59m×55mの巨大方墳の推古天皇陵

 

 近鉄長野線の喜志駅から上ノ太子行の金剛バスに乗って20分ほど。葉室のバス停で降りて(最も近いバス停は御陵前)南に向かって下っていくと動画1冒頭のような光景が迎えてくれます。夏空に映える墳丘は巨大の一言。すぐに方墳ということがわかる角ばった墳丘です。歴代天皇のなかで最初の女帝として592年から36年もの間、その地位にあった人物の墓だけのことはあります。

もっとも三段築成の長方形をした方墳(59m×55m)といわれる墳丘は文久の修陵で大きく改変されたようです。徳川幕府は文久2年(1862年)から全国の陵墓の修復を進め、その際に工事前後の様子を絵師に書かせていたことがわかっています。「文久山陵図」がそれで外池昇さんの「検証天皇陵」(山川出版社、2016年)には数多くの文久山陵図がカラー写真で掲載されています。

その山陵図をみると工事前と工事後の推古天皇陵の様子はかなり違います。工事前はどう見ても三段築成には思えない規模の墳丘です。なぜ、これほど立派になったのでしょうか。以下は憶測ですが、幕末の尊王思想を反映した文久の修復で甥の聖徳太子とともに治世中に十七条憲法や遣隋使の派遣など数多くの事績を残した推古天皇に相応しい陵墓に改変しようとしたのではないか。厚葬することを禁じて没したといわれる推古天皇。当初の陵墓が現在ほどの大きさでなかったとしても納得がいきます。ただ、推古天皇の願いは早逝した息子、竹田皇子との合葬だったといわれ南に向いて開口する石室2基があると考えられています。なお動画2の最後には同じ磯長谷にある推古天皇の2代前の天皇の墓、用明天皇陵を付け加えています。



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推古天皇陵(山田高塚古墳)基本データ

所在地 大阪府太子町山田

形状 方墳

規模 長さ東西63m 南北55m、高さ11m3段築成(現状)

築造時期 7C前半

出土品 不明

史跡指定 なし 宮内庁が推古天皇の陵墓として治定するも考古学会では太子町山田にあるところから山田高塚古墳と呼んでいる

特記事項 日本書紀には天皇が崩御されたあと息子の竹田皇子之陵に葬られたとあるものの場所は記されていない


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