朱の残りのよさで断トツの石室
何度見ても、この残りの良さには唖然とします。ただ、不思議なのは塗られていないところが結構ある点ですね。キャプションにも書きましたが、天井近くは手つかずですし、玄室の玄門側は下も塗られていません。塗られているのは奥壁、側壁の下部、中部、それに石棺です。水銀朱は九州(産地不明)でも採れたようですが(よく知られているのは徳島県阿南市、奈良県宇陀市)、どこなのでしょうか。もともとアップした際のブログ(クリック)にも書きましたが、貴重なものだったために、節約したのではないかと考えました。いずれにせよ、この時期、どの古墳の石室にも朱が塗られているわけではなく、被葬者はたいそう高位の人物であったに違いありません。そのことは、未盗掘のまま発見された(昭和9年、1910年と昭和8年、1933年)甲冑、武具、馬具、方格規矩鏡等銅鏡、金銅製冠、勾玉等副葬品の豪華さからもわかります。残念ながらその大半は東京国立博物館が所蔵しています(調べた限りでは、国、県、市の重要文化財の指定は受けていないようです。それはともかく、朱がこれほど、よく残る石室はなかなかなく、たいそう見応えがあります。長さ35mほどの小型の前方後円墳に、これほど立派な石室があるとはびっくりですね(撮影2019年12月末)。
何度見ても、この残りの良さには唖然とします。ただ、不思議なのは塗られていないところが結構ある点ですね。キャプションにも書きましたが、天井近くは手つかずですし、玄室の玄門側は下も塗られていません。塗られているのは奥壁、側壁の下部、中部、それに石棺です。水銀朱は九州(産地不明)でも採れたようですが(よく知られているのは徳島県阿南市、奈良県宇陀市)、どこなのでしょうか。もともとアップした際のブログ(クリック)にも書きましたが、貴重なものだったために、節約したのではないかと考えました。いずれにせよ、この時期、どの古墳の石室にも朱が塗られているわけではなく、被葬者はたいそう高位の人物であったに違いありません。そのことは、未盗掘のまま発見された(昭和9年、1910年と昭和8年、1933年)甲冑、武具、馬具、方格規矩鏡等銅鏡、金銅製冠、勾玉等副葬品の豪華さからもわかります。残念ながらその大半は東京国立博物館が所蔵しています(調べた限りでは、国、県、市の重要文化財の指定は受けていないようです。それはともかく、朱がこれほど、よく残る石室はなかなかなく、たいそう見応えがあります。長さ35mほどの小型の前方後円墳に、これほど立派な石室があるとはびっくりですね(撮影2019年12月末)。