奥壁の鮮やかな朱が印象的な石棺式石室
 朝酌小学校校庭古墳(クリック)を後にして、近くの朝酌岩屋古墳に向かいました。目の前には中海と宍道湖を東西に結ぶ大井川が流れています。古墳時代もこのような景色だったのだろうなと思いながら先を急ぎます。公民館で頂戴した「水と風土記の里 朝酌」というパンフレットの裏の地図を頼りに、さほど迷うこともなく、動画冒頭の表示板につきました。早朝だったので申し訳ないなと思いながら、個人のお宅なのでご挨拶。とても感じのよい奥様が、どうぞどうぞごゆっくりとのこと。ちょうど、お宅の裏側に下部に石積みのある墳丘があり、石室が開口しているのがわかりました。小学校校庭古墳が、素晴らしかったとはいえ、墳丘の割に小さい玄室だったので、期待と不安が交錯します。開口部が羨道のはじまりと考えれば、ずいぶんと大きそうな石室です。その開口部、一段低いところからはじまっていたせいでしょうか、入室後、不覚にもカメラが斜めに。早く気づけば、撮り直しているはずですが、正面に見える奥壁の朱に気をとられていたのか、この不完全な動画しかないのが残念です。 石室に戻ります。石室を設計した工人は、まさか後世、このような形で見学に訪れる人がいるとは考えもしなかったでしょう。それだけに「見学者」のことなど考えているはずもなく、羨道の幅は狭く、天井も低いのです。他方、それだからこそ、玄門の先に、左右に広がる石棺式石室の朱が残る奥壁は、「壁画をみるよう」と形容したほど視覚効果が絶大でした。それとも関連しますが、玄室と羨道の間は額縁状になっていて、下をみると梱石が置いてあります。見事としかいいようがありません。他方、予想が外れたのは玄室天井が家形ではなく、表面加工した巨大な一枚の板石だったことです。 それにしてもこの朝酌の地に、このような特徴ある石室を持つ古墳が複数造られたのか不思議です。
 周辺を見渡しても、特に石棺式石室は朝酌に集中するらしく、その理由は部族間の緊密な政治的関係を保つためであったと考えられているようです(松江東工業団地内発掘調査報告書、1990)。8C初めに書かれた出雲風土記には湧き水と稲作の地として朝酌が描かれており、前述の古墳以外にも多数の古墳が造られていることから、古代においては特別な地であったことがわかります。「朝酌は宍道湖から中海に流れる大橋川に接し、北側には高山・和久羅山、さらには遠く島根半島の山脈をのぞんでいる」「朝酌は当時行政の中心であった出雲国庁と熊野大社から島根半島に至る南北のルート(官道)が矢田の渡しを経て通っていた。南北のルートと東西に流れる川(大橋川)が交わる地点が朝酌であった」(前述パンフ)。地政学的なこの地の重要性は、アップしたマップからもわかります(撮影2020年10月末)。PNG 朝酌岩屋古墳石室イメージ図 21年11月3日作成
PNG 朝酌の地政学的位置
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