今回紹介する東京都で唯一築造当時の横穴石室が残る浅間様古墳。調べてみると既に紹介した宝莱山古墳(クリックすれば飛べます)と野毛大塚古墳(クリックすれば飛べます)とともに荏原台古墳群に属していました。多摩川沿いに走る武蔵野台地の南端に位置します。専門的には江原台古墳群は東側の田園調布古墳群と西側の野毛古墳群にわかれますが、2㎞ほどの多摩川沿いの台地に築かれた古墳群です。浅間様古墳は田園調布古墳群にあります。すでに宝莱山古墳のところで触れたようにまさか中学時代から通いなれた東急沿線沿いに古墳が存在するとは考えてもみませんでした。

宝莱山が4C前半に、後半にはいずれ紹介しなければならない大型前方後円墳の亀甲山古墳(鬱蒼とした雑木林が墳丘を覆っておりわかりにくい)が造られ、4C末には中型の円墳もみられたそうです。他方、野毛古墳群では5Cになると都内で唯一の本格的復元古墳、大型の帆立貝型前方後円墳である野毛大塚古墳が造られ、八幡塚古墳、御嶽山古墳など多数の中型の円墳ないし帆立貝形古墳の築造が続きます(一部を除き消滅)。この時期には田園調布地域には古墳の築造は見られません。ところが5C末には田園調布地域に古墳築造がもどり、多摩川駅から至近の距離に前方後円墳の浅間神社古墳が造られ、6Cから7Cごろにかけて宝莱山古墳と亀甲山古墳の間に今も整備されて見学可能な径15mほどの八基の円墳や消滅した前方後円墳が造られます。こうした古墳の立地の移動は多摩川流域の支配者が変動したということなのでしょうか。

このあたりのことにご関心のある方は大田区の「古墳ガイドブック」(2008)やネットで検索可能な「大田区遺跡一覧」でご覧ください。肝心の浅間様古墳は動画でご覧いただけるように小ぶりながら見事な石室です。墳丘は削られてしまっていますが残された明治時代のスケッチでは円墳になっています。ガイドブックの説明は各面を平らに加工した切石を積む構築工法は新しい技術でこの古墳が造られたのは荏原台古墳群の中で最も遅い時期に築造されたことを示しているとしています。玄室の長さは2m、奥壁の幅は1.38m、玄門の幅は0.65m、羨道の長さは1.8mです。同じ頃に築造された神奈川県の加瀬台3号墳(以下いずれもクリックすれば飛べます)、群馬県の宝塔山古墳蛇穴山古墳、さらには趣の異なる当麻谷原3号墳の横穴石室と比較してご覧ください(撮影2016107日)。