大型前方後円墳に登れる魅力満載の大型古墳公園
古墳公園として整備された今城塚古墳。古墳踏査をはじめて間もない頃に訪れ、ジョギングや犬をつれて散歩をする人、リュックを背負った古墳巡りの人々、その数の多さにこれは古墳?と思いながらも、古墳が地域の人々の生活に溶け込んでいることを実感しました。慶長伏見の大地震(1596年)で大きく崩れた墳丘は自然保存する一方、前方部の幅が後円部径を大きく上回る様子や造出しの様子など当時の姿をわかりやすく伝えています。内濠は水を張ったところと空堀をわけて整備し、内堤の祭祀の場を再現した200体を越える人物、家形、鳥、牛馬、武具等の埴輪列は圧巻の一言でした(動画4と5)。墳長190mに二重の濠の内濠だけでこれだけの迫力ですから、墳丘だけしか残っていない他の古墳の濠を含めた全体の姿を想像する際の参考になります。しかも隣接して今城塚古墳の発掘の成果が展示されている今城塚古代歴史館があるのも魅力的です。ただ、訪れるたびに人々が多く、思い切って冬本番の2月の某日早朝に出かけて撮ったのが今回の動画です。6時半頃に到着し朝陽を浴びた墳丘、埴輪像が心にしみました。それでも皆さん早起きですね。ジョギングや散歩の人々が既におられました。
崩れた後円部には本格的な横穴石室があったようでその説明板が現地にあります。ただ、これだけではイメージが湧きません。歴史館には三つの凝灰岩製(阿蘇ピンク石)、二上山製造、高砂製(竜山石)石棺の詳細な説明があります。それにしても熊本からピンク石の石棺を運ばせたわけですから、その権力の大きさのほどがわかります(ピンク石製の石棺の現物はこぶりですが奈良県桜井市の兜塚古墳(クリックすれば飛べます)で見ることができます。もっとも内堤の三か所をくり抜いて見学者の利便のためにコンクリートで壁面を固めたトンネルが造られていることなどを例にあげ、ここまで古墳を改造してしまってよいのだろうかと厳しい批判を展開しているのは考古学を専門とする矢澤高太郎さんです(天皇陵の謎、文春新書、2011)。一理ある議論ですが、自然保存をたてに荒れるに任せた古墳よりはよほどましと思っています。肝心の被葬者ですが宮内庁の陵墓指定には入っていませんが出土品等から考古学的には継体天皇陵として確定しています(継体陵と宮内庁が治定している太田茶臼山古墳は、同様の理由で1C以上古く築かれ継体天皇の在位した時代と合いません、クリックすれば飛べます)。今城塚古墳は6C前半の築造といわれこの頃の前方後円墳としては飛びぬけて大型です。継体天皇といえばそれまでの天皇とは出自が異なり古事記、日本書記では傍流、具体的には武烈天皇に後継者がいなかったために、祖先が応神天皇につながる越後を治めていた男大迹(ヲホド)を王権有力豪族が推挙し即位したといわれています。その在位期間には朝鮮半島での百済と新羅の戦いに百済支援のために派兵する一方、国内ではヤマト王権とは異なる方針(新羅を支援)をとった北九州の有力豪族磐井と内戦になるなど(磐井の乱、ヤマト王権が鎮圧)よく教科書にも紹介されている事柄に直面した天皇です。アクセスはJR富田駅から阪急バス1番乗り場から 関西大学、 萩谷 、 萩谷総合公園行きで氷室下車すぐです(撮影2017年2月16日)。
今城塚古墳基本情報
所在地 大阪府高槻市郡家新町
形状 前方後円墳
規模 墳長約190m、後円部径100m 高さ不明、前方部幅142m 高さ12m
築造時期 6C前半
出土品 円筒、水鳥、家形、武具、人物等形象埴輪、石棺片
史跡指定 国指定
特記事項 本文で触れたように真の継体天皇陵とみられています。用いられている
埴輪を製作したと思われる埴輪工場が古墳の北西1㎞のところに新池埴輪製作遺跡として整備されています。
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