墳丘と現代が見事に調和した古墳群
このブログでも何度か紹介してきた一ッ瀬川の西側2㎞ほどのところに造られた西都原古墳群(たとえば西都原古墳群(1)(クリック)今回の祇園原古墳群(新田原古墳群の一つ)は反対に一ッ瀬川東側1㎞ほどのところに広がります。西都原古墳群の多くは古墳時代前期から中期にかけてのものですが、祇園塚古墳群は中期から後期のものがほとんどのようです。つまりこの地域を支配する豪族たちの墓域が西都原古墳群から祇園原古墳群を含む新田原古墳群に移動したということになります。
宮崎市内から終点の西都バスセンターまで行き、歩くには時間的ロスが多く今回はタクシーを利用しました。国の特別史跡西都原古墳群とは違って、こちらのほうは近くまでバスが運行していないからです。新富町の総合交流センター「きらり」の方の説明では、古墳群の最も北側にある祇園原神社でタクシーを降り、南側に散らばる古墳の数々を見るのがよいとのこと。大正解でした。今回はその第1回目、67号墳、68号墳、それに大久保塚と呼ばれている92号墳です。いずれも100mには満たないものの中型から大型の大きさの前方後円墳です。 感心したのは古墳と住宅が調和して存在していたことでした。開発規制があるのかはわかりませんが住宅が古墳を取り囲むように迫っているところも決して少なくありません。同じ宮崎県にもあります。ところが、ご覧になっておわかりのように、ここでは古墳がメインで、現代の人々の生活は一歩引いているように見えます。おそらく地域の方々にとり、古墳の墳丘は借景のようなものなのかと思いました。筆者のそうした印象は祇園原古墳群を南下するにつれますます強くなりました(撮影2020年11月17日)。
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宮崎市内から終点の西都バスセンターまで行き、歩くには時間的ロスが多く今回はタクシーを利用しました。国の特別史跡西都原古墳群とは違って、こちらのほうは近くまでバスが運行していないからです。新富町の総合交流センター「きらり」の方の説明では、古墳群の最も北側にある祇園原神社でタクシーを降り、南側に散らばる古墳の数々を見るのがよいとのこと。大正解でした。今回はその第1回目、67号墳、68号墳、それに大久保塚と呼ばれている92号墳です。いずれも100mには満たないものの中型から大型の大きさの前方後円墳です。 感心したのは古墳と住宅が調和して存在していたことでした。開発規制があるのかはわかりませんが住宅が古墳を取り囲むように迫っているところも決して少なくありません。同じ宮崎県にもあります。ところが、ご覧になっておわかりのように、ここでは古墳がメインで、現代の人々の生活は一歩引いているように見えます。おそらく地域の方々にとり、古墳の墳丘は借景のようなものなのかと思いました。筆者のそうした印象は祇園原古墳群を南下するにつれますます強くなりました(撮影2020年11月17日)。
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