濠に囲まれた裏山からの姿が印象的な前方後円

 だいぶ前のこと、この古墳の墳丘を前方部の裏山から捉えた姿を見る機会があり脳裏に焼き付いていました。これは訪ねなければと思いつつも漸く実現したのは2017年の8月末のことでした。言い訳になりますが交通の便が悪く京阪神から訪ねたとしても電車とバスを使って一日がかりなのです。こだわりの私としては車は極力使わず公共交通機関と徒歩だからです。JR西日本福知山線の篠山口駅から古墳近くまで行くバスは一日往復一便(しかもこのブログを書くために神姫バスに確認したところ途中までの便しかなくなってしまいました)なのです。

漸く実現したのは墳丘がよく見える冬場ではなく古墳踏査にはあまり適していない夏の終わりでしたが幅広の濠に囲まれた墳長140mの前方後円墳は十分に見応えがありました。畿内に残された仁徳天皇陵(大仙古墳)など周囲には濠が巡ってますがこれは後世のもの。雲部車塚古墳の場合、築造時から濠はあったようです。その水を湛えた幅広の濠と緑の墳丘のバランスがなかなかに見事ではないでしょうか。中期古墳以降に見られる前方部の発達(幅が後円部径よりも大きい)も周囲を歩くことでよくわかります。しかも車塚のいわれとされる墳丘南北にある二基の陪塚(両輪とみなされる)も残されています。畑仕事をしていた方に聞きかなり急な坂道を墳丘東側の裏山に登りきると木立の間から前方部が飛び込んできました。感激です。数多くの古墳を訪ねていますが当時の人の目線で(ヘリコプターやドローンではなく)上から墳丘を眺めることができるところは極めて少ないです。その意味でも貴重な古墳です。もっとも周囲から古墳がよく見えるかといえばそうではなく、調査報告書では「 景観的な面からみると、東西側は丘陵によって視界が遮られ、南側も篠山川の対岸に山地が接近しているところから、古墳の墳丘を充分に眺望できる地点が乏しい。大型前方後円墳の立地としては、きわめて奇異な印象を受ける」と書いています(雲部車塚古墳調査報告書、篠山市教育委員会、2013年)。

墳丘については墳長140mよりも実際には大きく築造当時には158mにも達していたのではないかともいわれています。三段築成(後円部)の最下段が濠に沈んでいるというのです(宮内庁2004年裾部の調査)。後円部径は76m、前方部幅は112mに復元されます。この丹波地方では雲部車塚古墳の北方30㎞ほどのところに同じ5C中頃に巨大円墳私市円山古墳(クリックすれば飛べます)が築かれていますが、これほどの規模の前方後円墳は見られません。そのことは雲部車塚古墳のある丹波西部地方を時間的に前期に遡り、反対に後期に下ってもいえます(石野博信編、全国古墳編年集成、雄山閣、1995年)。いかにこの古墳の被葬者がヤマト王権と密接なかかわりを有する大きな権力を握っていたかが想像されます。交通の要衝を抑えていた豪族だったのでしょうか。それを裏付けるかのように明治期に発掘された後円部の竪穴石室には最有力首長に使用された長持型石棺が甲冑に囲まれて置かれていました。中世には篠山盆地には篠山城が築かれていますし(篠山口駅からの神姫バスは城下町を通ります)、現在でも古墳の東側には国道173号線が南側には372号線が走っています(撮影2017829日)。

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雲部車塚古墳基本データ

所在地 兵庫県篠山市

形状 前方後円墳

規模 墳長 140m、後円部径80m 高さ13m、前方部幅89m 高さ11m

後円部3段、前方部2段築成、葺石あり

築造時期 5C

出土品 甲冑、刀剣、鉄鏃等(1896年に発掘調査の際に石棺周辺で出土)、円筒埴輪及び家形、短甲、靭形など形象埴輪、須恵器、石棺自身は開けられていない。

史跡指定 なし、陵墓参考地

特記事項 宮内庁の調査により本文記載のとおりより墳丘規模は大きかったことが明らかになった。


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