石室も墳丘も完存する前方後円墳
今回紹介するのは長野県飯田市にある後期古墳に位置づけられる墳長72.3mの前方後円墳、高岡1号墳です。見学可能な横穴石室を有しています。それにしても長野県は広大ですね。新潟県に接する北部の長野市、中部の松本市、そして愛知、静岡県に近い今回紹介する南部の飯田市。その飯田の地、伊那谷には5C後半の古墳時代中期から6C末の後期まで数多くの前方後円墳が造られています。現在も残っている前方後円墳だけでも22基(内4基は帆立貝形)もあります。前方後円墳がヤマト王権の許可なく造ることはできなかったことを考えれば伊那谷が王権にとり特別な地であったことを意味しています。
実際、古墳時代当時鉄と並んで政権にとり重要であった馬の生産が行われていたことが延喜式にも書き残されており(官営の牧の存在)、埋葬馬も出土しています(この辺りの記述は南信州新聞2002年1月1日の「古代の伊那谷」の馬によっています。当時飯田市教育委員会におられた小林正春さんの話をまとめたもの)。最も北にある今回の高岡1号墳を見るために飯田線の元善光寺駅からバス、徒歩、飯田線で南に下ったのですが、天竜川から一気に高台となる伊那の地がなぜ馬の生産が行われたのか不思議に思わざるを得ませんでした。その答えが前述の記事にありました。馬の生産には豊富な水が天竜川水系にあり、段丘上では馬は逃げにくかったからというのです。なるほどそういうことだったのかと思いました。
それにしてもこれまで見たことのない不思議な景色が続きます。段丘の眼下には天竜川の河川敷きが広がり、その向こうには山並みが南北に続きます。古墳の被葬者もこの景色を見たのだろうかと考えながら歩いていると、ヤマトの地とはどのようなルートで人や馬は行き来していたのか疑問が湧きました。古代道路の東山道の難所で知られた神坂峠(みさか峠)を越えて木曽に抜けたのでしょうか興味はつきません。
今回の高岡1号墳は残された22基のうちでも二番目の大きさを誇っています。説明板には墳丘の保存状態が良好でとありましたが確かに他の前方後円墳に比べると動画1、動画4でおわかりのように後期の前方後円墳ということがよくわかります。全国を歩いていると完存ないし完存に近い墳丘は決して多くはありません。その意味ではこの美しい墳丘は大変に貴重です。後円部に開口する横穴石室の入口には平石が扉石のように立っています。入室すると小ぶりの玄室が広がっていますが全体的には素朴な印象を持ちました。天井が低いためかもしれません。この空間を生かして養蚕施設として使われていた時期があるようで玄室左奥には、かなり大きな穴が開いています。びっくりしました。教育委員会のお話では通気口として用いられたそうです。石室のリサイクルということでしょうか。扉石的な平石も伊那谷の他の古墳を参考に元あったと思われる位置に設置しなおしたとのことでした(撮影2017年4月4日)。