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なんでも実際に見てみないと気が済まない私。古代史初学者として3世紀中頃から7世紀初頭にかけて東北から九州まで造られた5200基もの古墳の内、墳丘が残り実際に墳頂まで登れるものを訪ねはじめました。2011年秋のことです。既に先輩方が古墳のブログやHPを立ち上げられて今でも大いに刺激を受けています。ただ、権力者がなぜこれほど大きな構築物を造ったのかに興味がある私には、残念なことに大半の画像が静止画であるためにそのスケール感が伝わってきませんでした。偶然、動画で撮ってみたら案外いける。そんな思いで撮りためた古墳動画を見て頂くことにしました。素人の撮影ですから、古墳マニアや専門家の方々からは厳しいご指摘はあるかと思います。ブログでは基本情報とともに一つの古墳に3-5本程度の動画(各1分以下)を用意しました。この素人の試みが古墳を具体的にイメージする一助となれば幸いです。

■古墳時代の時期区分
 このブログでは古墳時代を広瀬和雄さん(国立歴史民俗博物館名誉教授)が通説として紹介している古墳時代を前期(3C中頃から4C後半頃)、中期(4C末頃から5C後半頃)、後期(5C末頃から7C初め頃)、終末期(7C前半頃から8C初め頃)に区分して捉えています(前方後円墳の時代、岩波新書、2010年)。
■アップの順番
 前期⇒中期⇒後期(終末期)の古墳を一基ずつワンセットにして全国の古墳を網羅することを目指しています。三基の古墳には何ら有機的な関係はありません。一つの地域に集中して前期から終末期まで掘り下げて見るのが一般的ですが、敢えてそうしなかったのは古墳時代の前期、中期、後期に全国でどのような墳墓が築かれたかを知りたいと思ったからです。古墳の築造年代は専門家の間でも様々な意見があり実年代を確定することが如何に困難なことかは承知しています。そのような限界の下でも古墳を横断的にみると今まで見えてこなかったものが見えてきたような気がします。専門分野外の古墳時代に関心を持ちはじめて日も浅い者ならではの冒険です。
■ご覧になる方法
最新記事12件についてはそのまま下にスクロールすれば見れます。各都府県別古墳は右の一覧をクリックしてください。文中にも関連の古墳に直接飛べるようにリンクを貼ってあります。

カテゴリ: 京都府

 今回は京都府長岡京市の5C中頃の築造と考えられる中期古墳、恵解山古墳を紹介します。関西の方には馴染みのあるところでしょう。京都から東海道線で大阪に向かう途中、右手に見える山並みがぐっと迫ってくる山崎の近くです。山崎といえばサントリーの工場で有名ですね。この古墳時代中期は、それまで最初に紹介した箸墓古墳をはじめとする大型の前方後円墳の築造地が奈良盆地東南部から、応神天皇陵のある古市古墳群、仁徳天皇で有名な百舌鳥古墳群の位置する河内・和泉方面に移動した時期にあたるそうです。権力が移動するような政治的再編が行われたと考えられるわけですが、それは地方でも例外ではなく、「地方でも大型前方後円墳が出現しており、それまで小地域を治めた首長が、より大きな地域を従えるようになった」と専門家は述べています(恵解山古墳―乙訓最大の古墳― (長岡京市埋蔵文化センター、2014)。

 素人目には水運で重要な役割を果たしたはずの淀川流域を有力豪族が支配して当然という気がします。淀川そのものの重要性が増したのかもしれません。恵解山古墳の被葬者はそうした人物だったのでしょう。墳長は128m、三段築成で築かれた斜面には葺石が葺かれ西側造り出しには埴輪が取り囲んでいます。見事な復原古墳です。この古墳が特に知られるようになったのは、鉄製の刀剣、槍、弓矢など武器類700点余りが埋納された専用の埋納施設が発見されたことでした。現地でも施設が復原され、長岡京市埋蔵文化センターでは発掘された武器類を見ることができます。動画2では前方部と後円部の境にある武器埋納施設が見えます。

 それにしても、これほどの武器類がなぜ埋葬されたのか個人的には不思議な感じがしています。鉄素材は輸入していたほどの貴重品のはずですし、倭は当時、朝鮮半島に進出し高句麗と戦っていた頃で軍事的余力はなかった気がするのですが。いずれにせよ多くのことを考えさせてくれる古墳です。阪急西山天王山駅東改札口からサントリーの山崎工場の正門前をとおりすぎ、一つ目の恵解山口の信号を左折すると右手に見えます。駅西側にある埋蔵文化財センターはだいぶ離れたところにあり探すのが大変でした。なお動画1の最初のキャプションに後方部から後円部とあるのは前方部から後円部の誤りです(撮影日 動画1と2 2015117日、3以降2017216日)。

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恵解山古墳基本データ 所在地 京都府長岡京市勝竜寺・久貝 形式 前方後円墳 規模 墳長 128m 後円部径78m 高さ8m 前方部幅78m 高さ6.5m 築造時期 5C中頃 史跡指定 国指定 出土品  鉄製武器類、円筒埴輪、形象埴輪 特記事項 大量の武器が埋納されている施設が前方部にあることは極めて稀。

今回は石室が貴重な京都府向日市にある物集女(もずめ)車塚古墳です。京都の太秦(いずれアップする蛇塚古墳がある)から南に8kmほど下った物集女街道沿いにある5C半ばに築造された墳長46mの前方後円墳です。中規模の古墳から想像した石室とは違って動画23でご覧頂ける見事な横穴式石室と石棺でした。天井の大きな板石の一部は大王の石棺で用いられた竜山石が使われていることからもこの被葬者の地位の高さが想像できます。
   説明によれば6C当時、この地域は弟国(おとくに、現在は乙訓と書く)と呼ばれ、継体天皇が弟国宮を築いた所だったことから、被葬者は継体天皇に仕えた人物であったのではないかということでした。継体天皇の真陵といわれる高槻市の今城塚古墳(いずれアップします)の石棺の一つは竜山石が用いられていたことを思い出しました。

アクセスはJR東向日駅から物集女街道に出て北に上がったところにあります。徒歩で駅から15分ほどです。一度目は石室を見れなかった冬に訪れ、今回は、一般公開に合わせての再訪です。十分その価値はありました。公開スケジュールは向日市のHPで確認できます。

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  冬枯れという言葉にぴったりの古墳でした。405号線から先の見通しの悪い73号線に曲がり、その異様ともいえるその姿が目に飛び込んできたとき最初に浮かんだ言葉がそれでした。周濠がすっきりしているだけに、湖に浮かんだ船のような感じもします。おそらく季節よって姿を大きく変える古墳ではないでしょうか。
 
  専門家の解説などを読みますと「動画撮影の位置」に簡略して描きましたようにくびれ部分が東西で異なり非対称になっています(yahooの空撮画像でも確認できます)。これは中期古墳に多くみられる特徴だそうで、千歳車塚古墳のように後期古墳に位置づけられる古墳としては珍しいそうです。後期の代表的古墳の一つ継体天皇の真陵といわれる今城塚古墳や、その影響下にあったとされる地方豪族の墳丘とは違うというわけです。したがってヤマト王権とは距離を置いた地方豪族がその被葬者ではなかったかともいわれています。なにか、そうした説明とぴったりの古墳の姿でした。


  ただ、築造時期は現地の解説版では5C代、中期とされています。その後、出土した円筒埴輪の研究によって、6C前半と考えられるようになったようです。完存しているように思える墳丘ですが、墳丘の裾部分は削平されていることが明らかになっています。


  アクセスはJR嵯峨野線亀岡駅からふるさとバスで川東小下車、徒歩10分。バスは本数が少ないので確認してからおでかけください。

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所在地 京都府亀岡市千歳町千歳

形状 前方後円墳

規模 墳長82m、後円部径46m 高さ7.5m、前方部幅49m 高さ6.8m

三段築成

築造時期 6C前半

出土品 円筒埴輪

史跡指定 国指定

特記事項 被葬者は、武烈天皇の逝去後、継体天皇となった男大迹王(オホドノオウ)と並び皇位継承者だった倭彦王(ヤマトヒコオウキミ)とも伝えられる。



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  前期古墳にまた戻ってきました。しかも弥生時代から古墳時代に入って間もなくの3C前半の築造と考えられる京都府城陽市にある小さな前方後方型の芝が原古墳です。前方部が発掘調査の前に既に削平されていたそうですが、専門家は前方部は開いた短いものだと推定しています。土砂降りの雨が降り注ぐ小さな古墳はなんともいえぬ佇まいをみせていました。後方部にあった木棺の埋葬施設からは国の重要文化財に指定された銅釧などが出土しています。詳しくは古墳データをご覧ください。築造時期推定の理由等も書かれています。

 標高50mほどの丘陵にある芝が原古墳は、周囲からは見上げる位置にあります。また、いずれご紹介する大型の前方後円墳、久津川車塚古墳を望むことができます。もっとも、芝が原古墳よりも200年ほど後の築造ですから、芝が原古墳の被葬者の関係者が見たわけではありません。南西に500mほど下ったところには芝が原古墳群(10基が保存)がありこちらは5C前半から6C前半のものだそうです。古墳が集中している久津川には奈良時代には官衙(かんが、役所)が置かれていますから、古代から政治的にも重要な地であったことは間違いありません。

 アクセスは京都から近鉄久津川駅下車。徒歩5分です。

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芝が原古墳データ

所在地 京都府城陽市寺田大谷

形状 前方後方形(削平された前方部は短いと推定)

規模 後方部 東西21m、南北23m

築造時期 3C前半

出土品 径12㎝の銅釧(貝輪を模した青銅製の腕輪、全国的にも少数)、
12㎝の四獣鏡、庄内式土器(弥生時代から古墳時代へ転換する時期に製作)等(城陽市教育委員会作成の史跡 芝が原古墳の説明)

史跡指定 国指定 

特記事項 前述の出土品の多くは、国の重要文化財として城陽市歴史民俗資料館で展示。


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  今回は京都府の福知山盆地の丘陵先端部にある巨大円墳、私市(きさいち)丸山古墳を紹介します。天気に恵まれなかったのが残念でしたが、その壮大な規模の一部でも味わって頂ければと思います。コミュニティーバスで通ってきた道から見上げる以外に、その全体像をつかむのは難しそうです。近くによると動画2のように古墳が壁のように立ちはだかっています。丘陵の上に立っているためにデータでみるよりもよほど大きい印象を受けました。

 他方、私市円山よりも一回り大きな円墳が710日にアップした兵庫県朝来市の茶すり山古墳です。但馬と丹後、地理的見ても近く、縄文時代から活発な交流があったようで、葬送儀礼も共通のものを採用したことが明らかになっています。とても興味深い二つの古墳の比較があります。ご興味のある方は京都埋蔵文化財センターのHPからどうぞ(杉原和雄、丹波・私市円山古墳と但馬・茶すり山古墳京都府埋蔵文化財論集、第6集、2010)。

 動画撮影位置からもお分かりのように舞鶴若狭自動車道が古墳の造り出しの下をくぐっています。建設時に関係者の尽力で計画が変更され古墳の保存と高速道路の必要性を両立させたのです。大変、喜ばしいことではないでしょうか。

 アクセスはJR福知山線の綾部駅からコミュニティーバス、綾バスで湯殿下車、徒歩で10分。一時間に一本ほど。ただ、公園内は急な山道なのでご注意を(撮影日2015年11月26日)。
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私市円山古墳 基本データ

所在地 京都府綾部市私市町円山

形状 円墳

規模 径70m 高さ10m、平地との高低差60m、墳頂の標高94m

3段築成

築造時期 5C

出土品 短甲、衝角付冑、鉄刀等の武器・武具類、農工具、鏡、玉類等

史跡指定 国指定

特記事項 幅18m 長さ10mの造り出しあり

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今回の前期古墳は京都府向日市(むこう)の元稲荷古墳です。京都というと真っ先に思い浮かべるのは寺社仏閣ですが、古墳踏査をはじめて以来、古墳の宝庫でもあることがよくわかりました。日本海側にはいずれ紹介する神明山古墳などの巨大古墳や、長岡京市の中期古墳恵解山(いげのやま)(62日アップ)古墳、さらには後期古墳の物集女車塚古墳(826日)もあります。

東海道新幹線が京都駅を離れ新大阪方面へ下りはじめると車窓の右手に山並みが広がります。古代から乙訓(おとくに)と呼ばれてきた地域です。向日市と長岡京市が含まれるこの地域の向日丘陵に今回の元稲荷古墳が、寺戸大塚古墳、五塚原古墳と並び位置しています。前方後方、前方後円という違いはあれ、100mを少し下回る墳長という点でも共通しています。それらの墳墓は有力豪族、しかも極めて権力のある豪族が一定期間、乙訓で絶大な影響力を発揮していたと想像することができます。三つの古墳は元稲荷、寺戸大塚、五塚原の順で築造されたと考えられています(向日丘陵の前期古墳、向日市文化資料館、2004)。考古学者の都出比呂志さんは、古代国家はいつ成立したか(岩波新書、2011)のなかで、古墳時代の中央権力と地方首長系譜の変動について、乙訓地域を具体例に詳細に論じています。是非、関心のある方はお読みになればと思います。

肝心の元稲荷古墳は墳長94mの前方後方墳で繰り返し発掘調査が行われその全貌が明らかになっています。動画からも前方部先端が後方部よりもやや大きく、ハの形であることがわかりますが、最近の調査では、墳丘の形態と構造を重視すれば、前方部がバチ型のより古式の前方後円墳(五塚原古墳)よりは新しいとの見方も示されています(元稲荷古墳第五次調査、現地説明会資料、2009221日、Web上でアクセス可能)。

向日市役所正面の競輪場先の向日神社境内にある古墳は後方部墳頂に1950年代に設置された給水塔が全体を占領しているといっても過言ではありません。何とも異様な光景で残念の一言です(これは、岡山県倉敷市の盾築墳丘墓と同様です)。聞けば既に使われていないとのこと。取り外せないものかと考えてしまいます。動画では極力避けて撮影しましたが、1をよく見ると給水塔をみることができます。向日神社や関係者の皆さんの努力で墳丘がよく残されているだけにそう思います。皆さんはどうお考えでしょうか。

アクセスはJR向日町から徒歩で15分、あるいは阪急京都線東向日からはより近く徒歩で10分です。市役所を目指し裏手にある文化資料館で古墳マップを入手して歩かれるとよいと思います。動画4ではお見苦しいところがあります。そのまま残しました(撮影日2015年11月26日)。

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元稲荷古墳基本データ

所在地 京都府向日市向日町

形状 前方後方墳

規模 墳長94m、後方部52×52 高さ7m、前方部幅46m 高さ3m

築造時期 3C

出土品 銅鏃、刀、剣、槍、矛等鉄製武器、斧、錐等鉄製工具、土師器壺、埴輪

史跡指定 国指定

特記事項 後方部埋葬施設 竪穴式石室 石室全長5.6m、北端幅1.3m 南端の幅1m 高さ1.9m、天井石11枚、石室高さが一般の前期古墳よりも高い(向日丘陵の前期古墳、向日市文化資料館、2004

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今回紹介する後期古墳は京都市の嵐電天神川駅近くにある天塚古墳です。嵯峨野、太秦の地域に当たります。天塚古墳は巨大な石室が野ざらしになっていることで有名な蛇塚古墳(いずれアップ)から1kmほど東に位置する墳長71mの前方後円墳です。雑木が林立する墳丘全体は伯清稲荷大明神を祀っている神社が所有しており動画でおわかりのように鳥居がみえます。墳丘テラスに沿って作られている遊歩道を歩くと前方後円墳であることがわかりますし、前方部裾が広がっていることにも気が付きます。ただ、木立に遮られて墳頂に登っても前方部まで見通しがきかないのが残念です。

天塚古墳の特徴は二つの石室の存在です。一つ目は西側くびれ部にある片袖式の全長4.7mの石室です。両袖式、片袖式、無袖と石室の形態は色々あるそうですが、両袖式とは羨道部から見て左右両方に玄室端が広がっているものを、片袖式は左右どちらかが、無袖式は羨道と玄室が同じ幅でつながっているものをいうそうです。動画3の表紙画面からも片袖式であることが確認できます。是非、ご覧ください。二つ目は後円部西側に開口しており神社の社務所的な建物の中から入室します。全長10mで無袖式。崩壊を防ぐための石柱が何本もありお稲荷さんがまつられていることもあって見通しはよいとは言えません。二つの石室ともに巨大な自然石の乱積みです。動画3、4の羨道側から入口をみるとその様子がよくわかります。

 今回は二度目の訪問ですが、前回は入れた後円部の二つ目の石室がある社務所には鍵がかかり閉まっていました。折角来たのにこれは残念と思いながら所有者の神社に連絡をしようとスマホで検索をかけている時に、運よく管理を任されているお爺ちゃんが戻ってきました。聞けば石室内の石壁が墳丘上の古木の根でひびが入り危ないので普段は閉めているとのこと。事故でも起きたら大変といわれました。今回は私がいるのでどうぞということで見せて頂きました。確かにあちらこちらにひび割れがあり、地震が起きたら崩れ落ちそうです。そのようなわけで、これから訪れる方は運がよければ見学できるということになりそうです。

 このブログでは滅多に触れることのない被葬者ですが、冒頭に紹介した蛇塚古墳とともに5C後半に大陸から渡来した秦氏のものではないかと言うのが通説のようです。

 アクセスは嵐電天神川駅から南に徒歩で78分降ったところにある千石荘公園を目指してください(右京区太秦野元町)。そこから墳丘にあるお稲荷さんの木立が見えます。どこが入口かは現地でお聞きになるほうが早いと思います。結構わかりにくいので・・・(撮影2015年12月10日)。

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天塚古墳基本データ

所在地 京都市右京区太秦松本町

形状 前方後円墳

規模 墳長71m、後円部約40m 高さ8m、前方部幅約50m 高さ8.5

築造時期 6C前半

出土品 馬具、銅鏡、勾玉等

史跡指定 国指定

特記事項 埋葬施設 2基の横穴式石室あり 後円部石室 全長10m、幅2m、高さ約2m

くびれ部石室 全長7.7m、玄室長4.7m 幅1.7m、高さ2m

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つい最近紹介した二つの石室を持つ後期古墳の天塚古墳(129)は京都市太秦にありましたが、今回の前期古墳、天皇の杜古墳も桂川を挟んで3kmほど南に下ったところに位置します。当時桂川右岸を支配した豪族の墓ではないかといわれています。今回の古墳を含めアップ済みの中期の恵解山(201562日)、後期の物集女車塚(826日)、前期の元稲荷(127日)と京都盆地の西に南北に並ぶ西山地域と呼ばれるところに集中して築かれています。一般的なイメージとは違いなぜこれほど京都には古墳が多いのかと思っていたところ、「西山地域には、4-5世紀頃に大陸から渡来した人々(秦氏)が多数居住していました。その証拠である古墳は。京都の中でも飛び抜けて数が多く規模も大きいのです。平安遷都されるまでの京都では、西山地域が最も栄えていたことがわかります」(西京区の古墳と遺跡、京都市)という解説がありました。なるほどそういうことだったのかと改めて思います。

天皇の杜古墳は西山地域の橿原地区では最大で前期後期に造られています。元稲荷古墳など向日丘陵に築かれた前期古墳に続くものとされています。動画からおわかりのように墳丘は整備されたこともありよく保存されていますが、古来、平安時代の文徳天皇陵として親しまれてきたこととも関係があるのかもしれません。墳長83mの墳丘は後円部の径にははるかに満たない前方部端の幅で、柄鏡型の柄の部分を短くした感じです。夏は草が生い茂り墳丘はよくわかりません。

 アクセスは阪急嵐山線の桂駅西口を直進し9号線にぶつかるまで直進し左折して200mほど歩くと大きな動物病院の先に古墳が見えます。徒歩25分(撮影2015年12月10日)。




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天皇の杜古墳基本データ

所在地 京都府京都市西京区御陵塚ノ越町

形状 前方後円墳

規模 墳長83m、後円部径50.5m 高さ7.2m、前方部幅33.5m 高さ4.8m

築造時期 4C

出土品 円筒埴輪、朝顔形埴輪

史跡指定 国指定

特記事項 なし




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今回紹介する中期古墳は京都府京田辺市にある大住車塚古墳です。100mほどの距離に、南塚古墳という同規模の古墳があり、二つの前方後方墳が並ぶ姿は全国的にも珍しいといわれています。両古墳のある山城地域にある京田辺市は地図を広げてみると京都、奈良、大阪方面へのほぼ中心に位置しています。古代から重要な交通の要所であったことがわかります。動画でみるように車塚古墳の墳丘は雑木林に遮られて冬場しか十分に観察できなさそうです。それでも訪れた晩秋でも後方部に細い前方部がついた墳丘はよくわかりました。もとは水が張られていた周濠あとはきれいに残されています。南塚古墳は動画でもわかるように周濠の一部が池として残されています。残念なことに車塚古墳より墳丘は削平され、びっしりと雑木林が繁茂しています。

大住駅から歩いてくると目に飛び込んでくる二つの古墳の姿は印象的でした。動画3の最後にその光景を載せています。車塚古墳は201619日に墳丘部の下草が燃えてニュースになりました。墳丘が損壊していなければよいのですが・・・。

アクセスはJR片町線大住駅から徒歩20分です。さほど複雑ではないのですが、京田辺市の観光案内所でよく聞いたほうがよいと思います。道路には歩道がなくひやひやしましたことを付け加えておきます(撮影2015年11月24日)。



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