山頂に築かれた帆立貝型前方後円墳


 山陽本線有年駅近くには古墳時代後期の群集墳がいくつもあります。特に千種川の北側の山麓には木虎谷古墳群、惣計谷古墳群、塚山古墳群など、横穴石室をもつ円墳が多数築かれてきました。関心のある方はたとえば石棚付きの大型石室木虎谷2号墳(クリック)、祇園型とよばれる専門的には特殊な構造の塚山6号墳(クリック)などお勧めです。このように書くと、後期の時代になり、この地域が流通ルートの拠点となり、それを仕切っていた豪族の墓が多数築かれたと思われるかもしれませんがそうではありません。それ以前、つまり古墳時代前期から中期においても相生市(赤穂市の東隣り)、赤穂市(有年地区)、上郡町(赤穂市の北側)を結ぶ流通ルートが存在していました(この辺りの記述は蟻無山古墳群現地説明会資料2011年4月23日を参考)。今回の蟻無山古墳が築かれているところはマップでもおわかりのように、千種川沿いの山側に位置する上郡町と海側の有年地区を結ぶルート(物の流れだけでなく、人の流れ、情報の流れ)の結節点だったようです。  
 木虎谷2号墳の見学後、明源寺裏手にある蟻無山に急ぎました。あとで調べると標高はたった71mほどということなのですが、ほとんど一本道が山頂まで続くので急ぐと結構息が切れます。とりわけ落葉が整備された登山路を覆っているので足がとられます。チャレンジされる方はお気をつけください。それにしても不思議な名称ですね。そう思ったところ、赤穂市HPに概要次のようなことが書かれていました。「山の山頂に大きなお墓を作るために河原石(古墳の葺石)を運ぶことになった。あるとき、石を運ばされていた人が、足元の蟻を踏まないように避けたところ、転んでしまい、その人はひどい仕打ちを受けたという。それを見かねた蟻たちは、作業の邪魔にならないようにと、この山から一匹もいなくなった。そのため、「蟻無山」と呼ぶようになったという。そういうことでしたか。  肝心の古墳ですが、地山を削って短い前方部と造出しを伴う長さ52mの帆立貝形前方後円墳です。上り切って右手が短い前方部、奥に小さな造り出しがあるはずと見渡してみましたが、2段築成のテラス(平坦面)との区別がつかず、よくわかりませんでした。ただ、単なる山ではないことは、テラスがはっきりとしているので容易にわかります。さきほど触れた流通ルートの千種川が古墳の頂上からよく見え、被葬者がその支配権を握っていたことがよくわかります(撮影2020年2月3日)。 PNG蟻無山古墳 所在地

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