古墳を動画で見るサイト guami_38_36のblog

なんでも実際に見てみないと気が済まない私。古代史初学者として3世紀中頃から7世紀初頭にかけて東北から九州まで造られた5200基もの古墳の内、墳丘が残り実際に墳頂まで登れるものを訪ねはじめました。2011年秋のことです。既に先輩方が古墳のブログやHPを立ち上げられて今でも大いに刺激を受けています。ただ、権力者がなぜこれほど大きな構築物を造ったのかに興味がある私には、残念なことに大半の画像が静止画であるためにそのスケール感が伝わってきませんでした。偶然、動画で撮ってみたら案外いける。そんな思いで撮りためた古墳動画を見て頂くことにしました。素人の撮影ですから、古墳マニアや専門家の方々からは厳しいご指摘はあるかと思います。ブログでは基本情報とともに一つの古墳に3-5本程度の動画(各1分以下)を用意しました。この素人の試みが古墳を具体的にイメージする一助となれば幸いです。

■古墳時代の時期区分
 このブログでは古墳時代を広瀬和雄さん(国立歴史民俗博物館名誉教授)が通説として紹介している古墳時代を前期(3C中頃から4C後半頃)、中期(4C末頃から5C後半頃)、後期(5C末頃から7C初め頃)、終末期(7C前半頃から8C初め頃)に区分して捉えています(前方後円墳の時代、岩波新書、2010年)。
■アップの順番
 前期⇒中期⇒後期(終末期)の古墳を一基ずつワンセットにして全国の古墳を網羅することを目指しています。三基の古墳には何ら有機的な関係はありません。一つの地域に集中して前期から終末期まで掘り下げて見るのが一般的ですが、敢えてそうしなかったのは古墳時代の前期、中期、後期に全国でどのような墳墓が築かれたかを知りたいと思ったからです。古墳の築造年代は専門家の間でも様々な意見があり実年代を確定することが如何に困難なことかは承知しています。そのような限界の下でも古墳を横断的にみると今まで見えてこなかったものが見えてきたような気がします。専門分野外の古墳時代に関心を持ちはじめて日も浅い者ならではの冒険です。
■ご覧になる方法
最新記事12件についてはそのまま下にスクロールすれば見れます。各都府県別古墳は右の一覧をクリックしてください。文中にも関連の古墳に直接飛べるようにリンクを貼ってあります。

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  今回は奈良県平群町にある終末期古墳西宮(にしのみや)古墳を紹介します。  近鉄奈良線を生駒で乗り換え近鉄生駒線を南に下ると東側には落ち葉色の山々が広がります。冬の景色を楽しみながら7つ目の平群(へぐり)で降りて町役場に急ぎました。西宮古墳の次に訪れる予定の烏土塚(うどづか)古墳石室の鍵を借りるためです。西宮古墳は桜並木の竜田川沿いの道を500mほど歩いた平群神社の奥にありました。住宅の間に田畑が時折のぞく風情ある景色です。

 一辺36mの方墳は動画1でおわかりのように遠目にも古墳だとわかりました。近づくと三段築成の二段目の墳丘に横穴石室の入口らしきものがみえます。この石室はブログ開始間もなく紹介した奈良県明日村の岩屋山古墳(クリックすれば飛べます)、桜井市の安倍文殊院西古墳(クリックすれば飛べます)と並び飛鳥時代に造られた切石の石室では優れたものだそうです。そうした予備知識で入室してみるとうーんと思わず声が出ました。一枚の板石でできた羨道側壁の見事さ。とても1300年前のものとは思えません。おわかりのように羨道幅は狭く、それを遮るかのように盗掘の際に置き去りにされた蓋のないくり抜き式石棺が無造作に置かれています。玄室は奥壁、横壁全て一枚岩。説明板によると石積みの間は漆喰で塗り固められていたようです。また「羨道側石と天井石の前面を墳丘勾配に合わせて加工している」そうですがよくわかりません。築造技術に詳しければと悔やまれます。

 実はこの古墳は貼石(葺石は石を積むイメージに対して、貼り石は文字通り貼る)の残りがよいことで知られていますがうっかりして墳丘後ろに回るのを忘れ見過ごしてしまいました。再度訪問をしないといけません(撮影2017116日)。


西宮古墳基本データ

所在地 奈良県平群町

形状 方墳 三段築成 貼石

規模 一辺36m 

築造時期 7C

出土品 須恵器

史跡指定 奈良県

特記事項 被葬者が聖徳太子の子 山背大兄王子との説がある


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  今回の中期古墳は前期と後期の境目、5C後半から末に造られたと考えられているJR上越線群馬総社駅近くの遠見山古墳です。既に紹介した墳長90mの前方後円墳総社二子山古墳(クリックすれば飛べます)の東500mほどのところにあり墳長は80mを誇ります。1㎞四方にも満たない範囲にある総社古墳群の中では最初に築かれたと考えられています。築造の順は遠見山→王塚(未アップ、予定なし)→二子山→愛宕山→宝塔山→蛇穴山と5C後半から8C初め古墳時代中期から終末期にかけてと考えられているようです。

ようやく見つけた住宅地と田畑に囲まれた墳丘ははじめて訪れた夏は一面藪に覆われて古墳のイメージをつかむのに苦労しました。二回目は晴天に恵まれた初冬。草刈が行われた墳丘に登ると前回と違って後円部径よりも前方部幅が広い中期以降の前方後円墳の特徴がよくあらわれていると思いました。動画2、3から感じて頂けるでしょうか。ただ残念なのは北側にある公民館の敷地が墳丘ぎりぎりまで迫っていて全体像がつかめないこと。墳丘には周濠がめぐり葺石が葺かれていたようです。埋葬施設は総社二子山古墳とは違い竪穴石室であったようですが調査はなされていません。動画1のキャプションでは50㎝後円部が前方部より高いと書きましたが正しくは逆で前方部のほうが高くなっています(失礼しました)。前方部幅も高さも後円部を上回っています。

遠見山古墳のいわれですが江戸時代の慶長9年(1604年)総社城二の丸の物見櫓が墳丘に

建てられた名残りのようです。全国の古墳が後世、城として利用され墳丘が改変された例は数多くあります。眺望が効く、一定の面積が確保できる、古墳築造の際に土木工事が行われている等利用価値があったのでしょう。

アクセスは総社郵便局の裏の道を東に200mほどのところにあります。城山公民館を目指してください(撮影20151217日)。
 総社古墳群は狭い地域に見ごたえのある古墳が並んでいます。是非とも現地を訪問してみてください。築造順にこだわらなければ二子山古墳(以下いずれも古墳名をクリックすれば直接当該古墳に飛べます)、愛宕山宝塔山蛇穴山、遠見山古墳の順になるでしょうか。横穴石室が確認されている古墳は全て入室可能(二子山は二室の内の一つ)という点も見逃せません。もちろん照度の高い懐中電灯をお忘れなく。宝塔山古墳近くに前橋市総社歴史資料館もあります。


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遠見山古墳(総社古墳群基本データ)説明

所在地 群馬県前橋市総社町

形状 前方後円墳

規模 墳長 80m 後円部径41m 高さ5m、前方部幅48m 高さ5.5m

   周濠

築造時期 5C

出土品 円筒埴輪

史跡指定 前橋市

特記事項 後円部に埋葬施設、総社古墳群中最初に築かれたと考えられている


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  今回は双方中円墳という形状の前期古墳、しかもオオヤマト古墳群の主要墓である崇神天皇陵(行燈山古墳)(クリックすれば飛べます)の隣という立地にある櫛山古墳です。墳長は152m155m表記のものもあります)もあります。オオヤマト古墳群の大型墓の大半が宮内庁管理にあって墳丘に近づくことができないなか、櫛山古墳は登ることができる数少ない古墳です。しかも整備が行き届いていて素人目にも円墳の前後にそれぞれ方形部分がつくという変わった形状がはっきりと確認できます。動画2以下でご覧になれます。
 双方中円墳といえば既に香川県高松市の岩清尾山古墳群の猫塚古墳鏡塚古墳(それぞれクリックすれば飛べます)を紹介しています。積石で覆われた不思議な墳丘ですが櫛山古墳との対比は面白いと思います。ただし岩清尾山古墳群とは違い、方形状の前方部と後方部は同じ長さではなく「動画撮影位置」にあるように後方部の長さは前方部の半分もありません。どうしてこのような珍しい形状の墳墓を造ったのか、立地面の制約なのでしょうか。

 櫛山古墳が墳長260mもある崇神天皇陵(行燈山古墳)の造られた数十年後東側に隣接して造られたことに特別の意味があるのでしょうか。これも興味深い点です。現地説明版によれば埋葬施設の石室及び長持型石棺や白礫を敷き詰めた墓前祭祀跡などから両者が密接な関係にあったことがうかがわれるようです。天理から桜井に至る山の辺の道では、JR桜井線柳本駅近くで左に崇神天皇陵、右に櫛山古墳を見ることになりますが、どういうわけか多くの方は櫛山古墳の存在を忘れてしまっているようです。是非、現地に赴かれる方は崇神天皇陵とセット珍しい双方中円墳の墳丘をご覧ください。櫛山古墳に直行する場合は柳本駅から東に徒歩で10分ほど。国道19号線を渡ると崇神天皇陵がありその奥です。非常にわかりやすいです(撮影日20151014日、1028日)。
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櫛山古墳基本データ

所在地 奈良県天理市柳本町

形状 双方中円墳 段築 中円部 後方部三段、前方部二段、葺石あり

規模 墳長155m、中円部径約90m 高さ17.5m、前方部幅60m 長さ60m 高さ10m、後方部長さ25m 高さ10m

築造時期 4C

出土品 石製腕飾類や鉄製品

特記事項 双方中円墳という珍しい墳丘をもつが前方部と後方部の長さは均等ではない

埋葬施設は竪穴石室  長さ7.1m、幅1.4m


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  JR桜井線の巻向駅の西500mほどのところに今回紹介する勝山、矢塚、東田大塚古墳が位置します。既に紹介した纏向出現期の古墳として有名な纏向石塚古墳(クリックすれば飛べます)もその至近距離にあり、同様によく言及される同時期のホケノ山古墳(クリックすれば飛べます)は駅東南側1㎞にあります。それらの位置関係の略図は動画とともにアップしてあるのでご確認ください。

 いずれも定型化された最初の前方後円墳の箸墓古墳(クリックすれば飛べます)からほど近いところにあります(ホケノ山古墳の墳頂からは箸墓古墳がよく見えます)。箸墓古墳が3C半ばに造られたとしてそれより前に箸墓(墳長278m)よりは規模は小さいとはいえ後円部と前方部を伴った100mクラスの墳墓がいくつも造られたというのが研究者の共通した見解のようです。残念ながらホケノ山や石塚のように発掘調査が行われたのちに復元されている例とは違い、今回の三基は勝山は別としても矢塚、東田大塚は前方部が削られ畑地と化しているために現地に立って測量図を眺めながら当時の姿を思い浮かべるしかありません。今回の動画では最後に現地にある測量図を静止画像で掲載してあります。それでも勝山は土器や木製品が発掘されたとされるくびれ部分を後円部方向から確認することができますし、築造時からあったといわれる周濠のむこうに広がる墳丘はなかなかのものです。何より勝山からは矢塚が、矢塚からは東田大塚を今でも一望できることは、当時と同じわけで感慨深いものがあります。

 なおここでは纏向出現期古墳として勝山、矢塚、東田大塚、石塚、ホケノ山を扱っていますが既に石塚を紹介した際に書きましたように、研究者の間ではこれを古墳と呼ぶかどうか論争があります。近つ飛鳥博物館館長の白石太一郎さんは、纏向石塚やホケノ山がのちの定型化した大型前方後円墳の祖形となるものであるとしても、あくまでも古墳以前の墳丘墓と捉えるべきとしている(古墳からみた倭国の形成と展開、敬文舎、2013)のに対して、桜井市纏向学研究センター長(纏向小学校に隣接)の寺沢薫さんは、纏向石塚のような定型化した前方後円墳よりも前方部が未発達な墳丘墓を「纏向型」前方後円墳と呼ぶことを主張しています(王権誕生、講談社、2000)。

 いずれにせよ定型化された前方後円墳である箸墓古墳出現の前に、こうした墳墓が造られたことは間違いがなく、ここでは出現期の古墳として紹介しました(撮影2017215日)。
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 今回の前期古墳は京都府向日市の墳長91mの前方後円墳、五塚原(いつかはら)古墳です。

前期といっても出現期に近い段階で造られた非常に貴重な古墳です。既に紹介した元稲荷古墳(クリックすれば飛べます)、寺戸大塚古墳と向日丘陵に並ぶように築かれています。元稲荷の説明で触れましたが、向日丘陵は東海道新幹線が京都駅を離れ新大阪方面へ下りはじめると車窓の右手に広がっています。三つの古墳は前方後方、前方後円という違いはあれ、100mを少し下回る墳長という点で共通しています。それらの墳墓は極めて有力な豪族が古墳時代のはじめ、乙訓で絶大な影響力を発揮していたことを示しています。
  墳丘東側には動画1で見るようなため池が巡っていますが、埋蔵文化センターの方のお話によれば中世の開墾に伴うもので築造当時はなかったようです。
既にこれまでの調査の結果、後円部は三段、前方部は二段築成で前方部は細く長いバチ型であることが明らかになっており箸墓古墳との類似性が指摘されてきました。箸墓古墳(クリックすれば飛べます)は陵墓参考地のために本格的な調査は困難なことを考えれば、墳丘の遺存状況がよい五塚原古墳の調査が注目されるというわけです。

 丁度訪れた時は後円部を発掘調査中でした。動画1でぎっしりと葺かれた葺石の状況がわかります。なるほどと思いながらしばし見入ってしまいました。20151219日に開かれた現地説明会資料(向日市のHPにアップ)によれば葺石が立体構造物としての石の山として見栄えよく見えるように随所に技術的工夫がなされているそうです。現在あるため池側から石の山が見えたというわけです。

古墳に精通されている方のために資料の最後の一文を記しておきます。いやはやとんでもない貴重な古墳だということがわかります。「五塚原古墳の墳丘の特徴は「斜路状平坦面」に象徴される前方部と後円部が分離した段築構造に象徴されます。後円部の平坦面は水平にめぐりますが前方部にはつながっていません。このような墳丘の不整合は箸墓古墳の特徴的な構造とみられ全国5200の前方後円墳の中で2例しか確認されていません。」ということは五塚原古墳はあの箸墓古墳と技術者集団が同じだったということなのでしょうか。いささか残念なのは動画でご覧のように墳丘は築造当時のように復元はされておらず、その貴重さが素人目にはよくわからない点でしょうか。アクセスはJR向日町から徒歩で15分、あるいは阪急京都線東向日からはより近く徒歩で10分です。市役所を目指し裏手にある文化資料館で古墳マップを入手して歩かれるとよいと思います。(撮影20151126日)。


五塚原古墳基本データ

所在地 京都府向日市寺戸町

形状  前方後円墳

規模 墳長91.2m、後円部径 54m 高さ8.7m、前方部幅33m 高さ2.1m-4.0m

後円部 三段、前方部二段築成 葺石あり

築造時期 3C

出土品 不明

史跡指定 国指定

特記事項 本文で触れたように箸墓古墳と本古墳にしかみられない墳丘構造をもつ



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今回は濃尾平野の北西端に位置する岐阜県大野町にある野古墳群から南出口及びモタレ古墳を紹介します。既に南屋敷西登越古墳をアップしています(クリックすれば飛べます)が、500mほどの狭い地域に5C後半から6C初頭にかけて前方後円墳や円墳、方墳が17基造られ、現在は9基が残っています。季節によるとは思いますが、訪れた晩秋は燃えるような真紅の野村モミジから緑の墳丘が覗き、それは美しいの一言でした。とりわけ今回紹介する前方後円墳、南出口古墳は大野町役場から三水川沿いに北にあがってはじめて目にする古墳でとても印象的でした。

中期から後期の前方後円墳というと前方部の発達、とりわけ前方部端の幅が後円部径より大きかったり、前方部の高さも後円部のそれと同じくらい、あるいは越えることも多いが一般的です。既に紹介した古墳動画からもその点が確認できます。ところが野古墳群の前方後円墳は、前方部が発達しておらずまるで前期の古墳のようです。地域的な特色なのでしょうか。また、濃尾平野というと前方後方墳が数多く造られたのではと思われますが野古墳群のような例もあることがわかいました。もっとも野古墳群に先駆けて造られた上磯古墳群(クリックすれば飛べます)には複数の前方後方墳があります。野古墳群の中では登越、モタレが5C央、南屋敷西が5C末、それに今回の南出口が6C初めの順で造られたと考えられています。

 アクセスは大変不便です。岐阜駅から岐阜バス 大野バスセンター行に乗り約1時間。終点で下車、徒歩15分です。本数は現地を見学できる本数は日に3、4本ほどです。事前に十分確認が必要です。バスセンター前には大野町役場があり、その隣には立派な図書館もあります。役場で野古墳群までの地図を貰うとよいでしょう。
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南出口及びモタレ古墳基本データ

所在地 岐阜県大野町

形状 前方後円墳

規模 南出口 墳長75m、後円部径約39m 高さ6.2m、前方部幅約28m 高さ約5m3段築成 モタレ 墳長54m 後円部径41m 高さ6m、前方部不明

築造時期 5C央(南出口)、モタレ(6C初)

出土品 円筒埴輪、獣帯鏡(南出口)、円筒埴輪片(モタレ)

史跡指定 野古墳群として国指定

特記事項 モタレ古墳は現在の形状は円墳にしか見えない


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  今回の中期古墳は5C央に築かれたと考えられている双子塚古墳です。熊本県山鹿市の県立装飾古墳館に隣接しており、いくつもの円墳とともに岩原(いわばる)古墳群として、敷地内に整備保存されています。失礼ながらそれほど期待していなかっただけに動画1の冒頭、広がる緑の中の墳丘を目にした時の驚きは尋常ではありませんでした。しかも墳丘の輪郭が草刈直後ということもあり実に明瞭なのです。これが墳長107m?ずっと大きく見えます。とりわけ20mほどの周濠の外からみるとそう感じます。墳丘前方部の高さは8m。後円部のそれと1mしか違いません。典型的な前期の前方後円墳では前方部の高さは後円部よりもずっと低く、そこからもこの古墳が中期に築かれたことがわかります。ただ、不思議なことに目の錯覚でしょうか。実際に後円部に登って前方部方向をみると、動画3にあるように前方部はずっと低くみえます。おそらく前方部が後円部近くのくびれ辺りにかけて下がっているからではないかと思いました。

 川原石と思われる葺石があちらこちらに残り当時をしのばせてくれました。発掘調査の結果、三段築成の墳丘には円筒埴輪が据えられていたことがわかっていますが、埋葬施設については行われていません。既にアップした墳長が同規模のものでは奈良県のナガレ山、同じく奈良県の三陵墓東、千葉県の姉崎二子塚、三重県の宝塚1号墳、奈良県の塩塚、群馬県保渡田古墳群の中二子と数多くあります(いずれもクリックすれば飛べます)。同じ前方後円墳でもずいぶんと印象が違うことがわかります。比較してご覧ください。

 熊本県立装飾古墳館は特徴的な装飾壁画のある古墳石室をレプリカで再現してあって見応えがあります。同種の博物館がないだけに貴重です。それに負けず劣らず二子塚古墳を中心とするこの岩原(いわばる)古墳群もお見逃しなく。

 アクセスはよくありません。熊本市内からバスを利用する場合、山鹿バスセンターまで1時間以上かけて行き、そこから別の路線に乗り換えて、装飾古墳館前で下車。徒歩20分です。接続のバスが来るまで1時間以上待たなければならなかったので結局タクシーに乗らざるを得ませんでした。それでも、熊本バスセンターを朝出発し、装飾古墳館に着いたのは昼近くでした。県立の博物館に行くのにこれほど不便とは。これでは県立装飾古墳館には来てくれるなといわんばかりです。何とかしてほしいと思いました(撮影2016年10月25日)。
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双子塚古墳(岩原古墳群)基本データ

所在地 熊本県山鹿市鹿央町
形状 前方後円墳

規模 墳長107m、後円部径 57m高さ 9m、前方部幅49m 高さ8m、三段築成、周濠あり、

葺石あり

築造時期 5C

出土品 円筒埴輪

史跡指定 国指定(岩原古墳群として)

特記事項 なし


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   四国最大の前方後円墳はいったいどこにあるのか。ようやく辿りつくことができた富田茶臼山古墳は香川県さぬき市にありました。 墳長は139mですが周囲に遮るものが何もなく、実際よりも大きくみえることは動画からおわかりになると思います。高松から20㎞ほど東にあるさぬき市は小豆島を海に迎えます。高松駅から朝8時発の大川バスに乗り約1時間の旅で目の前に古墳がみえるみろく自然公園前に着きました。自然を利用したスポーツ施設ですが歴史民俗資料館もあります。HPの解説によれば一見平野に造られているかにみえる古墳ですが、南から下がる丘陵を利用して造られているそうです。地形図でみるとたしかにそのとおりでした。高松側からみると高松平野の東端、みろく側からみると高松平野の入口にあたり古来交通の要衝であったことがわかります。水上を含む流通を支配した豪族の墓であることは容易に想像できます。行きかう人々にその威容はどのように映ったでしょうか。いかに富田茶臼山古墳の被葬者が強大な権力をもっていたかは、それ以前にはこの地域(寒川という)では小規模な古墳(前方後円墳)しか造られてこなかったことからもわかります。消滅してしまっていますが陪塚が3基確認されている点もその解釈を支えます。

墳丘が前方部端にいくにしたがい狭くなる周濠が巡っていたことがわかっています。とすると現在よりもさらに大きく163mにも達します。以前から古墳の存在は目立ったようで後円部の埋葬施設から剣、玉、人骨などが出土したとも伝えられ、埴輪や葺石の存在も明らかになっています。

墳長でいえば三重県の馬塚古墳(クリックすれば飛べます)、埼玉県の二子山古墳(さきたま古墳群)(クリックすれば飛べます)、同規模です。比較してご覧ください。

富田茶臼山古墳。残念ながら後円部にあると考えられる埋葬施設については調査が行われていません。もっとも墳丘北側に比べ南側はかなり削平されでこぼこです。行政や地元の方々の努力でここまでで留まっているというのが実情だとは思いますが・・・(撮影2016325日)。
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富田茶臼山古墳基本データ

所在地 香川県さぬき市

形状 前方後円墳

規模 墳長139m、後円部径90m 高さ15m、前方部幅77m 高さ12.5m

三段築成、葺石あり

築造時期 5C

出土品 円筒埴輪、朝顔等形象埴輪、土師器、須恵器

史跡指定 国指定

特記事項 四国最大規模の前方後円墳


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  山陰道をまたいで保存された塩津山墳丘墓から比較的近いところにあるはずの宮山墳丘墓、仲仙寺墳丘墓まで、なかなかたどりつけずに焦ってしまいました。松江まで戻る電車の本数が少ないのです。公園として保存されてはいるものの、地元の人々でも知る人は少ないようで、飛び込んだ美容室の店主も、客も知りませんでした。新たに開発された住宅地のために昔を知る住民が少ないからなのかもしれません。漸く見つけることができたのが動画1と動画2の墳丘墓です。これまで見てきた前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳とはかなり違います。四隅に舌状のものがついていてあたかもヒトデのような形です。
  山陰地方に多いことが確認されていますが、寺沢薫さん(桜井市纏向学研究センターセンター長)はこうした四隅突出墳丘墓の出現について「後期(弥生、筆者註)になるや、イズモ世界が四隅突出墳丘墓を共通の首長墓として定着させ、瀬戸内世界では円丘墓(いずれ紹介、筆者註)突出墓を設け、前方後円墳を志向し始めると書いた。墳丘はしだいに大きくなり、後期末(2C末頃)には、その地域の前期古墳とそん色ないほどの巨大墳丘墓が出現する」(王権誕生、小学館、2000)と述べています。既に紹介した西谷3号墳(クリックすれば飛べます)がまさにその一つでしょうし、今回の2基も規模はやや小ぶりながら古墳時代に移行する時期に造られたようです。そういえば既に紹介した塩津山1号墳も突出部分の名残りを残した方墳でした(クリックすれば飛べます)。是非、比較してご覧ください。

これら四隅の突出部にはどのような意味があるのでしょう。専門家は方形の墳丘墓に登るための四方の通路が特殊な形に発達したものとみており墳丘斜面には丁寧に石が貼られ、その裾部には一重ないし二重の石列をめぐらすものが多いと述べています(白石太一郎、倭国の形成と展開、敬文舎、2013)。その一端は動画2でご覧になれます。古墳時代の直前まで、山陰地方の有力な首長たちがその絆の示すために共通の様式の墳丘墓を築いていたということになります。それにしても、出雲地域は古墳時代に入っても個性的です。全国的には造られなくなった古墳後期にあっても前方後方墳がみられるのです(撮影2016年5月11日)。
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荒島墳丘墓基本データ

所在地 島根県安来市

形状 四隅突出型弥生墳丘墓

規模 宮山4号 30m(含む突出部) 仲仙寺9号 27m(含む突出部) 

貼り石あり

築造時期 2C

出土品 太刀、玉類、赤色顔料

史跡指定 国指定

特記事項 出雲地方特有の四隅突出型墳丘墓が集中する様子をみられる


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朴天秀さんの「伽耶と倭」(講談社、2007)を数年前に読んで以来、是非、訪ねてみたいと思っていた韓国高霊市の池山洞古墳群です。考古学の専門的な知識がないなかで、表紙の尾根に連なる円墳を上空から撮影した画像にひかれたのです。日本にも岩橋千塚古墳群、西都原古墳群(いずれアップします)はじめ群集墳は数多くあるわけですが、池山洞古墳群の場合、多数の墳丘が狭い尾根伝いに円墳が立ち並ぶ姿はビジュアル的に群を抜いています。動画にも出てきますが王都である平野部からもよく見えたはずです。

百済、新羅と異なり伽耶はなじみがないかもしれません。教科書的な説明では、三国時代に朝鮮半島の南、現在の慶尚道一帯に栄えていた、百済にも新羅にも属していなかった小国家群ということになります。慶州と釜山の間、半島中央寄りのところです。文化や言語によって三韓(馬韓、辰韓、弁韓)に分けられた朝鮮半島は、その後馬韓は百済に、辰韓は新羅にとそれぞれ一つの強大国家にまとまったものの、弁韓だけは統一されず小国群として留まったそうです。小国群の中でも「金官伽耶」と「大伽耶」という2つの大きな勢力が現れ、金官伽耶は高句麗や新羅の圧迫を受け衰退し532年に新羅に従属します。その後、大伽耶が小国群の中心となったものの、強大な勢力となった新羅と百済の間に位置していた伽耶は徐々に両国に力を奪われ、562年に大伽耶が新羅に取り込まれ伽耶は滅亡したのです。高霊の池山洞にある主山には王族など支配層の古墳が700基余りあり、古墳からは金銅冠や首飾りなどの副葬品や殉葬者の骨が発掘され、埋葬者が身分の高い支配層であったと推定されています。倭との交流を示す遺物が発掘された古墳から出土していますが、前出、朴さんは、大伽耶の衰退と滅亡の一つの要因となったのが倭との交易が途絶したこと(南海岸の制海権と交易港を百済に奪われる)と述べています。また、北陸地方の古墳からは大伽耶様式の土器が多数出土しているとの指摘もあります。実に興味深いですね。是非、「伽耶と倭}お読みいただければと思います。

復元された44号墳の展示施設は、動画3でわかるように非常にリアルに石槨内部が再現されていて驚きました。それにしても殉死した人々の中には子供を抱えた男性、二人の少女などもおり複雑な気分になりました。大伽耶博物館には日本人スタッフもいて、王領展示館を含め丁寧に案内していただきました。44号墳は動画で確認できるように墳丘自体が少々外れたところにあり特別な扱いを受けた墓という印象を持ちました。肝心の古墳群はかなり急な登坂なので、時間にゆとりをもって計画されたほうがよいと思います。博物館からゆっくり歩くと往復で2時間ぐらいでしょうか。現地には慶州からタクシーをチャーターしてむかいました。といっても慶州を含めた一日の借り上げだったので高くはありませんでした。朝9時半発、現地博物館に11時着でした(撮影2016年7月27日)。



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