横穴石室の天井石が露出する大型前方後円墳


 今回、墳長122mの前方後円墳、三条塚古墳をアップするにあたって、内裏塚古墳群の大型前方後円墳を地図に落としてみて、古墳時代中期の5C央から後期の終わりごろ(6C後半から末)、それも後期に集中する傾向に驚かされました(下図参照)。何度も書いたように、畿内では大王墓としては6C後半の五条野(見瀬)丸山古墳が最後で、全国的にも前方後円墳自身、急速に規模を縮小させていきます。その例外が東国で、内裏塚古墳群のように墳長100mクラスのものを次から次へと築いていくところがいくつもあります。 東国は王権の支配が十分に及ばなかったからなのか、あるいは敢えて王権が特別に大型の前方後円墳の築造を許したのかまだよくわからないところがあります。ただ、その後、しばらくして(およそ30年ほど)、東国でも前方後円墳は突如終わりを告げ、この内裏塚古墳群でも見られるように、それまでであれば前方後円墳だった人物がかなり大型の方墳(一辺40mの割見塚古墳、同38mの亀塚古墳)に葬られるようになること、後期後半の大型前方後円墳の副葬品が金銅製の馬具を含め(思い出すのは、内裏塚古墳群ではありませんが、金の鈴が出土した木更津市の墳長133mの前方後円墳金鈴塚古墳(クリック)が典型)、いずれも王権とのつながりを示す豪華なものだということなどを考えると、房総の地は王権にとり特別な存在であったと考えざるを得ません。  この富津市には富津岬があり内裏塚古墳群へは至近の距離です。古来、日本武尊の東征伝説にも登場する富津。三浦半島の先端、走水から富津への海上ルートを支配していた豪族達が内裏塚古墳群の被葬者なのでしょうか。  さて、今回の九条塚古墳は墳長122mの前方後円墳ですが飯野藩の藩校が建てられたために、墳丘南側はかなり削られています。それでも後円部に露出する横穴石室の天井石手前は発掘調査され、3体分の人骨や銅鏡、金銅製馬具や武器、装身具などが出土しています。残存する天井板石の奥にさらに5mほど石室が続いているといわれ未盗掘と考えられています。既に出土した金銅製馬具等から推測すると、かなり豪華な品々が眠っているのではないでしょうか。 三条塚を歩いてみるとご覧のように、内裏塚(以下古墳名をクリック)、稲荷塚、九条塚同様墳丘の木々は伐採されておらず、古墳に興味のない人には単なる森にしか見えないのは残念です。歴史的価値のある古墳群だけに、せめて墳丘が一目見てわかる程度に手入れをしてほしいと願うのは私だけでしょうか(撮影2020年11月9日)。



PNG 内裏塚古墳群簡易図 21年6月16日作成

PNG 動画撮影位置 九条塚古墳(内裏塚古墳群)PNG 富津と走水 内裏塚古墳群

PNG 三条塚古墳 (富津市)21年6月15日作成

九条塚古墳(内裏塚古墳群)基本情報

所在地 千葉県富津市

形状 前方後円墳

規模 墳長122m、後円部径57m 高さ6m、前方部幅72m 高さ7.3m

築造時期 6C後半

出土品 人骨3体分、金銅製馬具、銅鏡、武器、装身具

史跡指定 富津市

特記事項 墳丘は飯野藩藩校建設のため江戸時代に墳丘南側が

大きく抉られている