箸墓古墳以前の前方後円型の古墳 
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桜井線の巻向駅の西500mほどのところに今回紹介する勝山、矢塚、東田大塚古墳が位置します。既に紹介した纏向出現期の古墳として有名な纏向石塚古墳(クリックすれば飛べます)もその至近距離にあり、同様によく言及される同時期のホケノ山古墳(クリックすれば飛べます)は駅東南側1㎞にあります。それらの位置関係の略図は動画とともにアップしてあるのでご確認ください。

 いずれも定型化された最初の前方後円墳の箸墓古墳(クリックすれば飛べます)からほど近いところにあります(ホケノ山古墳の墳頂からは箸墓古墳がよく見えます)。箸墓古墳が3C半ばに造られたとしてそれより前に箸墓(墳長278m)よりは規模は小さいとはいえ後円部と前方部を伴った100mクラスの墳墓がいくつも造られたというのが研究者の共通した見解のようです。残念ながらホケノ山や石塚のように発掘調査が行われたのちに復元されている例とは違い、今回の三基は勝山は別としても矢塚、東田大塚は前方部が削られ畑地と化しているために現地に立って測量図を眺めながら当時の姿を思い浮かべるしかありません。今回の動画では最後に現地にある測量図を静止画像で掲載してあります。それでも勝山は土器や木製品が発掘されたとされるくびれ部分を後円部方向から確認することができますし、築造時からあったといわれる周濠のむこうに広がる墳丘はなかなかのものです。何より勝山からは矢塚が、矢塚からは東田大塚を今でも一望できることは、当時と同じわけで感慨深いものがあります。

 なおここでは纏向出現期古墳として勝山、矢塚、東田大塚、石塚、ホケノ山を扱っていますが既に石塚を紹介した際に書きましたように、研究者の間ではこれを古墳と呼ぶかどうか論争があります。近つ飛鳥博物館館長の白石太一郎さんは、纏向石塚やホケノ山がのちの定型化した大型前方後円墳の祖形となるものであるとしても、あくまでも古墳以前の墳丘墓と捉えるべきとしている(古墳からみた倭国の形成と展開、敬文舎、2013)のに対して、桜井市纏向学研究センター長(纏向小学校に隣接)の寺沢薫さんは、纏向石塚のような定型化した前方後円墳よりも前方部が未発達な墳丘墓を「纏向型」前方後円墳と呼ぶことを主張しています(王権誕生、講談社、2000)。

 いずれにせよ定型化された前方後円墳である箸墓古墳出現の前に、こうした墳墓が造られたことは間違いがなく、ここでは出現期の古墳として紹介しました(撮影2017215日)。
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