漸く辿りついた弥生墳丘墓


山陰道をまたいで保存された塩津山墳丘墓から比較的近いところにあるはずの宮山墳丘墓、  仲仙寺墳丘墓まで、なかなかたどりつけずに焦ってしまいました。松江まで戻る電車の本数が少ないのです。公園として保存されてはいるものの、地元の人々でも知る人は少ないようで、飛び込んだ美容室の店主も、客も知りませんでした。新たに開発された住宅地のために昔を知る住民が少ないからなのかもしれません。漸く見つけることができたのが動画1と動画2の墳丘墓です。これまで見てきた前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳とはかなり違います。四隅に舌状のものがついていてあたかもヒトデのような形です。
  山陰地方に多いことが確認されていますが、寺沢薫さん(桜井市纏向学研究センターセンター長)はこうした四隅突出墳丘墓の出現について「後期(弥生、筆者註)になるや、イズモ世界が四隅突出墳丘墓を共通の首長墓として定着させ、瀬戸内世界では円丘墓(いずれ紹介、筆者註)突出墓を設け、前方後円墳を志向し始めると書いた。墳丘はしだいに大きくなり、後期末(2C末頃)には、その地域の前期古墳とそん色ないほどの巨大墳丘墓が出現する」(王権誕生、小学館、2000)と述べています。既に紹介した西谷3号墳(クリックすれば飛べます)がまさにその一つでしょうし、今回の2基も規模はやや小ぶりながら古墳時代に移行する時期に造られたようです。そういえば既に紹介した塩津山1号墳も突出部分の名残りを残した方墳でした(クリックすれば飛べます)。是非、比較してご覧ください。

これら四隅の突出部にはどのような意味があるのでしょう。専門家は方形の墳丘墓に登るための四方の通路が特殊な形に発達したものとみており墳丘斜面には丁寧に石が貼られ、その裾部には一重ないし二重の石列をめぐらすものが多いと述べています(白石太一郎、倭国の形成と展開、敬文舎、2013)。その一端は動画2でご覧になれます。古墳時代の直前まで、山陰地方の有力な首長たちがその絆の示すために共通の様式の墳丘墓を築いていたということになります。それにしても、出雲地域は古墳時代に入っても個性的です。全国的には造られなくなった古墳後期にあっても前方後方墳がみられるのです(撮影2016年5月11日)。
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荒島墳丘墓基本データ

所在地 島根県安来市

形状 四隅突出型弥生墳丘墓

規模 宮山4号 30m(含む突出部) 仲仙寺9号 27m(含む突出部) 

貼り石あり

築造時期 2C

出土品 太刀、玉類、赤色顔料

史跡指定 国指定

特記事項 出雲地方特有の四隅突出型墳丘墓が集中する様子をみられる


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