磐井の乱の首謀者の墓といわれる大型前方後円墳

 今回の墳長138mの岩戸山古墳は既に紹介した石人山古墳(クリックすれば飛べます)から八女丘陵を尾根伝いに東に3㎞ほど歩いたところにありました。動画2の冒頭にあるように遠くからもその存在は確認できます。ただ冬間近というのに墳丘はこんもりとした緑に覆われこれでは段築も見えないのではないかと不安になりましたが期待はよい意味で裏切られました。後期古墳にみられる前方部幅が後円部径よりもはるかに大きな状況がよくわかり、しかも二段築成からなる段丘も明瞭に観察できます。タイミングがよかったせいか裾周りの雑草も刈られ周濠からは動画1に見るように前方部と後円部の間のくびれのカーブの美しさが印象的でした。

 この大型の前方後円墳が変わっているのは後円部北西側に張り付くようにある方形の別区と呼ばれる広場です。他の前方後円墳によく見られる祭祀が行われた場、造出しのようなものではないかと思えるのですが、裁判が行われていたという記録も残されているようです(釈日本記の中にある筑後国風土記の逸文(完全な形ではなく一部)に記載)。それはともかく石人石馬(縮小したレプリカ)が並ぶ別区の広場は他の古墳の造出しとはまったく違った印象を受けます。墳丘や周濠からも埴輪の代わりなのでしょうか石人石馬が多数出土しているようです。

 肝心の被葬者ですが6C前半の527年に起きた古墳時代最大の内乱ともいわれる磐井の乱のリーダー筑紫君磐井ではないかというのが出土した須恵器の年代観からもいえるようです。単なる国内での衝突ではなく海を挟んだ朝鮮半島をも巻き込んだという点で実に興味深い事件です。ヤマト王権が新羅に侵略されそうだった朝鮮半島南部、加羅を救援しようと近江毛野の軍勢を送りこもうとした矢先、立ちはだかったのが新羅と交流のあった磐井だったのです(出土品からもいえるらしい)。結局、翌528年には王権が派遣した物部麁鹿火(もののべあらかび)により鎮圧されます。不思議なのは中央政府に楯突いた反乱軍のリーダーの墓がなぜ岩戸山古墳のような全国的にみても大型といえる前方後円墳に葬られたのかという点です。息子葛子が死罪を免れるために稲の収穫を中心とした土地を王権に差し出したからなのでしょうか(志免町HP)。ある考古学の研究者は御家断絶を命じられるというところまではいかなかった。その証拠として規模は小さくなるものの前方後円墳が引き続き同じ墓域のなかに築かれていると指摘します(乗場古墳、鶴見山古墳等)。王権としても北九州に大きな影響力をもっていた筑紫君磐井を全く亡き者にするにはリスクが大きすぎたのかもしれません。アクセスは岩戸山古墳に直接向かう場合には西鉄久留米駅から西鉄バスで八女行き、福島高校前下車すぐ(撮影2016年12月27日)。



岩戸山古墳基本データ

所在地 福岡県八女市

形状 前方後円墳

規模 墳長135m 後円部径60m 高さ18m 前方部幅92m 高さ17m

二段築成、周濠、葺石あり

築造時期 6C前半

出土品 石人、石馬など石製品、円筒埴輪、須恵器

史跡指定 国指定

特記事項 埋葬施設は後円部に設けられた横穴石室と考えられている

本文で触れたように別区と呼ばれる方形の広場が隣接している


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