前方部を山側に向け「見られたくない」100m超の前方後円墳
JR久大本線の田主丸駅から約1時間。南側に広がる耳納山(みのうざん)の山々を見ながら歩いた甲斐がありました。標高75mほどまでの坂道を登ると果樹園の向こうに整備された古墳公園が見えてきました。普通は前方部、後円部が左右どちらかに広がる墳丘を目の前に広がるのですが、ちょっと違った印象です。削平跡を整形していない大きな塊のような後円部が眼前にひろがります。前方部はどこに・・・。ぐるっとまわると、ようやく前方部の先端が視野にはいりました。なるほど、前方部が山側を向いているので、筑後平野側からは後円部しか見えないのです。普通は見せることを目的に造るのが前方後円墳ですが、この古墳はそうではないようです。代わりに、西側に広がる造り出しと後円部が一体となった墳丘が筑後平野側からは目に入ります。墳長103mではなく、墳長70m(後円部径60m+造出し長さ12m)ほどの帆立貝形前方後円墳に見えます。敢えて大型であることを隠したかったのでしょうか。
この古墳が造られたのは、九州の有力豪族による継体朝に対する反乱ともいわれる磐井の乱のあとのことです。全国的にみても、地方に対する規制強化がいわれ、大型前方後円墳の築造も、関東地方を除けば終わりをつげつつある時期に重なっています。そういう時期に「目立たない」前方後円墳が造られたことに興味を覚えます。 埋葬施設はくびれに横穴石室が確認され、墳丘には埴輪はないものの、葺石は石垣積みと呼ばれるかなり頑丈で凝ったものだったようで、前方部の東側に葺石が復元されています。たまたま久留米市教育委員会文化財保護課に近くの大塚2号墳(クリックすれば飛べます)の開錠をお願いした関係で田主丸大塚古墳の説明もうかがうことができました。ラッキーでした。感謝。(撮影2019年12月19日)。
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