2020年09月
ツボリ山古墳(平群町)(奈良県)■(後期)Tsuboriyama Tumulus (Nara Pref.)
二つの石棺が確認できますが・・・
奈良県の平群町では西宮古墳、烏土塚古墳(両古墳とも、古墳名をクリックすれば飛べます)といずれも見応えのある石室のある古墳を紹介してきましたが、今回のツボリ山古墳、一風変わった印象を受けるに違いない古墳です。平群町の古墳資料を頂戴した公民館前の新設道路を西に300メートルほど平群中学校方向に坂を登ると右手住宅街の一角に古墳はありました。円墳か方墳かわからないほどに削平されていますが驚いたのは石室開口部の鉄柵(施錠してあり出入り自由)の向こうに石棺らしきものが目に飛び込んできたことでした。近づくとさらにその奥にも石棺らしき物体が。ただ、見慣れた箱形ではありません。手前の羨道にある石棺は、底板だけ。奥の玄室にある繰り抜き式家形石棺は、半壊状態の棺身と奥壁側に立てかけられた縄掛け突起ある棺蓋だけです。うーん。思わず唸りました。西宮古墳でも烏土塚古墳でも棺とわかる箱形の形が残っていたので拍子抜けです。ただ県指定になるぐらいですから大変貴重なものであることは間違いがなさそうです。家形石棺が大きく、その割には玄室、羨道の幅が狭いために奥壁の様子がうまく撮ることができませんでしたが、石室全体の石積みは非常に丁寧である印象を受けました。動画の終わりのほうで側壁の様子を映しています(撮影2018年3月7日)。
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東山1号墳(東山古墳群)(多可町)(兵庫県)(後期)■Higashiyama No.1 Tumulus,(
妙見山との対比が美しい石室完存の円墳
東山古墳群は7C初頭から後半の間(古墳時代の終焉に近い頃、前方後円墳の築造は終了している)に妙見山のふもと、標高400mほどの丘陵に築かれた16基の群集墳で、現在、1号墳はじめ12基が公園内に保存されています。南西方向には加古川の支流、杉原川が流れています。古墳群は1996年から99年にかけて発掘調査され、その成果に基づき復元されています(もちろん破壊が著しいものもあります)。古墳を遮る構築物は周囲に何も見当たらず、古墳時代当時に思いをはせる景観が残されている点が魅力です。径30m、幅広の段築にお椀をかぶせたような墳丘の1号墳。堂々として立派です。さすが東山古墳群の最初の盟主墳だけのことはあります。おわかりのように出土した須恵器製の高坏なども棺とともに再現されています。耳環、太刀、鉄鏃も出土しています。
最後に築かれた東山15号墳(クリックすれば飛べます)を紹介した際に最初に造られた1号墳と石室の長さがほぼ同じ約15mという点が面白いと書きましたが、たしかに1号墳は12.5m、15号墳は12.4mです。ただ、1号墳は玄室と羨道の長さが6.25mと同じなのに対して、15号墳は玄室の長さは4.4m、羨道は8mで、羨道の長さが際立ちました。その羨道の床の敷石は単に川を並べただけではなく、何層か重ねてあること、羨道開口部にいくにしたがい傾斜しており排水の機能をはたしていたことなどもわかっています。今回の1号墳の魅力を一つあげるとすれば、左片袖が明瞭という点ではないでしょうか。玄室幅が羨道幅よりも奥壁からみて左に偏った石室が、左片袖とよばれるタイプですが、あまりないタイプです。実際、東山古墳群中袖のあるなしがわかった8基のうち、右片袖式が3基、15号墳を含む両袖式が3基、無袖式が2基で、左片袖式は今回の1号墳のみです(巨大石室墳を掘る、2000年3月、兵庫県多可郡中町教育委員会)。アクセスは15号墳の頁をご覧ください(撮影2019年12月12日)。
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幾ちゃんの独り言 第43回、8基の中型前方後円墳(後方墳)を一挙に見る!
中規模の前方後円墳でもこの存在感!
これまでの「幾ちゃんの独り言」でも「これぞ」と思われる前方後円墳を何度か紹介してきました。ただ、振り返ってみるといずれも100m超クラスの大型前方後円墳でした。地方の首長、中央の大王あるいはそれに続く人々の墳墓です。それだけに大変な迫力という表現がぴったりの墳墓ですが、100m超級は全国で302基しか確認されていません。他方、前方後円墳(後方墳)全体では5200基ほどが造られています。ヤマト王権から古墳時代約350年の間に墳形を前方後円墳(後方墳)に葬ってよしとされた人々の数です。多いようにも思えますが、3C半ばから7C初めという長い期間に5200基ですから選ばれた人々であったことは間違いがありません。それら権力の座にあった人々が大変な労働力と資材を投入、調達してあの人口構造物を造ったわけです。墳長525mの仁徳天皇陵(大仙古墳)は、大手建設会社大林組の試算では、1日ピーク時に2000人働いたとして15年8か月かかり、試算時(1985年)の貨幣価値で796億円もの巨費を投じなければならなかったとしています。
今回紹介する8基は、墳長57mから89mと中規模の前方後円(後方)墳ですが、築かれた地方にとり畿内(仁徳天皇陵(大仙古墳)が築かれた)とは違い人口も少なく、投入できる資材も限られたいたでしょうから、それなりに大がかりなイベントだったに違いありません。だからといって無理やり人々を動員したとは言えないようで、葬られた(葬られる)リーダーの次のリーダーの交代式的色彩もあったことから自発的に農閑期を中心に積極的に古墳づくりに参加したとみられています。そうしたことを参考に2分30秒にまとめた鹿児島県から福島県までの8基をご覧いただければと思います。紹介している古墳動画をさらに見たい方は下記の古墳名をクリックすると元の頁に飛ぶことができます。これまでの「幾ちゃんの独り言」でも「これぞ」と思われる前方後円墳を何度か紹介してきました。ただ、振り返ってみるといずれも100m超クラスの大型前方後円墳でした。地方の首長、中央の大王あるいはそれに続く人々の墳墓です。それだけに大変な迫力という表現がぴったりの墳墓ですが、100m超級は全国で302基しか確認されていません。他方、前方後円墳(後方墳)全体では5200基ほどが造られています。ヤマト王権から古墳時代約350年の間に墳形を前方後円墳(後方墳)に葬ってよしとされた人々の数です。多いようにも思えますが、3C半ばから7C初めという長い期間に5200基ですから選ばれた人々であったことは間違いがありません。それら権力の座にあった人々が大変な労働力と資材を投入、調達してあの人口構造物を造ったわけです。墳長525mの仁徳天皇陵(大仙古墳)は、大手建設会社大林組の試算では、1日ピーク時に2000人働いたとして15年8か月かかり、試算時(1985年)の貨幣価値で796億円もの巨費を投じなければならなかったとしています。。
役所塚古墳(鹿児島県)墳長57m 中期
蓬莱山古墳(大分県)墳長60m 前期
今宿大塚古墳(福岡県)墳長64m 後期
沖出古墳(福岡県)墳長68m 中期
南大塚古墳 墳長84m 前期
白山神社古墳 墳長89m 前期
後二子古墳 墳長85m 後期