この石工(いしく)の技術力にも驚かされます  
 上州の空っ風とはこういうことを言うのかと思いながら白石稲荷山古墳(リニューアル版)(クリック)から喜蔵塚古墳を目指しました。暮れとあって県道137号はひっきりなしに車が行き交い、北寄りの風が土ぼこりをあげて行く手を遮ります。1㎞ほどですが、ずいぶんと長く感じました。  肝心の古墳ですが、とても清々しい気持ちになりました。田村墓と呼ばれてきたように、個人のお宅の敷地内にあって、保存されてきた古墳です。google mapにも出てくるぐらいですから、訪ねる人も少なくありません。当日、誤って隣家の方に、古墳見学のお声がけをしたところ、お隣さんなんですよねと言いながら、所有者のお宅に案内してくださいました。耳の遠いおばあちゃんが、どうぞごゆっくり、古墳はそこにありますからと敷地の端の墳丘らしき土盛をステッキで指してくれました。  データをみると一辺20m高さ4mほどの方墳とありますが円墳という説もあるようです。羨道前の開口部をみると、これはひょっとして最近補強されたものではないかと疑ったほど、天井の板石が、これこそ板石といった感じで置かれています(藤岡市文化財担当の方によれば、石と石の間の充填剤以外はオリジナルとのことでした)。高さがあるので楽々入室。目が慣れてくるとヘッドランプの先には、額縁状の囲みが、そしてその先には奥壁がみえました。石材は凝灰岩だそうですが、きれいに加工されています。少々残念なのは石材と石材の間に充填剤が埋め込まれていることです。使用されている石材は花崗岩、そしてスケールも一回り以上異なりますが、大佐山白石塚古墳(クリック)と共通しているところがあります。  長く見えた羨道は約4m、幅は1.3m、高さは1.6mです。玄室と羨道の境、玄門の床には梱石が置かれ、控え目に立つ袖石から先が長さ2.5m、幅1.5m、高さ1.8mの玄室です。玄室幅のほうが羨道幅より大きいので、両袖式ということになります。奥壁は大きな鏡石の上に横長の石材を積んでいますが、見事です。7C後半の築造と推定されていますから、飛鳥村の岩屋山古墳(クリック)よりも同じか、後に築かれたことになります。古墳時代が過ぎ半世紀近く権力を古い続けた蘇我入鹿が中大兄皇子らによって暗殺された乙巳の変の頃ということになります。中央が政変のさなかにあって、喜蔵塚古墳の被葬者をはじめ東国の権力者はどのようなおもいだったのでしょうか。アクセスは白石稲荷山古墳をご覧ください(撮影2019年12月27日)。
PNG 喜蔵塚古墳所在地 21年10月7日作成

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