刺激的な考古学の本に出会いました。幾ちゃんの独り言(第41回)

 坂靖(ばんやすし)さんの『ヤマト王権の「古代学」』(新泉社、2020)。橿原考古学研究所を経て現在奈良県文化財保護課の主幹を務めておられます。興味深いのは最近の考古学者の多数意見とは大きく異なる見方を示している点です。一つは邪馬台国の所在地についてです。以下、文意を変えない範囲ではしょりながら紹介します。多くの考古学者がいう「邪馬台国大和説とは「倭国の大乱」後に、卑弥呼を共立した29カ国(魏志倭人伝のいう)が、西日本一帯に広がるというものであり、邪馬台国からヤマト王権へ生産基盤と権力が直接的に継承された」と考えます。つまり前方後円墳や銅鏡の分布から、ヤマト王権はごく初期の段階から、強大な実力と影響力を保持していたとみています。しかし著者はこれを否定し「ヤマト王権は布留式期(実年代で3C半ば以降)に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべき」としています。

著者のとる立場「邪馬台国北部九州説は、卑弥呼を共立した29カ国が、北部九州に留まるというもので、庄内式期(実年代で3C前半)に倭国の統合は少し進んだものの、邪馬台国と大和王権は別個の存在であると考え、諸国が分立していた時代が長くつづく」とみています。その根拠は「弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料はほとんど知られておらず、楽浪系土器(朝鮮半島における4Cはじめまで存在した漢、後漢、魏、晋の直轄地)は北部九州に集中し、(島根県)松江市以東にはまったく認められない」と指摘しています。邪馬台国北部九州説が奈良の専門家から語られることに驚く人も少なくないのではないでしょうか。

それはともかく多くの考古学者の間で通説となりつつある3C半ばに造られたと考えられる箸墓古墳の被葬者は卑弥呼とする見方にも異を唱えます。前述の邪馬台国での指摘とも関連しますが箸墓古墳に眠る被葬者の支配地域は狭く、中国と外交交渉を行った人物とみることは難しいとしています。こうした著者の見方の背景には次のような古墳そのものに対するこれまでの専門家とは少々異なる考え方にあるようです。「古墳は、あくまでも権力者を葬った墓であって、権力を行使した場でもなく、生産活動をおこなった場でもない。古墳で時代を語るには、権力を行使し、生産活動を行った遺跡と古墳との関係を究明していくことこそ必要である。これまでの考古学研究において、最も欠けていた視点である」と述べ、ヤマト王権が支配した地域(「おおやまと古墳群」「佐紀古墳群」「馬見古墳群」「古市古墳群」等)における王の宮、地域開発や土器、埴輪、武器や武具、鏡、玉等生産遺跡について詳細に分析を加えています。長年の発掘作業の自信に裏付けられている印象です。

たしかに目に見える古墳や石室に注目するあまり、その被葬者が生前、権力を行使していた支配地域の状況についてはあまり注意を払うことはなかったかもしれません。もっとも上述の遺跡の大半は纏向遺跡などを除けば埋め戻されてしまうか、野原に標柱が一本という状況で専門家以外にはわかりにくいというのが現実です。その意味でも著者のような専門家が古墳の被葬者の支配地域の当時の状況を3D画像などで再現していただければ古墳時代のさらなる理解に結び付くのではないかと思いました。他の考古学者の方々が著者の見方をどのように見ているのか気になるところです。