急な坂道に立ち並ぶ円墳の数々
 朴天秀さんの「伽耶と倭」(講談社、2007)を数年前に読んで以来、是非、訪ねてみたいと思っていた韓国高霊市の池山洞古墳群です。考古学の専門的な知識がないなかで、表紙の尾根に連なる円墳を上空から撮影した画像にひかれたのです。日本にも岩橋千塚古墳群、西都原古墳群(いずれアップします)はじめ群集墳は数多くあるわけですが、池山洞古墳群の場合、多数の墳丘が狭い尾根伝いに円墳が立ち並ぶ姿はビジュアル的に群を抜いています。動画にも出てきますが王都である平野部からもよく見えたはずです。

百済、新羅と異なり伽耶はなじみがないかもしれません。教科書的な説明では、三国時代に朝鮮半島の南、現在の慶尚道一帯に栄えていた、百済にも新羅にも属していなかった小国家群ということになります。慶州と釜山の間、半島中央寄りのところです。文化や言語によって三韓(馬韓、辰韓、弁韓)に分けられた朝鮮半島は、その後馬韓は百済に、辰韓は新羅にとそれぞれ一つの強大国家にまとまったものの、弁韓だけは統一されず小国群として留まったそうです。小国群の中でも「金官伽耶」と「大伽耶」という2つの大きな勢力が現れ、金官伽耶は高句麗や新羅の圧迫を受け衰退し532年に新羅に従属します。その後、大伽耶が小国群の中心となったものの、強大な勢力となった新羅と百済の間に位置していた伽耶は徐々に両国に力を奪われ、562年に大伽耶が新羅に取り込まれ伽耶は滅亡したのです。高霊の池山洞にある主山には王族など支配層の古墳が700基余りあり、古墳からは金銅冠や首飾りなどの副葬品や殉葬者の骨が発掘され、埋葬者が身分の高い支配層であったと推定されています。倭との交流を示す遺物が発掘された古墳から出土していますが、前出、朴さんは、大伽耶の衰退と滅亡の一つの要因となったのが倭との交易が途絶したこと(南海岸の制海権と交易港を百済に奪われる)と述べています。また、北陸地方の古墳からは大伽耶様式の土器が多数出土しているとの指摘もあります。実に興味深いですね。是非、「伽耶と倭}お読みいただければと思います。

復元された44号墳の展示施設は、動画3でわかるように非常にリアルに石槨内部が再現されていて驚きました。それにしても殉死した人々の中には子供を抱えた男性、二人の少女などもおり複雑な気分になりました。大伽耶博物館には日本人スタッフもいて、王領展示館を含め丁寧に案内していただきました。44号墳は動画で確認できるように墳丘自体が少々外れたところにあり特別な扱いを受けた墓という印象を持ちました。肝心の古墳群はかなり急な登坂なので、時間にゆとりをもって計画されたほうがよいと思います。博物館からゆっくり歩くと往復で2時間ぐらいでしょうか。現地には慶州からタクシーをチャーターしてむかいました。といっても慶州を含めた一日の借り上げだったので高くはありませんでした。朝9時半発、現地博物館に11時着でした(撮影2016年7月27日)。



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