2基の磚槨(せんかく)式石室が見学できる貴重な方墳

 
 2021年最初の紹介はいささか季節外れの初夏の空が広がる石川県能登半島、能登島にある珍しい古墳です。 須曽蝦夷穴古墳は古墳時代の時期区分では終末期、それもかなり遅くの7C中頃以降に築かれたと考えられています。王墓に採用されていた大型前方後円墳の築造は6C後半の五条野丸山古墳(見瀬丸山古墳)(クリックすれば飛べます)で終わりを告げ、その後は大型の方墳や八角墳に変化したと考えられています。時代は既に飛鳥時代に入っていますが、どういうわけか古墳に関しては、この時期に造られたものは終末期古墳と呼ばれています。それらの「古墳」の多くは円墳ないし方墳ですが、その石室に大いに特徴がありこのブログでもだいぶ紹介した気がします。    
 たとえば大阪府羽曳野市の観音塚古墳(クリックすれば飛べます)は前室に切り石で造られた石槨の短辺が接合されている横口式石槨と呼ばれており、奈良県桜井市の花山西塚古墳(クリックすれば飛べます)も同様の横口式石槨ですが、石積みは須曽蝦夷穴古墳同様の小型の平石(こちらは地元の榛原石)を小口積みにした磚槨式です。一般的には時代が下るにつれ、石室の石組みは平滑された大型のものに変わっていきますが、磚槨式の石室はこれが同じ石室なのかと感じるほど、異なる印象を受けます。大陸、半島の墓の造りからの影響を受けていると一般的にいわれていますが、他の古墳でも副葬品などから中国、朝鮮半島との交流が密であった人物が葬られていると考えられている例は数多く、なぜ、特定の古墳だけ磚槨式の石室なのか、個人的には大変興味があります。 玄室の壁と天井の境(四隅)は三角状の持ち送り式が両石室で採用されていますが、やや窮屈な印象。天井をもう少し高くすればバランスがよかったのにと勝手ながら思いました。石組みに加え雄穴(おあな)石室と雌穴(めあな)石室が並んでおり、事前の計画どおりに造られたことは一目瞭然です。標高80mの開口部の先には七尾湾が広がります。周囲には古墳はなく単独墳であることを考えれば、特別にこの地に葬ることを許された人物の墓ということになります。七尾湾は律令制の時代になると能登の国の国津(国の港)が置かれ、それ以前から海運の中心地だったようです。海運、水運を率いる有力者は一体誰だったのでしょうか。アクセスは能登島交通バスで七尾駅から臨海公園行で約40分。須曽下車徒歩30分。バスは午前中だけでも3本はあります。案外便利です(撮影2019年6月20日)。PNG 須曽蝦夷穴古墳石室イメージ(YU用)
PNG 蝦夷穴古墳マップ
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