手賀沼周辺に築かれた2基の小型前方後円墳
現在の千葉県、その半分ほどを占める房総半島。その房総半島の北部と茨城県の南部(関東平野東部)の古墳時代の様相は、沼地、湿地帯が随所にみられたようです。現在の霞ケ浦の東側には香取海(かとりのうみ)とよばれる内海が広がり、水運が盛んだったと考えられています。今回の二つの古墳の南側に広がる手賀沼も香取海の名残りです。 残念ながら開発の波にのまれ、高野山古墳群の8基の大半は消滅し、古墳群中唯一の前方後円墳である(墳長36m)1号墳の石室はからくも我孫子市立我孫子中学校校庭(入口脇)に移築復元されています。動画後半にあるように、竪穴石室を紹介する機会は滅多にないのですが、なかなかよくできた移築復元です。こぶりですが、片岩の割石を積み上げていてなかなか見応えがあります。ただ、長さは2mほどしかなく、幅、深さもさほど大きくないにもかかわらず人骨7体が確認されたというのは驚きです。しかも、この石室に加え、1号墳には3基の石棺があったそうです。3体の人骨が確認されているそうです(説明板)。前方後円墳をはじめ円墳等その他の古墳でも、1基につき1被葬者というわけではありませんが、これほど数多いとびっくりします。築造時期は6C後半と考えられています(説明板)。 最初に紹介しているのは日立精機2号墳です。我孫子駅の北側真裏にあった日立精機の工場敷地内にこの前方後円墳が位置し、工場撤退後、団地が建設される際に、その名を残し、団地一角に公園として整備されたとのことです。どおりで手入れが行き届いていて、日立精機、そのあとの団地の皆さんの努力がよく表れています。 墳長30mの前方後円墳は1965年に調査が行われ、くびれに横穴石室があったことが確認されています(現在芝で囲っている箇所)。長さ2.25m幅1.6mだそうで、盗掘のために遺物はなく、風化も激しいことから埋め戻されたとのことです(説明板)。ずいぶんと削平されていますが、前方部から後円部に歩くとずん胴のその姿がよく残っています(墳丘横にも模型があります)。前方部幅が21mと後円部径よりも3m大きいのです。既に畿内では前方後円墳の築造時期は終わり、東国でも、その最後の段階を迎えていた7C前半に築かれたと考えられています(撮影2016年2月18日)。
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