スケールが半端でない中国の乾陵(けんりょう)

 今回番外編として紹介するの7Cの唐を率いた高宗と則天武后(武則天というのが一般的らしい)二人の皇帝の合葬墓、乾陵(けんりょう)です。完成は684年だそうです。合葬墓というと奈良県明日香村にある天武天皇・持統天皇の檜隅大内陵(ひのくまおおうちのみささぎ)(まだアップしていません)を思い出してしまうのですが、時期的にはほぼ重なるものの規模は比較になりません。天武・持統陵は径50mの円墳ないし八角墳であるのに対して、西安の西北80㎞ほどの陜西省乾県にある乾陵の墓域は山の峰で三つ、埋葬施設があるとされる北峰は1000mを越える高地です。もっとも天武・持統陵も墓域で考えれば径50mよりははるかに大きいことはもちろんです。倭が王墓として巨大な墳墓、前方後円墳(最後と考えられるのは5C後半の五条野丸山古墳(クリックすれば飛べます)を造ることをやめ100年余り。王墓の規模がずっと小さくなった頃、中国ではこの巨大さです。主峰の北峰及び望楼のある二つの峰(西乳峰闕楼と東乳峰闕楼)からなる乾陵は日本の古墳の規模が最大に達した5C中頃に造られた仁徳天皇陵(大仙古墳)をもはるかにしのぐようにも思われます(動画2の最後に全体像がわかる車窓からのショットがあります)。それにしてもとんでもない巨大さですね。さすが中国という感じです。7C後半、白村江の戦いで日本に勝利した唐を率いていたのは高宗と皇后の武則天です。破竹の勢いだったのでしょう。他方、その戦後処理を行う過程で日本最初の律令制度、大宝律令を作成し唐との対等の外交を模索したのが天武・持統二人の天皇でした。同じ合葬墓とはいえ規模では全く対照的です。墳墓から当時の両国が置かれた立場に思いを馳せてみました。

もっとも未盗掘といわれる乾陵の地下宮殿がどのようなものかは全くわからないというのは残念の一言につきます(過去に発掘を試みたが場所が特定できなかったという話もガイドさんから聞きました)。中国、朝鮮半島と倭の古墳を比較して論じた森下章司さん(古墳の古代史(ちくま新書))は「(中国)皇帝陵を中心とした墳墓の歴史をみると、墓が果たした政治。社会的役割の大きさにあらためて気づかされる」と書き、墓は亡骸の安置場所であると同時に霊が現世と同じ生活を送れるように宮殿や邸宅を意識した墓室などを造ったとの趣旨を述べています。さぞかし巨大な地下宮殿が眠っているのではないかと想像しながらこの巨大な乾陵をあとにしました。アクセスですが西安からの日本語ガイド付きのツアーに参加しました(撮影2018727日)。

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