息を飲む堂々とした開口部 
 いやはやびっくりです。東西15㎞、南北17㎞、決して大きな島(面積順で奥尻島に次ぎ21番目)とは言えない長崎県の壱岐島に6C後半から7C前半にかけて(古墳時代後期から終末期)約300基の古墳が造られ、しかもそれらは超大型の横穴石室(玄室に二つの前室)をもつ巨石墳6基を中核としているというのです(広瀬和雄、前方後円墳の世界、岩波新書では壱岐の古墳群を詳しく論じています)。しかも6基は現存し(対馬塚のみ埋め戻し)、双六古墳以外の古墳は石室内に入って見学が可能です。
 今回の兵瀬古墳を含めそれら巨石墳は島の中央部に集中していますが、構造が類似する横穴石室をもつ円墳は島全体に広がっています。 兵瀬古墳は径53.5mもある大型円墳ですが木々が生い茂った現状からはその墳丘を確認することはできません。しかし堂々とした開口部が姿を現した時、これは今まで見たこともないような大型の石室に違いないと思いました。約13mと石室長はさほどずば抜けて大型というわけではありませんし、天井高さもさほどではないのですが、スケール感が半端ではないのです。玄室及び二つの前室の側壁が一石から構成されているあたりに鍵がありそうです。
 それにしても何のためにこれらの巨石墳を短期間に集中してこしらえたのでしょうか。壱岐島は古来、半島、大陸に対する交易中継地として重要視されてきたことは原の辻遺跡からも明らかですが、広瀬さんは一歩踏み込んで、「6世紀後半頃の北部九州首長層と中間層の壱岐島への大量移住は、中央政権(ヤマト王権)が関与した国家政策の一つであって、562年に伽耶を統合した新羅に対する国境防衛が、その目的であった」と記しています(広瀬、前掲書)。古墳時代を終わらせようとしている時期に、北九州豪族の壱岐移住の目的はともかく、これだけの巨石墳を造り続けたことは、彼らにとっては古墳が引き続き権威を示す重要なモニュメントであったということなのでしょうか。
 博多港から高速船に乘り1時間強、天候が安定していれば10基程の古墳を見学しても十分に日帰りが可能です。ただ前回は路線バスで弥生時代の遺跡公園、原の辻遺跡(国の特別史跡)近くまで行き、一支国博物館からタクシーでまわったのですが、古墳の場所がわからず苦労したことから、今回はタクシー会社に古墳の所在地を事前に知らせ調べてもらいました。案外、壱岐のタクシーといっても古墳巡りで利用する人は少ないようなのです。結果、非常に効率的にまわることができました。いつものように公共交通機関と徒歩では日帰りはとても難しいと思われます(撮影2019年3月26日)。

6大巨石墳で見学可能なものは以下のとおりです。
クリックすれば飛べます。
掛木古墳
笹塚古墳
双六古墳(入室は不可)
鬼の窟古墳


PNG 複室構造の石室イメージ図 21年4月4日
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