不思議な古墳 

 墳長335mを誇る今回の河内大塚山古墳は古墳時代後期の6C半ばに現在の羽曳野市と松原市にまたがるように造られたと考えられています。墳長でいえば全国で第五位、6Cでは最大の超巨大古墳です。残念ながら大正末期の1924年に宮内庁が陵墓参考地に指定したために前方部にあった村は強制撤去され以後、陵墓の仁徳天皇陵(クリックすれば飛べます)等と同様、立ち入り禁止です(2010年に考古学者など専門家に対して一部公開)。

この大塚山古墳は百舌鳥古墳群とともに世界遺産登録の国内候補になっている古市古墳群には含まれていません。応神天皇陵(誉田御廟山古墳)(クリックすれば飛べます)を中心とする古市古墳群から3㎞ほど西に離れていることや築造時期が100年以上下ることから古市古墳群には含まれないとの見方が大勢のようです。世界遺産登録ブームに乗り遅れた(?)ためでしょうか同じ6Cでも、前半に造られ高槻市が一部復元した今城塚古墳や最後の前方後円墳として有名な五条野丸山古墳に比べあまり知られていないようです。

それにしても巨大古墳が造られなくなった6Cになぜ超巨大な前方後円墳が築かれたのでしょうか。当然、生前の被葬者あるいは周囲の人々の意向が反映されているはずで、巨大構築物を造るだけの権力と権威が被葬者にはあったのでしょう。ただ、墳丘のデータを見て不思議に思ったのは後円部の高さ20mに比べ前方部は4mと極端に低いことでした。幅は後円部径185mに対して230mと中期以降の特徴である前方部の発達は見られるのですから余計に不思議です。最後の巨大前方後円墳である五条野丸山古墳(見瀬丸山古墳)(クリックすれば飛べます)の後円部高さ2mに対して前方部15mと比べても極端に低いのです。松原市の方のお話では江戸時代の絵図では後円部に鎮座する神社から低い前方部が見渡せる様子が残されていることから後世改変されたものではなく元から低かったようだとのことでした。だとすると河内大塚山古墳は未完成ではないかという疑問が湧きます。実際そうした見解もあるようです。ただ墳丘に登ることができた時期に横穴石室の天井板石の存在が確認されているそうですから葬ったあとに何らかの事情で盛り土ができなくなったのでしょう。もっとも現在の鬱蒼とした緑の山からは前方部の高さの低さをうかがわせるものはなにもありません。

立ち退きを強いられた村人たちの来歴や被葬者が誰かなど様々な見方を紹介している考古学専門のジャーナリスト矢沢高太郎さんの書籍、天皇陵(中公選書、2012)があります。ご関心のある方にお勧めです。

このブログで紹介してきた後期古墳の大半は小規模の円墳や方墳で、前方後円墳の数は極端に少なくしかも東国に偏重しています。その中で超巨大でしかも畿内に築かれたという意味で河内大塚山古墳は実に不思議な存在です。

近鉄南大阪線の恵我之荘駅から南西方向に5分ほど歩いた恵我之荘小学校の目の前に動画1に見る周濠に囲まれた墳丘が広がります。もっとも多くの古墳同様水を湛えた周濠は後世灌漑用に改変されたもので築造当時は空堀でした(撮影2017830日)。


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河内大塚山古墳基本データ

所在地 大阪府羽曳野市(墳丘東側)、松原市(西側)

形状 前方後円墳

規模 墳長335m(羽曳野市は330m)、後円部径185m 高さ20m、前方部幅230m 高さ4m

築造時期 6C

出土品 埴輪、管玉

史跡指定 なし

特記事項 墳丘は全国で第五位の規模。宮内庁が陵墓参考地として管理



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