古墳を動画で見るサイト guami_38_36のblog

なんでも実際に見てみないと気が済まない私。古代史初学者として3世紀中頃から7世紀初頭にかけて東北から九州まで造られた多くの古墳の内、墳丘が残り実際に墳頂まで登れるものを訪ねはじめました。2011年秋のことです。既に大いに刺激を受けている先輩方の古墳ブログやHPあります。ただ、なぜこれほど大きな構築物を造られたのかに興味がある私には、大半が静止画像のためにそのスケール感が伝わってきませんでした。偶然、動画で撮ってみたら案外いける。そんな思いで撮りためた古墳動画を見て頂くことにしました。素人の撮影ですから、古墳マニアや専門家の方々からは厳しいご指摘はあるかと思います。ブログでは基本情報とともに一古墳に3-5本程度の動画(各1分以下)を用意しました。この素人の試みが古墳を具体的にイメージする一助となれば幸いです。なお古墳名の次に■がある場合 石室の動画がご覧になれます。

■古墳時代の時期区分
 このブログでは古墳時代を広瀬和雄さん(国立歴史民俗博物館名誉教授)が通説として紹介している古墳時代を前期(3C中頃から4C後半頃)、中期(4C末頃から5C後半頃)、後期(5C末頃から7C初め頃)、終末期(7C前半頃から8C初め頃)に区分して捉えています(前方後円墳の時代、岩波新書、2010年)。
■アップの順番
 前期⇒中期⇒後期(終末期)の古墳を一基ずつワンセットにして全国の古墳を網羅することを目指しています。三基の古墳には何ら有機的な関係はありません。一つの地域に集中して前期から終末期まで掘り下げて見るのが一般的ですが、敢えてそうしなかったのは古墳時代の前期、中期、後期に全国でどのような墳墓が築かれたかを知りたいと思ったからです。古墳の築造年代は専門家の間でも様々な意見があり実年代を確定することが如何に困難なことかは承知しています。そのような限界の下でも古墳を横断的にみると今まで見えてこなかったものが見えてきたような気がします。専門分野外の古墳時代に関心を持ちはじめて日も浅い者ならではの冒険です。
■ご覧になる方法
最新記事9件についてはそのまま下にスクロールすれば見れます。各都府県別古墳は右の一覧をクリックしてください。文中にも関連の古墳に直接飛べるようにリンクを貼ってあります。

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坂の下のバス停から古墳公園に急ぐとまず目に入ったのが今回紹介する墳長57mの前方後円墳5号墳です。生目古墳群の3号墳(クリックすれば飛べます)、22号墳(クリックすれば飛べます)に続いて三回目ですが、どれも番号でしか区別ができないのが少々残念です。5号墳は墳長こそ決して大きくはありませんが、築造当時の古墳に復元されているという意味で最も目立つ古墳です。造られた当初はこういう形をしていたんだということがよくわかります。とりわけ葺石が全面的に復元された古墳は少なく貴重です。緑を残した真後ろの3号墳とのコントラストが絶妙ですが意外な色合いに驚かれたかもしれません。動画2の後半、動画4の最後でご覧いただける前方部から後円部にかけてのシルエットも美しいですね。中期に位置づけられはしますが前方部幅は後円部径よりも短くさほど前方部は発達しているようにはみえません。

既に3号墳のところで書いたように生目古墳群は大半が前期に造られ、内3基は100mを越えます(1号墳136m3号墳143m22号墳101m)。しかし次第に墳丘の大きさは小さくなり4C末(中期)に造られた今回の5号墳は57mにとどまります。この地域を支配する豪族の力が相対的に弱まったことを意味するのでしょうか。

この3号墳で付け加えておかねばならないのは周濠の外側に造られた地下式横穴墓です(19号墳)。地面に竪穴を掘りさらに横穴を掘って埋葬施設としその中に被葬者を置くというものだそうで南九州に特有なものだそうです。いずれ復元された地下式横穴墓を紹介する機会があるかもしれません。アクセスは宮崎市にあるバスセンター宮交シティから県病院方面のバスで20分ほど。坂の下で下車し西方向を見るとこんもりとした緑の森が見えます(撮影2017322日)。
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 このブログをはじめて4か月ほどたった20157月と9月、群馬県高崎市にある保渡田古墳群から二子山、八幡塚の二基の前方後円墳を紹介しています。ところが八幡塚に関しては納得のいかない出来栄えでした。訪れた時間が20152月と冬の日没寸前、画面全体が暗いのです。これも古墳時代の人々も見た光景に違いないとは思いつつも晴れの日の再訪を狙っていました。漸く実現したのが20178月の23日。天候もまずまず、内濠の草刈りも行われたとの情報を得て出かけました。夏の八幡塚古墳です。

湘南新宿ラインの遅れもなく、乗り継いで予定通り前橋駅に到着。840分発の土屋文明記念文学館行きの関越交通バスでかみつけの里博物館前へ。9時過ぎには現地に着き、広大な敷地に広がる墳丘を目の前にてホッとしました。葺石の間から雑草がのぞいてはいたものの前回の光景とは比べものにならないスケールの大きさを感じることができました。動画でどの程度その雰囲気が伝わったかわかりませんがご覧頂ければ幸いです。

 動画5から8までさまざまな角度から墳丘をとらえてみました。それにしてもよくできた復元古墳です。とりわけ二重の周濠と堤も含め古墳時代の人々が見たであろう姿をみることができます。スケールが大きく感じられる一つの理由は二重の周濠が復元されているためではないでしょうか。

畿内では大型の前方後円墳の築造が下火になりつつあった5Cの後半には、八幡塚古墳を含め東国では次々と前方後円墳を見ることになります。八幡塚古墳が築かれた上野でも、白石稲荷山古墳(170m)(クリックすれば飛べます)がやや早く5C中頃に、七興山古墳(145m)(クリックすれば飛べます)が6C前半に築かれています。なお2015922日にアップした八幡塚古墳の動画1-4及び保渡田古墳群の二子山古墳も古墳名をクリックして頂ければ直接飛べます。
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八幡塚古墳基本データ

所在地 群馬県高崎市保渡田町、井出町

形状 前方後円墳

規模 墳長102m 後円部径56m 高さ6m、前方部幅53m 

高さ4.8m(削平されたので不明との情報も)

築造時期 5C

出土品 副葬品は鉄地金銅張f字形鏡板の轡と同剣菱形杏葉

史跡指定 国指定

特記事項 堀のなかに四つの島状区域(中島)がある。




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 美しい墳丘を持つ前方後円墳、岡銚子塚古墳から谷をはさんで北西に200mほどのところに今回紹介する方墳、竜塚古墳があります。一辺56m、高さは7.4mと結構な規模です。数多くの古墳を訪ねましたが、現代の構築物が墳丘を遮って全体を見渡すことができる古墳は決して多くはありません。今回の竜塚古墳はその点で例外的といってよいのではないでしょうか。二段築成の上段斜面に葺かれていた葺石こそありませんが、シルエットは古墳が築かれた当時と同じはずです。

 被葬者は岡銚子塚古墳(クリックすれば飛べます)に眠るこの地域の豪族だったのではないかと考えられていますが、木棺に入れられ墳頂の長方形の墓壙に埋葬されていたそうです。残念ながら副葬品は出土せず、数点の土師器が墳頂、周濠から見つかっているだけです。

 もう一つ動画3では岡銚子塚の陪塚と考えられる径23mの円墳、盃塚古墳も紹介します。墳丘が大きく破壊されていたため調査を経て現在の姿に復元されています。築造時期は竜塚古墳と同様、古墳時代中期の5Cにくだると考えられていますが、竜塚古墳と異なり鉄鏃、鉄刀なども出土しています。 アクセスですがJR中央線石和温泉駅から車で20分。今回、時間がなかったということもありこの古墳踏査の原則を破ってタクシーで現地に向かいました。実車時間20分ほど。結構な距離です。八代ふるさと公園は四季折々の花々が来訪者を迎えてくれます。(撮影日2016331日)
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竜塚古墳と盃塚古墳基本データ

所在地 山梨県笛吹市八代町

形状 竜塚古墳 方墳、 盃塚古墳 円墳

規模 竜塚古墳 一辺56m 高さ7.4m、二段築成 上段葺石 周溝

盃塚古墳 径23m 高さ4.5m 周溝

築造時期 5C

出土品 竜塚古墳 土師器、盃塚古墳 鉄鏃、鉄刀等

史跡指定 竜塚古墳 県指定、盃塚古墳 市指定

特記事項 どちらも岡銚子塚古墳と密接な関係があると考えられている



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  神門5号墳と同じ頃に造られた出現期の古墳、神奈川県海老名市にある秋葉山3号墳(2号墳メイン)は既に紹介していますが、残念なことに前方部が完全に失われ、現在は円墳のようにみえます(クリックすれば飛べます)。その点、秋葉山3号墳よりも少し前に造られた神門(ごうど)5号墳はだいぶ削られた印象はありますが短い前方部も確認できます。住宅地に囲まれているためにこの古墳の特徴である幅の狭い周濠は北側に関しては生活道路に化しています。それでも1700年以上も前の構築物がこうして現在の住宅と共存して残されていることに感心します。墳頂にあった埋葬施設からは剣、ガラス玉、鉄鏃が出土しているそうです。

5号墳ということからもおわかりのようにいくつかの古墳が神門古墳群として確認されています。調査が行われた3号墳、4号墳はいずれも5号墳とほぼ同じ規模の出現期の前方後円墳でしたが現在では開発のために消滅しています。興味深いのは3基から出土した土器です。現地説明板によればこの地区(国分寺台)の中台、天神台等多くの遺跡からは近畿、北陸、東海、北関東などの特徴をもった土器が出土しており、移住や地域間の交流が盛んであったことがわかるとしています。三基はいわば地域統合の象徴として造られたということになります。

交流が盛んであったことは古墳の50m東に今でも残る雷伝池がありその向こうは東京湾だったことからもわかります(現在は埋め立てられ海岸までは凡そ5㎞)が、3Cにはるか遠い近畿や東海地方と想像以上に往来があったようです。海路を用いたとして、7Cから9Cにかけての遣唐使船が無事に倭と唐を往来できる確率は高くはなかった(所説あるようですが高いほうで8割)とされていますから、それよりはるか以前の3Cの航海成功の確率はいかほどのものであっただろうかと考えてしまいます。それでも交流の証明としての各地域の土器が残されているのですから驚きです。

古墳を離れてしまいましたが出現期の奈良県桜井市の纏向出現期の古墳を3回にわたり紹介しています。神門5号墳が造られていた頃、畿内の中心ではホケノ山(纏向出現期古墳1)、纏向石塚(纏向出現期古墳2)、勝山古墳他(纏向出現期古墳3)などが姿を現していました(クリックすれば飛べます)。比較してご覧ください。アクセスはJR内房線五井駅東口からアリオ市原・市原市役所経由国分寺台行きでバス停市原市役所で下車。信号を南西方向に300mほど歩き、次の信号を過ぎて200mほど、ローストハウス焙煎の店を左折し200mほどの左手にみえます(撮影日201622日)。

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神門5号墳 基本データ

所在地 千葉県市川市惣社

形状 前方後円型墳丘墓(出現期前方後円墳)

規模 墳長42.6m 後円部径30m32.5m 高さ5m、前方部幅13m 高さ不明

築造時期 3C

出土品 ガラス玉、剣、鉄鏃

史跡指定 県指定

特記事項 神門3号と4号墳が同様の形態の墳丘墓だったことがわかっているが
開発のため削平



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JR山陽本線の御着(ごちゃく)駅から徒歩で10分ほどのところ目指す古墳はありました。駅の北東方向にある引っ切り無しに車が行き来する国道を越えたすぐそこです。あれっと思うぐらいひっそりと静まり返った緑のなかに墳長143mもの前方後円墳が横たわっていました。墳長100mを超える前方後円墳は全国で302基を数えますが、消滅していたり原形をとどめないほどに破壊されているものもあり、外形をよく留め墳丘に登れるこの古墳は大変に貴重です。

墳丘は動画1でお分かりのように中期以降の前方後円墳によくみられる前方部幅が後円部径よりも大きい寸胴な形をしています。西側に造出しがあり10mから20mほどの幅の周濠が巡っています。まだアップしていませんが大阪府藤井寺市の古市古墳群の一基、仲ツ山古墳の墳形(応神天皇の妃仲津姫陵として治定)の二分の一の相似形であるところから、ヤマト王権との親密さがうかがえるそうです(現地説明版)。周濠と墳丘の間に三か所ある渡り土手がアクセントになっていてなかなかの風情なのですが、姫路市埋蔵文化財センターの話では後世に造られたものだということで少々残念な気分でした。

 この古墳で他の古墳では見られない特色の一つは後円部に長持型石棺の蓋の部分が露出していることです。動画1でご覧になれます。長持型石棺は中期古墳によく見られる長持に似た組合せ式の石棺で大王や地方では最有力首長の埋葬に使われたそうです。ここからも壇場山古墳の被葬者のヤマト王権との近さがうかがえます。その石棺は竪穴式の石室に埋納する場合と土坑に直接埋める場合があったようで、壇場山の場合は後者のために蓋石を幸いにもみることができるというわけです。石材は山陽新幹線西明石駅を過ぎてほどなくして右手に石切り場が見える凝灰岩の竜山石(たつやまいし)ですが、被葬者は竜山石を産出する地域(現兵庫県高砂市)を支配していたのでしょうか。

動画2でおわかりのように周囲にマンションは建っていますが壇場山古墳の雄姿を遮るほどのこともありません。動画4ではいくつかある陪塚から、主墳と同様の長持型石棺が露出する一辺60mほどの方墳 山之越古墳を紹介しています。墳丘の半分ほどが削られ無残な姿ですが、墳頂から壇場山古墳がよく見え、両者の関係を思い浮かべることができます。

アクセスは冒頭に書いたとおり駅前の道を北に歩き国道2号線を渡るとほどなく住宅街に入り左側を注意して歩くと案内板があります(撮影201646日)。PNG danjyouzan zu



壇場山古墳基本データ

所在地 兵庫県姫路市御野国町

形状 前方後円墳 方墳(陪塚 山之越古墳)

規模 墳長143m、後円部径83m 高さ11.4m、前方部幅87m 高さ11.4m  三段築成、葺石、周濠あり 陪塚 山之越古墳(方墳、一辺60m、高さ7m、周濠あり)

築造時期 5C前 陪塚 山之越古墳(5C央)

出土品 円筒埴輪、家形、盾型等形象埴輪、鉄鏃、刀剣等、陪塚 山之越古墳(円筒埴輪、銅鏡、玉類、刀剣類)

史跡指定 国指定

特記事項 なし


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 古墳といえば埴輪はつきものですが実に奥が深いですね。古墳踏査をはじめる前、墳丘には教科書などでみかける人や馬、家形の形象埴輪が並んでいるのが一般的だと考えていましたが、必ずしもそうではないのですね。専門家や古墳ファンには笑われてしまいそうですが円筒形の埴輪が先行し、形象埴輪はだいぶ時がたってから登場することは歩いてみてわかったことでした。

円筒埴輪でも今回の動画1から3で紹介しているように、開いている孔の形が■や▽から中期以降○に変化しているようです。ということは円筒埴輪の孔の形を見ると古墳の築造時期の手掛かりが得られるということになります。大いに参考にさせて頂いたのは村井嵒雄さん他著古墳の知識Ⅱ(東京美術、1988)やネットで紹介されている円筒埴輪で有名な川西宏幸さんの編年です。

埴輪の状況は発掘調査の際に破片などが出土しわかるわけですが、築造当時埴輪がどう並べられていたかは復元された墳丘を目の前にしてはじめて実感できます。雑木林と化した墳丘や、前方後円墳、方墳、円墳など形はわかる程度の保存整備では埴輪や葺石の状況はよほど想像力を働かせなければ難しいと思います。その意味で今回、改めて紹介している復元古墳はいずれも実に見事ですし古墳理解に役立ちます。是非、本来の頁にもアクセスして頂ければと思います。

動画1では加計学園問題で一躍有名になった愛媛県今治市の妙見山古墳です。円筒埴輪は吉備で造られた特殊器台とよばれる壺などを置く筒状の器台が発達したものといわれています。定型化された最初の前方後円墳といわれる箸墓古墳からも出土しているそうです。

奈良県桜井市のメスリ山古墳は巨大な特殊器台型埴輪が多数並んでいたことで知られています。残念ながら墳丘に立ち並ぶ特殊器台にはこれまで遭ったことがなく、やむなく妙見山古墳の背の低い伊予形特殊器台と壺から想像して頂くことにしました。動画2では4C末に造られたといわれる兵庫県神戸市の五色塚古墳の埴輪に注目しています。4C末は時期区分でいうと前期と中期の境になりますが、立ち並ぶ埴輪の孔の形からは出土品が初期のものであることがわかります。左右に鰭(ひれ)がついた円筒埴輪が立ち並ぶ姿は被葬者を外界から守っていることを示しているのでしょうか。他方動画3で紹介している時代が下る中期の広島県東広島市の三ッ城古墳、京都府長岡京市の恵解山古墳にみる円筒埴輪の孔は○に変化しています。それに円筒埴輪にも鰭(ひれ)はついていません。単なる流行だったのでしょうか。

 円筒埴輪の列に混じって朝顔の花を上からみた感じの広がりをもつやや大型の円筒埴輪が確認できます。朝顔形円筒埴輪というそうですが朝顔が日本に入ったのは奈良時代といわれていることを考えると朝顔の花を模したものではなさそうです。


妙見山古墳五色塚古墳三ッ城古墳恵解山古墳(いずれもクリックすれば飛べます)(撮影日妙見山2016年3月26日、五色塚2015年7月8日、三ッ城2014年11月14日、恵解山2017年2月16日)。



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  今回は奈良県平群町にある終末期古墳西宮(にしのみや)古墳を紹介します。  近鉄奈良線を生駒で乗り換え近鉄生駒線を南に下ると東側には落ち葉色の山々が広がります。冬の景色を楽しみながら7つ目の平群(へぐり)で降りて町役場に急ぎました。西宮古墳の次に訪れる予定の烏土塚(うどづか)古墳石室の鍵を借りるためです。西宮古墳は桜並木の竜田川沿いの道を500mほど歩いた平群神社の奥にありました。住宅の間に田畑が時折のぞく風情ある景色です。

 一辺36mの方墳は動画1でおわかりのように遠目にも古墳だとわかりました。近づくと三段築成の二段目の墳丘に横穴石室の入口らしきものがみえます。この石室はブログ開始間もなく紹介した奈良県明日村の岩屋山古墳(クリックすれば飛べます)、桜井市の安倍文殊院西古墳(クリックすれば飛べます)と並び飛鳥時代に造られた切石の石室では優れたものだそうです。そうした予備知識で入室してみるとうーんと思わず声が出ました。一枚の板石でできた羨道側壁の見事さ。とても1300年前のものとは思えません。おわかりのように羨道幅は狭く、それを遮るかのように盗掘の際に置き去りにされた蓋のないくり抜き式石棺が無造作に置かれています。玄室は奥壁、横壁全て一枚岩。説明板によると石積みの間は漆喰で塗り固められていたようです。また「羨道側石と天井石の前面を墳丘勾配に合わせて加工している」そうですがよくわかりません。築造技術に詳しければと悔やまれます。

 実はこの古墳は貼石(葺石は石を積むイメージに対して、貼り石は文字通り貼る)の残りがよいことで知られていますがうっかりして墳丘後ろに回るのを忘れ見過ごしてしまいました。再度訪問をしないといけません(撮影2017116日)。


西宮古墳基本データ

所在地 奈良県平群町

形状 方墳 三段築成 貼石

規模 一辺36m 

築造時期 7C

出土品 須恵器

史跡指定 奈良県

特記事項 被葬者が聖徳太子の子 山背大兄王子との説がある


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  今回の中期古墳は前期と後期の境目、5C後半から末に造られたと考えられているJR上越線群馬総社駅近くの遠見山古墳です。既に紹介した墳長90mの前方後円墳総社二子山古墳(クリックすれば飛べます)の東500mほどのところにあり墳長は80mを誇ります。1㎞四方にも満たない範囲にある総社古墳群の中では最初に築かれたと考えられています。築造の順は遠見山→王塚(未アップ、予定なし)→二子山→愛宕山→宝塔山→蛇穴山と5C後半から8C初め古墳時代中期から終末期にかけてと考えられているようです。

ようやく見つけた住宅地と田畑に囲まれた墳丘ははじめて訪れた夏は一面藪に覆われて古墳のイメージをつかむのに苦労しました。二回目は晴天に恵まれた初冬。草刈が行われた墳丘に登ると前回と違って後円部径よりも前方部幅が広い中期以降の前方後円墳の特徴がよくあらわれていると思いました。動画2、3から感じて頂けるでしょうか。ただ残念なのは北側にある公民館の敷地が墳丘ぎりぎりまで迫っていて全体像がつかめないこと。墳丘には周濠がめぐり葺石が葺かれていたようです。埋葬施設は総社二子山古墳とは違い竪穴石室であったようですが調査はなされていません。動画1のキャプションでは50㎝後円部が前方部より高いと書きましたが正しくは逆で前方部のほうが高くなっています(失礼しました)。前方部幅も高さも後円部を上回っています。

遠見山古墳のいわれですが江戸時代の慶長9年(1604年)総社城二の丸の物見櫓が墳丘に

建てられた名残りのようです。全国の古墳が後世、城として利用され墳丘が改変された例は数多くあります。眺望が効く、一定の面積が確保できる、古墳築造の際に土木工事が行われている等利用価値があったのでしょう。

アクセスは総社郵便局の裏の道を東に200mほどのところにあります。城山公民館を目指してください(撮影20151217日)。
 総社古墳群は狭い地域に見ごたえのある古墳が並んでいます。是非とも現地を訪問してみてください。築造順にこだわらなければ二子山古墳(以下いずれも古墳名をクリックすれば直接当該古墳に飛べます)、愛宕山宝塔山蛇穴山、遠見山古墳の順になるでしょうか。横穴石室が確認されている古墳は全て入室可能(二子山は二室の内の一つ)という点も見逃せません。もちろん照度の高い懐中電灯をお忘れなく。宝塔山古墳近くに前橋市総社歴史資料館もあります。


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遠見山古墳(総社古墳群基本データ)説明

所在地 群馬県前橋市総社町

形状 前方後円墳

規模 墳長 80m 後円部径41m 高さ5m、前方部幅48m 高さ5.5m

   周濠

築造時期 5C

出土品 円筒埴輪

史跡指定 前橋市

特記事項 後円部に埋葬施設、総社古墳群中最初に築かれたと考えられている


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  今回は双方中円墳という形状の前期古墳、しかもオオヤマト古墳群の主要墓である崇神天皇陵(行燈山古墳)(クリックすれば飛べます)の隣という立地にある櫛山古墳です。墳長は152m155m表記のものもあります)もあります。オオヤマト古墳群の大型墓の大半が宮内庁管理にあって墳丘に近づくことができないなか、櫛山古墳は登ることができる数少ない古墳です。しかも整備が行き届いていて素人目にも円墳の前後にそれぞれ方形部分がつくという変わった形状がはっきりと確認できます。動画2以下でご覧になれます。
 双方中円墳といえば既に香川県高松市の岩清尾山古墳群の猫塚古墳鏡塚古墳(それぞれクリックすれば飛べます)を紹介しています。積石で覆われた不思議な墳丘ですが櫛山古墳との対比は面白いと思います。ただし岩清尾山古墳群とは違い、方形状の前方部と後方部は同じ長さではなく「動画撮影位置」にあるように後方部の長さは前方部の半分もありません。どうしてこのような珍しい形状の墳墓を造ったのか、立地面の制約なのでしょうか。

 櫛山古墳が墳長260mもある崇神天皇陵(行燈山古墳)の造られた数十年後東側に隣接して造られたことに特別の意味があるのでしょうか。これも興味深い点です。現地説明版によれば埋葬施設の石室及び長持型石棺や白礫を敷き詰めた墓前祭祀跡などから両者が密接な関係にあったことがうかがわれるようです。天理から桜井に至る山の辺の道では、JR桜井線柳本駅近くで左に崇神天皇陵、右に櫛山古墳を見ることになりますが、どういうわけか多くの方は櫛山古墳の存在を忘れてしまっているようです。是非、現地に赴かれる方は崇神天皇陵とセット珍しい双方中円墳の墳丘をご覧ください。櫛山古墳に直行する場合は柳本駅から東に徒歩で10分ほど。国道19号線を渡ると崇神天皇陵がありその奥です。非常にわかりやすいです(撮影日20151014日、1028日)。
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櫛山古墳基本データ

所在地 奈良県天理市柳本町

形状 双方中円墳 段築 中円部 後方部三段、前方部二段、葺石あり

規模 墳長155m、中円部径約90m 高さ17.5m、前方部幅60m 長さ60m 高さ10m、後方部長さ25m 高さ10m

築造時期 4C

出土品 石製腕飾類や鉄製品

特記事項 双方中円墳という珍しい墳丘をもつが前方部と後方部の長さは均等ではない

埋葬施設は竪穴石室  長さ7.1m、幅1.4m


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