閉塞石も扉石も残る貴重な古墳
 蟻無山1号墳(クリック)を後にして日本一小さな歴史資料館という有年考古館へ。赤穂市には赤穂義士に力点を置いた歴史博物館とは別に考古資料に特化した資料館があるようなのです。訪れた木虎古墳群や塚山古墳群のことを詳しく知ることができると大いに期待したのですが縄文、弥生時代がメインで空振りでした。気を取り直して野田2号墳へと急ぎます。既に時刻は15時近く。17時10分には有年駅に戻らねばならないのです。ところが動画キャプションにも書いたように、千種川沿いを歩けば40分ほどで到着の予定だったのですが、楢原の集落から古墳にのぼる道がわからず市役所の方に電話したりと結局、1時間ほどかかって到着。ただ、苦労した甲斐はありました。  
 現代の霊園のはじに見つけた古墳は、墳丘こそ形状不明と記されているほど封土は流れているものの、石室はしっかり残っていました。開口部にはあれなんだろうと思った閉塞のための石材が進入禁止のように立ちはだかっています。ただ、跨ぐことができるので、さらに上部の石材は消失しているのでしょう。この閉塞石というと開口部にあるような気がしますが、この古墳では羨道の途中にあります。どうりで側壁が閉塞石より手前まで続いているわけです(赤穂市HPの説明)。  4.8m近くもある羨道(幅は1.5m弱、高さ2m強)の玄室寄りは完存していて、左右の袖石(玄門)の向こうに玄室が見えます。お分かりのように、玄門の中ほどに部厚い石材が倒れかかっています。天井石でも落下したのかなあと思ったのですが、これは扉石で玄門をほとんど閉鎖できるサイズとのことです(HP説明)。見た感じでは、塞ぐには小さすぎるような気がするのですが・・・。 玄室床面には中ぐらいの平石が敷かれていて、長さ3.1m強、幅1.8m弱、高さ2.5m。羨道よりもはるかに大きいという印象はありません。玄門上のまぐさ石がそれほど大きくなく、袖石が細く薄い石材なことも、そう感じさせた一因なのでしょうか。奥壁から開口部に向けて歩くと、玄室に比して羨道の石材の積み方の精緻さが印象に残りました。とはいえ須恵器、耳環等出土遺物から7C前半の築造と考えられており、時は飛鳥時代(ややこしいですが古墳時代終末期)。各地で仏教寺院の建立も進んでいたことを考えれば、石材の加工度などは今一つということでしょうか。  感慨にふけっているわけにもいかず、被葬者も見たはずの千種川をただひたすらジョギングのペースで有年駅に急ぎました(撮影2020年2月3日)。

PNG 野田2号墳 所在地