美しい姿の大隅半島最古の前方後円墳
鹿児島県の二つの大きな半島、薩摩半島と大隅半島ですが、薩摩半島側(九州島の西側)には前方後円墳がないことは鬼塚1号墳(小浜崎古墳群)(古墳名をクリックすれば飛べます)を紹介したときに触れています。反対に東側の大隅半島には前方後円墳が密集しており、この塚崎古墳群には日本列島で最も南に造られた前方後円墳、塚崎51号墳が残されています。その数百メートル北側の木立の中に美しい墳丘を横たえているのが墳長56mの11号墳です。造られた当時葺石はなく埴輪も立てられていなかったそうですから動画が捉えた落ち葉に覆われた現在の姿は当時の面影を相当伝えているのではないでしょうか。
塚崎古墳群では前方後円墳が5基、円墳が39基が確認されていますが、いつ頃造られた古墳群なのでしょうか。古墳に眠る肝属(きもつき、肝付でも可)の王―塚崎古墳群の時代(肝属町歴史民象資料館)によれば、近年の発掘調査で得られた器台や土師器の形式などからして、以前考えられて中期よりも遥か以前に前方後円墳が造られ始め4C末までにその築造は終わったとみられています(権力の移動によって5Cになると北側の唐仁古墳群で前方後円墳が多数造られる)。塚崎11号墳は動画2でお分かりのように前方部が細く長い柄鏡形の前方後円墳であり典型的な前期古墳、それも古墳群のなかでははじめのほうに造られたと考えられているようです。地元では11号墳は大隅半島最古の前方後円墳という呼び方をされています。いつも感じることですが墳丘を踏みしめながら、1600年前に造られた古墳がこうして残されていることに感慨を覚えざるを得ません。なお埋葬施設等の情報はありません。
ところでなぜ南九州のしかも大隅半島に古墳時代前期に前方後円墳を含む古墳群が築かれたのでしょう。一つは大隅半島から日向灘を通り瀬戸内海に入り畿内に向かうという物流ルートが存在し、そのためには塚崎古墳群に眠る被葬者を含め地域の豪族たちと密接な関係を結ぶ必要があったのではないかという見方です。そうした見方を補強するかのように鹿児島大学博物館教授の橋本達也さんは奄美大島から種子島をとおり志布志湾に至る南東交通路の要所として肝属平野周辺が栄えたとしています。ヤマト王権にとり関係を密にしなければならなかった地域のようです。アクセスは鹿屋のバスセンターから三州自動車の路線バスで塚崎まで行き、歴史民俗資料館を訪ねて塚崎古墳群をまわる方法を聞くのが一番だと思います。事前に問い合わせをするのがベストです(撮影2018年2月22日)。
統合版への追加説明
意外に思われるかもしれませんが、鹿児島県の大隅半島は前方後円墳の宝庫です。薩摩半島はゼロです。この違いはいったいなんなのか。ヤマト王権と政治的に近く、交通の要所であったことと無関係ではなさそうです。横瀬古墳、唐人大塚古墳と約墳頂140mの前方後円墳2基も、近くですが、塚崎11号墳が築かれた時には、横瀬も唐人大塚も姿を見せていませんでした。4C中頃のと考えられているからです。その墳丘はキャプションでも触れていますが、柄鏡型とよばれる墳丘です。後円部に細長く幅の狭い棒のような墳丘が続きます。前期の前方後円墳でも、前方部のくびれ辺りから、普及が広がるバチ型をしているものもあります。典型的なのは塚崎11号墳よりも1世紀ほど前に造られたといわれる箸墓古墳です。
塚崎11号墳基本データ
所在地 鹿児島県肝付町
形状 前方後円墳
規模 墳長56m、後円部径22m 高さ3.5m、前方部幅12.5m 高さ2m
周濠なし、葺石なし
築造時期 4C央
出土品 なし(他の塚崎古墳群からはあり)
史跡指定 塚崎古墳群として国指定
特記事項 塚崎古墳群は従来中期古墳群とされてきたが90年代末からの継続調査の結果
前期古墳群と確認された
にほんブログ村