石室長12mの方墳がなぜここに

能登半島の中ほど七尾湾の広がるJR七尾駅まですぐそこ(5㎞ほど)の低地(当時は潟湖だったと考えられている)に目指す終末期古墳、院内勅使塚古墳はありました。既に紹介した前期の前方後方墳、雨の宮1号墳、前方後円墳の雨の宮2号墳(クリックすれば飛べます)の最寄り駅、能登部からさらに北にあがったところです。徳田駅からわずか5分ほどのところにキャプションに書いたように忽然と一辺23m、高さ3.7mの方墳が現れました。発掘調査後に墳丘を化粧直ししたようで段築もよくわかる墳丘でしたが、訪れた時期が梅雨の真っ最中ということもあり開口部付近は草で覆われ少々残念でした。ところが全長11.8mと大型の石室に入ってびっくり。実に整った完成度の高い石室でした。さすが7C前半と考えられる時期に造られただけあります。玄室はやや持ち送っているものの全体に角ばっていて、天井には大型の石材が使われています。礫が敷かれた床がこれまた美しい。これで天井が高かったらさらに見栄えが増した気がしました。方墳ということから奈良県の石舞台古墳を思い出しましたが、関連性を指摘するむきもあるようです。

 ヤマト王権は古墳時代を通じてのこの地を日本海を通じた交易の拠点として重視し、前方後円墳の築造が終わった段階でもそれは変わらなかったと考えられます。6C後半には高句麗の使節が「こしのくに」(当時のこの辺りの名称)の海岸線に漂着し、北方の蝦夷との緊張が高まったとの故事も伝えられていることから、その重要性は高まりこそすれ低下することはなかったのではないでしょうか(この辺りの記述は七尾市パンフレット、能登国府を探るを参考)(撮影2019621日)。
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