2020年04月
真部呂(まぶろ)1号墳と鬼屋窪(おにやくぼ)(壱岐市)(長崎県)(後期)■Maburo No.1 Tumulus & Oniyakubo Tumulus(長崎県)
破壊は進んでいるが興味深い壱岐島の2基
これまで紹介してきた長崎県壱岐島の巨石墳は掛木古墳、双六古墳、松尾古墳、笹塚古墳、兵瀬古墳と5基にのぼります(いずれもクリックすれば飛べます)。壱岐島という決して広くはない土地に圧倒的なスケールで築かれた数々の古墳に驚きを禁じ得なかったのですが、今回の真部呂1号墳、鬼屋窪の2基は趣きがだいぶ異なります。ともに破壊が進んでいます。もっとも残存する真部呂の後室(玄室)と前室の一部の巨石を用いた石組みから築造時の規模を想像することは可能です。本土の他の古墳石室と比べても巨石墳といって間違いはないでしょう。とはいえ複室ではあるものの前後の二室ですから、掛木、笹塚等の三室構造の巨石墳とは格が違います。壱岐島では松尾古墳クラス同様の中規模クラスではないでしょうか。説明板にもそのように書かれていました。なお、短期間に集中して築かれた巨石墳のなかでもこの真部呂古墳は最も早い時期のものと考えられているようです。
他方、鬼屋窪古墳はスケールは全く違いますが奈良県明日香村の石舞台古墳と同様のスケルトン状態です。なのに鬼屋窪古墳が知られているのは側壁の二か所に残された捕鯨の線刻画がのためです。なかなかに興味深いのですが、見方が悪いのか風化が進んでいるためか説明板にあるようなはっきりとした様子はうかがえませんでした(撮影2019年3月26日)。
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競馬道1号墳(奈良市)(奈良県)(後期)■Keibamichi Tumulus No.1(Nara Pref.)
柳生の郷に残る高水準の石室
奈良駅西口から奈良交通のバスに乗り競馬道1号墳を目指します。奈良と言えば東大寺の大仏ですが、その奈良の中心から古墳のある柳生の郷(奈良県東部)に続く柳生街道。宮本武蔵、荒木又右衛門はじめ名だたる剣豪も歩いた古道をバスが通るのです。ちょっとワクワクします。緑深いアップダウンのある柳生街道を40分ほど走ると大柳生のバス停です。街道と交差する県道47号を北東方向に300mほど進むと田んぼに沿って動画1の冒頭にある側道が見えました。あとは道なり。この道が奈良市須川まで続く競馬道とよばれる古道だそうです。それにしてもなぜ競馬道なんでしょうか。
左折すると続く雑木林のなかに明らかに人口構造物と思われる高まりが見えてきました。
径22mの円墳とも墳長36mの前方後円墳ともいわれていますが、動画3にあるように墳丘に登ると前方後円墳のように思われます。荒れ果てた墳丘に比べ長さ10m以上もあると思われる横穴石室の見事なこと。開口部は狭く、長く続く羨道を進むのに苦労しましたが、玄室に入ってびっくり。3mはあると思われる空間が広がります。奥壁は一枚板石ではないですが、三石を組み合わせた腰石の美しさ。工人のセンスを感じます。側壁にも巨石は使っていませんが、天井は大ぶりの板石です。キャプションに書き忘れましたが玄室はやや持ち送っています。羨道を含め全体として非常に完成度の高い、残りのよい石室でした。
あまり知られていないようで詳しいデータもありませんが、「発掘調査から見た奈良東部の考古学」と題された小冊子(2005年開催の第3回平城京展)を見つけました。そのなかに、競馬道1号墳が紹介され「石材、積み方からみて東部地域では今のところ最古と考えられる横穴式石室です」とありました。なるほどと思ったのですが、不思議なことに競馬道1号墳石室奥壁と紹介されている画像が何度みても、私のみたものとは違うのです。他の方が撮ったもの(私の見たものと同じ)とも違うので、おそらく私の見た石室のほうが正しいのでしょう(撮影2018年11月26日)。
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西陵古墳(岬町)(大阪府)(中期)Sairyou Tumulus (Oosaka Pref.)
半端でない巨大さを墳丘に登り実感できる貴重な前方後円墳
墳長200mを超える前方後円墳、さすが大きいですね。墳丘を歩いて実感しました。墳長200m以上の前方後円墳は36基しかありませんが、西陵古墳は第28位。この規模の大型前方後円墳では奈良県河合町の川合大塚山古墳(町名とは違う表記)(クリックすれば飛べます)、同じく広陵町の巣山古墳(クリックすれば飛べます)も歩いていますが、だいぶ印象が違います。ひとつは立地です。南海鉄道のみさき公園駅から北東方面に県道752号線(紀州街道)を10分ほど歩くと見えてくる西陵古墳の先には大阪湾が望めるのです。築造者がこの地を選んだ意図がわかります(動画1の冒頭のシーン)。西陵古墳と並び淡輪(たんのわ)古墳群を形成する大型の前方後円墳宇土塚古墳の立地も同様です。二つは訪問した時の状況です。地元の方々がボランティアで木々の伐採を行っているとの話を聞いていましたが、2か月前の2018年9月に関西を襲った台風21号の爪痕も痛々しく墳丘は倒木があちらこちらに行く手を阻みます。それでも、見学路のロープを伝いながら歩くとおぼろげながら前方後円墳の形を実感することができました。ネットで見つけた実測図どおりに前方部が長く、先端に行くに従い幅広になる様子を実感することができました。もっとも古墳に関心のない方がみれば、単なる雑木林の生い茂る荒れ果てた山にしか見えないかもしれません。
段築は3段。いたるところに葺石のなごりがゴロゴロしていてこれも当時の姿を思い起こさせます。そして私が歩いた墳丘には円筒埴輪や朝顔、蓋、盾、短甲、家形等の形象埴輪が並んでいたようです。くびれには祭祀が行われた造出しが設けられていました。埋葬施設は後円部頂の竪穴石室と考えられ、現在では埋め戻されたとのことですが石棺の蓋石が以前は露出していたそうです。
大阪湾、その先には淡路島、陸路の南隣は紀ノ川の流れる和歌山、ここに眠る被葬者はだれなのでしょう。日本書紀雄略九年(474年)には、天皇の命により新羅討伐のために派遣されたものの現地で病没した大将軍、紀小弓宿禰(きのおゆみ)の墓をこの地、淡輪に築かせたとあります。いずれにせよ、水陸双方の交通の要衝、近隣で発掘された大型の倉庫等からヤマト王権にとりこの地が極めて重要であり、そこを治めていた大豪族の墓であることは間違いがありません。
最後に飛んでもないハプニングが。墳丘に登るために渡ってきた土手がどこかわからなくなってしまったのです。次に予定している宇土墓古墳に行くには、ここを脱出しなければなりません。鬱蒼とした雑木林の中をあっちうろうろ、こっちをうろうろ。同じ景色が続くなか、心細さは募るばかり。そうだ郷土資料館(岬の歴史館)に聞こうとスマホを手にとったのですが、よく考えたら月曜なので休館。やむなく自分の位置を先方につげることもままならないまま、町役場に電話をして窮状を訴えているうちに、ようやくわたり土手を発見。さまようこと30分でした。こうした経験は和歌山県の大谷山22号墳(クリックすれば飛べます)でもしました。今回の教訓は、目指す古墳(石室も同様)が見つかっても小躍りせず帰路を確認して慎重に行動すべきという当たり前のことでした(撮影2018年11月5日)。
西陵古墳基本データ
所在地 大阪府岬町
形状 前方後円墳
規模 墳長210m、後円部径115m 高さ18m、前方部幅100m 高さ14m
3段築成、葺石あり、周濠あり
築造時期 5C央
出土品 不明
史跡指定 国指定
特記事項 なし
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