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簗瀬二子塚古墳基本データ

所在地 群馬県安中市簗瀬

形状 前方後円墳

規模 墳長80m、後円部径50m 高さ8m、前方部幅60m 高さ7m

二段築成 葺石 円筒埴輪あり

築造時期 6C

出土品 玉類、鉄鏃等鉄製品、馬具、土師器、須恵器、円筒埴輪、家、馬など形象埴輪

史跡指定 市指定

特記事項 横穴石室 長さ11.5m、羨道7.3m 幅1m、玄室 長さ4.3m 幅2.3m 高さ2m

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  JR阪和線百舌鳥駅から南西方向に400mほど歩くと線路沿いに百舌鳥古墳群の一つ墳長146mのいたすけ古墳が見えます。高度成長期のはじまりの頃、宅地開発のための土砂採取で墳丘が削平されそうになった時、ストップをかけたのが堺市の市民の運動だったそうです。墳丘を囲む周濠沿いの桜はそれは美しく(動画1)、市民の皆さんのお陰で後世の我々はこの景色を楽しむことができる、そう思わざるを得ませんでした。

百舌鳥古墳群は、既に紹介した箸墓古墳(クリックすれば飛べます)などオオヤマト古墳群、塩塚古墳(クリックすれば飛べます)の含まれる佐紀古墳群が奈良に築かれたのに対して大阪、河内平野の堺市の近隣4㎞四方ほどに造られています。時期的にもくだります。それにしてもあちらを見てもこちらを見ても古墳だらけです。この界隈だけでもいたすけ古墳、大仙古墳(仁徳天皇陵)(クリックすれば飛べます)に加え、駅前の交番裏には墳長102mの前方後円墳の長塚古墳があり、いたすけ古墳の北東200mには墳長203mの御廟山古墳があります。古墳群の墳墓の巨大性と凝集性にあらためて驚かされます。広瀬和雄さん(国立歴史民俗博物館名誉教授)によれば百舌鳥古墳群には39基の前方後円墳を含む108基が造られ、墳長200m以上の前方後円墳が4基、100m以上が7基も含まれるそうです。486mの大仙古墳、365mの上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵)も百舌鳥古墳群です。この数字だけでも驚かざるを得ませんが、それらが4C末から6C後半の約150年ほどの間に造られているというのですから二重の驚きです。

肝心のいたすけ古墳ですが群中、墳丘に近づいて見ることのできるという意味では貴重かもしれません。巨大古墳は宮内庁の陵墓指定のために遠くから眺めるしかないからです。とはいえ、いたすけ古墳も墳丘そのものは動画でご覧いただければおわかりのように生い茂る木々に隠れ全く確認できません。三段築成といわれてもねえとため息が洩れてきます。それに動画2でご覧いただける墳丘南側に半壊状態のまま放置されたコンクリートの橋はなんなのでしょう。聞けば開発が進められている時に土取りのために造られたものだそうですが、なんとも無粋です。墳丘に棲みついたたぬきが時折、壊れた橋まで姿を現すというエピソードとともに、これでよいのだろうかと考えざるを得ませんでした(撮影2016年4月7日)。

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いたすけ古墳基本データ

所在地 大阪府堺市

形状 前方後円墳

規模 墳長146m、後円部径 90m 高さ12.2m、前方部幅 99m 高さ11.4m、三段築成

築造時期 5C

出土品 衝角付冑埴輪

史跡指定 国指定

特記事項 百舌鳥古墳群にあって数少ない宮内庁が管理していない古墳、陪塚の一つ善右ヱ門古墳が残されている



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  阪急宝塚線の池田駅を降りると車が絶えることのない国道176号線が通り、その向こう北東方向に高台が見えます。標高350mほどの五月山の麓です。目指す池田茶臼山古墳はそこにありました。直線距離で1㎞ほどですがうねった登坂が続くために20分以上かかりました。池田駅の西側500mほどのところには大阪湾にそそぐ猪名川が流れています。この猪名川流域には古墳時代に中小規模の古墳が多数築かれたようで「古墳時代の猪名川流域」(池田市立歴史民俗資料館、2010)という書籍も出版されています。既に紹介した大石塚・小石塚古墳、大塚古墳(いずれも桜塚古墳群)、中山荘園古墳も猪名川流域にあります。いずれ紹介する横穴石室がある前方後円墳二子塚古墳もみることができます。

 肝心の池田茶臼山古墳ですが、公園として保存整備されてきたそうです。周辺にはマンションが立ち並ぶなかに忽然として現れる古墳は、よほどの地元の声がなければ残らなかったのではないでしょうか。ただ、残念なことに墳丘を自然のままにしているために土壌の流出が激しく、このままではいずれ前方後円墳には見えなくなってしまうのではないかとの不安を感じました。かろうじてみえる後円部からの前方部は幅が狭く未発達です。前期の前方後円墳の典型がみてとれます。

 アクセスは地図上はわかりやすいですが一苦労でした。親切なご婦人に近くまで案内してもらいました。あとで池田市立中学校を目指すのがよいことがわかりました。古墳は校庭の東側にあります。歴史民俗資料館は火曜日が休館で駅前の観光案内所もお休みです。ご注意を(撮影2016年4月7日)。




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池田茶臼山古墳基本データ

所在地 大阪府池田市五月丘

形状 前方後円墳

規模 墳長 62m、後円部径33m 高さ6.45m、前方部幅18m 高さ3.45m

築造時期 4C

出土品 椀型土師器、管玉、埴輪円筒棺

史跡指定 府指定

特記事項 なし




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