多数の三角縁神獣鏡出土の前方後円墳を横切るJR奈良線
 今回紹介する前期古墳の椿井大塚山古墳(つばいおおつかやまこふん)は二つの意味でよく知られた前方後円墳です。一つは動画1からおわかりのように後円部の前方部よりのところにJR奈良線が横切っていて、気持ちのよいほどズバッと墳丘が切断されているのです。1896(明治29)年、奈良鉄道(現JR奈良線)の敷設工事によるものだそうです。それにしても明治半ばにはこうしたことがよく行われていたのでしょう。地元の方から天皇の関西行幸に合わせて京都と奈良を結んだという話を聞きましたが明治天皇の関西行は1877年(明治10年)なので少々違うかなと。とはいえ予定が変更になったのかもしれません。この時期、日本全国でインフラ整備が行われていた時期であり、椿井大塚山古墳だけでなく天上山古墳、五霊山古墳も奈良線のために破壊されています。もっとも「地元では当時、後円部のみが奈良時代の政治家、藤原百川(ふじわらのももかわ)の墓とされており、墓を多少削る程度の認識だったろう」(日本101選、17、椿井大塚山古墳編)という解釈に賛成です。たしかにこの椿井大塚山古墳の北側、東側は竹藪、竹林で墳丘自身も地山を活用したものなので地元でも山や丘としてしか見られていなかったというのは大いにあり得ることでしょう。

 それが一転、世間の注目を浴びることになったのは1953(昭和28)年、旧国鉄が線路脇の斜面を緩やかにするために後円部を削ったところ、竪穴式の石室が現れ、三角縁神獣鏡を含む大量の副葬品が発見された。京都府教委、京大による調査、測量の結果、線路東側の丘陵を後円部、西側の住宅地を前方部とする前方後円墳であることがわかった」(前掲、日本101選)からでした。卑弥呼から下賜されたとも言われる三角縁神獣鏡32面を含む銅鏡36面余は専門家の三角縁神獣鏡の編年に基づいて第一段階から第四段階まで出土していることが確認され、その実年代を白石太一郎さんの解釈をもと推察してみれば椿井大塚山古墳の造営時期は270年頃ということになります。前期、それもかなり古い時期の前方後円墳です。前方部は動画撮影位置からもわかるようにバチ形に広がっています。

 さて動画23でもおわかりのように前方部には民家が立ち並んでいます。国の史跡指定を受けているので住民の方々は現状変更もままならないのではないでしょうか。といって強制的に収用するわけにもいかないのも事実です。地元の方々は「椿井大塚山古墳を守る会」を組織して、古墳を保護しながらの暮らしを選んだようです。何度も道順を間違え地元の方々にお聞きしましたが、一度も知らないという返事はありませんでした。地元に根差した古墳といえるのではないでしょうか。現在、動画3に映る前方部端の一部が木津川市により買い上げられ将来の史跡公園化に備えられています。いずれ遠い将来には史跡公園ができるのではないでしょうか。動画3の前方部側から後円部を見上げた映像からは175mの墳長を実感できるはずです。

アクセスはJR奈良線上狛駅を西方面に200mほど歩き右折、ひたすら北に向い1kmほど歩くと山城中学校が見えます。そのまま直進すると信号がありそこを山側(東側)にあがったところに大塚山古墳はあります。ただ細い道でわかりにくいので地元の方に、このあたりでお聞きください(撮影2016年1月26日)。


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所在地 京都府木津川市山城町

形状 前方後円墳

規模 墳長175m、後円部径110m 高さ20m、前方部幅80m 高さ10m

後円部 4段築成、前方部2段築成、葺石あり、濠なし。

築造時期 3C

出土品 三角縁神獣鏡32面を含む銅鏡36面余、鉄刀、鉄剣、鉄矛、鉄鏃約2、銅鏃、鉄製甲冑等武器武具多数、他に工具、農具等

史跡指定 国指定

特記事項 発掘された後円部の埋葬施設は竪穴式石室で長さ6.9m、幅1m、高さ3m。コウヤマキ(高野槇)製の割竹型木棺を安置。




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