古墳を動画で見るサイト guami_38_36のblog

なんでも実際に見てみないと気が済まない私。古代史初学者として3世紀中頃から7世紀初頭にかけて東北から九州まで造られた5200基もの古墳の内、墳丘が残り実際に墳頂まで登れるものを訪ねはじめました。2011年秋のことです。既に先輩方が古墳のブログやHPを立ち上げられて今でも大いに刺激を受けています。ただ、権力者がなぜこれほど大きな構築物を造ったのかに興味がある私には、残念なことに大半の画像が静止画であるためにそのスケール感が伝わってきませんでした。偶然、動画で撮ってみたら案外いける。そんな思いで撮りためた古墳動画を見て頂くことにしました。素人の撮影ですから、古墳マニアや専門家の方々からは厳しいご指摘はあるかと思います。ブログでは基本情報とともに一つの古墳に3-5本程度の動画(各1分以下)を用意しました。この素人の試みが古墳を具体的にイメージする一助となれば幸いです。

■古墳時代の時期区分
 このブログでは古墳時代を広瀬和雄さん(国立歴史民俗博物館名誉教授)が通説として紹介している古墳時代を前期(3C中頃から4C後半頃)、中期(4C末頃から5C後半頃)、後期(5C末頃から7C初め頃)、終末期(7C前半頃から8C初め頃)に区分して捉えています(前方後円墳の時代、岩波新書、2010年)。
■アップの順番
 前期⇒中期⇒後期(終末期)の古墳を一基ずつワンセットにして全国の古墳を網羅することを目指しています。三基の古墳には何ら有機的な関係はありません。一つの地域に集中して前期から終末期まで掘り下げて見るのが一般的ですが、敢えてそうしなかったのは古墳時代の前期、中期、後期に全国でどのような墳墓が築かれたかを知りたいと思ったからです。古墳の築造年代は専門家の間でも様々な意見があり実年代を確定することが如何に困難なことかは承知しています。そのような限界の下でも古墳を横断的にみると今まで見えてこなかったものが見えてきたような気がします。専門分野外の古墳時代に関心を持ちはじめて日も浅い者ならではの冒険です。
■ご覧になる方法
最新記事12件についてはそのまま下にスクロールすれば見れます。各都府県別古墳は右の一覧をクリックしてください。文中にも関連の古墳に直接飛べるようにリンクを貼ってあります。

2016年08月

  今回の中期古墳は岡山県総社市にある作山(つくりやま)古墳です。東方向4㎞にある造山(つくりやま)古墳と区別するために、通常、さくざん、ぞうざんと呼びます。造山は全国第4位、こちらの作山は第10位の墳長を有しています。動画1は造山古墳、こうもり塚古墳、江崎古墳と吉備路を歩き、国道429号線をはさんだ向こうに見える作山古墳を撮っています。墳長300m近い墳丘全体を遠くから確認できる巨大古墳は一回り大きい造山(350m)と作山しかありません。しかも両古墳ともに陵墓指定でないうえに、整備が行き届き部外者でも墳丘に登りその姿を実感できます。実に貴重な遺跡といってよいと思います。

 さらに興味深いのは作山、造山(クリックすれば飛べます)両古墳が現在の岡山県と広島県の東部等や兵庫県の西部の一部などを支配した吉備国にあるという点です。古墳時代の幕開けとなった定型化された前方後円墳、箸墓古墳(クリックすれば飛べます)からは吉備と関係の深い特殊器台と呼ばれる円筒埴輪の原型となった土器の破片が採取されています。つまり以前から吉備と大和の地は関係が深かったのです。時代が下り古墳時代の中期になっても両社の関係が良好であったことは、既に紹介した履中天皇陵(クリックすれば飛べます)上石津ミサンザイ古墳)と作山、造山の古墳の設計が同じだったことからもいえます。考古学者の都出比呂志さんはこうした理由から「古代国家はいつ成立したか」(岩波新書<2011)の中で「吉備の地域権力は、五世紀半ばまでは大和や河内の倭政権と友好な関係にあったと考えられるのです」と述べています。もっとも、その後、日本書紀、古事記の記述が正しいとすれば5C後半の吉備の反乱によって大和と吉備の関係は悪化します。そうしたことが関連しているのか、吉備では5C後半の墳長194mの両宮山(りょうぐんざん)(いずれアップします)古墳を最後にぱたりと大型の古墳は造られなくなり、6C後半の100mこうもり塚(クリックすれば飛べます)まで待たねばなりません。

 作山古墳の墳丘を歩いてみると設計が同じあるにもかかわらず陵墓指定のために近づけない履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)(百舌鳥古墳群)の姿を想像することができます。もっとも、後円部に置かれた総社市の説明版は「作山古墳は畿内の大王墓と異なり、後円部は正円ではなくだ円形で、前方部も台形状の突出がみられるなど、不整な形態をしています。また、前方部の前面には丘陵の一部が、取り除かれないまま残されていることから、作山古墳に葬られた吉備の首長は、畿内の大王ほど、古墳築造にかける余力がなかったのではないでしょうか」と控えめに記しています。たしかに同じ造墓集団によるものと考えられているにもかかわらず、履中天皇陵のような周濠もめぐっておらず、品格や壮大さには欠けるのかもしれません。しかし墳丘の平坦面には5千本余の円筒埴輪が立ち並び、葺石が葺かれていたようです。その名残とおぼしき川原石が確認できます。肝心の埋葬施設は前述の説明板によれば盗掘された巨大な穴も認めらないことから後円部に今も存在すると考えられているようです。

 アクセスは造山古墳からスタートする場合は、アップ済みの造山古墳のブログをご覧ください。総社駅の場合は市役所通りを東に国道429号にぶつかるまで直進、右折して右手にサンロード吉備路をみながら歩くと、動画1の墳丘が遠くにみえます。徒歩60分(撮影2016年2月22日)。


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作山古墳基本データ

所在地 岡山県総社市三須

形状 前方後円墳

規模 墳長286m、後円部径174m 高さ24m、前方部端174m 高さ22m

三段築成、葺石あり

出土品 円筒埴輪

史跡指定 国指定

特記事項 全国で第10位の墳長


 

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  今回の前期古墳は箸墓古墳からさほど時を置かず3C末に造られたと考えられる長野県松本市の墳長66mの弘法山古墳です。ただし前方後円墳ではなく前方後方墳です。その意味するところはあとで触れたいと思っています。

 以前から訪ねたいと思っていた訪問がようやく実現したのは2016年3月末のことでした。雪が舞い散る真冬や全山が桜色に染まる春は避けたい。だからといって被葬者も見たであろう墳頂からのアルプスの山並みは是非映像に収めたい。それには冬晴れの日を期待するしかない。そうした勝手な希望はラッキーなことに春間近の日、叶えられました。前夜に松本駅前のビジネスホテルに泊まり、朝一番で墳頂に立つことができたのです。動画でご覧のように私よりも早く散歩やジョギングをする人々がいて驚かされました。それもそのはず、弘法山古墳は市内有数のビューポイントなのです。

 道路から約60mあがった丘陵の突端に造られた墳丘は前方後方墳は遮るものがないために実際より大きく見えます。他方、墳丘のある丘陵の斜度が急で、後方に下がることができないために全体像を捉え切れていません。もっとも整備された墳丘は後方部の四隅が角張っていることはよくわかりますし、後方部と比較的細い前方部のコントラストも見事です。

聞けばこの前方後方墳の重要性が知られるようになったのは比較的最近のことのようです。以前から古墳があることは知られてはいたものの山間にあることもあり開発の犠牲になることはないと考えられ放置されてきたのです。事態が動いたのは1974年に古墳一帯を学校用地として松商学園が買収したことでした。造成のために発掘調査を行ったところ弘法山は松本平にはないとされてきた前方後方墳であることが明らかになったのです。しかも墳頂の埋葬施設から多数の副葬品が出土しています(この辺りの記述は松本市文化財HP、松本のたから、松本市教育委員会による)。

四獣文鏡1面、銅鏃1、鉄剣、勾玉、ガラス小玉、鉄斧、鉄鏃などが発掘されています。さらに興味深いことに東海地方に多いS字状口縁台付甕(2C前半から5C、6C前にかけて分布する台付甕、口縁部の断面がS字になっている)もともに発見されたことでした。このことから濃尾平野の首長とのつながりが指摘されています。古代史に詳しい方には解説は必要ないと思いますが、魏志倭人伝に登場する邪馬台国が戦った狗奴国(くなこく)として想定される有力な候補地が濃尾平野です。そして弘法山古墳と同様の前方後方墳が同じ時期に多数造られている地域なのです。弘法山古墳の被葬者はそうした濃尾平野の有力首長と関連の深い地域豪族だったのでしょうか。これまでアップした濃尾平野の古墳で是非見て頂きたいのは東之宮古墳(クリックすれば飛べます)、墳長72mと弘法山古墳よりは一回り大きいものの築造時期は3C後半とやや早い時期と考えられています。

アクセスはJR松本駅前の松本バスターミナル(交差点を渡ったビルの一階)からアルピコ交通並流団地線で15分ほど。弘法山入口下車。バス停のところに標識が出ているので迷うことはないと思います。徒歩10分(撮影、2016年3月31日)。


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弘法山基本データ

所在地 長野県松本市

形状 前方後方墳、葺石あり、段築不明

規模 墳長66m、後方部辺47m×41m 高さ6m、前方部幅22m 高さ2m

築造時期 3C

出土品 四獣文鏡1面、銅鏃、鉄剣、勾玉、ガラス小玉、鉄斧、鉄鏃、S字状口縁台付甕

史跡指定 国指定

特記事項 本文で触れたように被葬者は濃尾平野の首長との関連が指摘されている



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幾ちゃんの独り言 大阪編(1)(2016818日)

 お盆休みも過ぎ皆様はいかがお過ごしでしょうか。

今回はこれまでアップしてきた168基から大阪府の古墳を前期、中期、後期(終末期)からいくつか選択して紹介したいと思います。もちろん訪問自身が恣意的ですし、動画の編集が終わったものしかアップしていませんので学問的な意味はありません。そうした前提付きでご覧ください。ただ指標になると思われる各期の古墳(これも異論は当然あると思います)と比べながら、同じ頃、畿内の内、大阪府地域ではこのような古墳が造られたかもしれないと考えることも興味深いのではないかと思います。


前期 箸墓古墳(奈良)3C央 畿内の定型化された前方後円墳としてシンボル的な意味。被葬者が卑弥呼との見方も。

中期 履中天皇陵(上石津ミサンザイ)(大阪)5C後 前方部の発達が著しい前方後円墳 

後期 市尾宮塚古墳(奈良)6C後 大型前方後円墳が減少した段階での横穴石室を持つ小規模の前方後円墳 

終末期 岩屋山古墳(奈良)7C央 切石積み石室の美しい横穴石室 方墳?


大阪府の前期古墳 

 古墳に関心を持ち始め関連図書を読み進んでいくうちに関心を持った論点の一つは、同時多発的(一斉にというわけではないでしょうが)に前方後円墳が築造されるようになったという指摘でした。ヤマト王権の権力が強まるにつれ前方後円墳は徐々に全国に広まっていったという見方とはずいぶんと違います。ならば前期に位置づけられる前方後円墳も、実際に現在でも墳丘が残され確認できるものがあるはずで、それをこの目で確かめたい。動画に収めたい。そうしたことから冒頭に書いたように気ままに訪問を重ねてきました。今回、アップした古墳を調べてみると中期(4C末から5C後半)に位置づけられる巨大古墳で有名な百舌鳥・古市古墳群よりはるか前に淀川を挟んだ東と西に墳長100m級の前方後円墳がいくつも築かれていることが改めてわかりました。研究者、古墳マニアには笑われてしまいそうですが百聞は一見に如かずとはよく言ったもので、それを身をもって実践している感じがしています。

 大きいものは100mを超える墳丘規模を有しています。淀川の西側、池田市には62m池田茶臼山古墳(以下いずれもクリックすれば飛べます)、豊中市には80m40m大石塚、小石塚古墳、淀川の東側の枚方市には108m弱の牧野車塚120m禁野車塚、はるか南に下った岸和田市には135m貝吹山が築かれています。繰り返しになりますが墳丘が残り動画撮影に耐えられるものという条件を満たしたもののみですので実際にはずっと多くの前方後円墳がこの時期、この地域に築かれたことになります。実際、石野信博編 全国古墳編年集成(雄山閣出版、1995)を見ると消滅しているものもある一方、まだ岸和田市の摩湯山古墳など有力な古墳で訪ねていないところもあります((2)に続く)。


 


 



幾ちゃんの独り言 大阪府編 2((1)からの続き)

中期には大王墓が眠る300m超級の古墳が堺市、羽曳野市、藤井寺市にまたがる地域にところ狭しと並んでいます。百舌鳥・古市古墳群です。世界遺産への登録を目指していることも知られていますが、残念なことに多くの巨大墳墓が宮内庁の管理下にあって墳丘に近づくことはできません。周濠(堀)の外側にある拝所から緑の高まりを臨むのがせいぜいです。墳長480m超の仁徳天皇陵(大仙古墳)は堺市役所の21階展望ロビーからその巨大さは実感できないとはいえませんが、上空から見る前方後円墳の形を想像することはほとんど不可能です。他の地域で整備、復元された前方後円墳を多数見てきたものからすると、別の構築物のようにもみえます。しかも考古学者はじめ専門家の方々すら近づくことは容易ではないようです。何かしらの工夫が必要だと思うのですが、皆さんはどうお考えでしょう。


 とはいえ両古墳群をこのブログから外すわけにはいけません。既にいくつかアップした古墳をご覧ください。百舌鳥古墳群では 墳長486m仁徳天皇陵(大仙古墳) (以下特段の理由がない限り古墳名をクリックすると飛べます)、290m土師ニサンザイ古墳365m履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)146mいたすけ古墳を見て頂けます。古市古墳群では墳丘に登りその大きさを実感できる墳長130m古室山古墳110m大鳥塚古墳を紹介しています。まだ墳長200mを超す郡中、最も北にある津堂城山古墳も応神天皇陵等もアップできていません。


 実はこの古墳踏査を始めるまでは知らなかったのですが、百舌鳥・古市古墳群で巨大古墳が築かれつつあった頃、周辺でも規模は小さいもの前方後円墳はじめ多数の古墳が造られています。ヤマト王権との関係が気にかかりますがいくつかの古墳は当時の姿に復元され訪れるものを楽しませてくれます。八尾市の墳長160m心合寺山古墳(以下クリックすれば飛べます)、岸和田市の墳長71m帆立貝型、風吹山古墳、豊中市の径56mの円墳、大塚古墳を紹介しています。お気に入りの心合寺山古墳は既に季節を変え三度も訪ねています。


 最後に是非ご覧いただきたいのですが巨大な前方後円墳の時代が終わり、天皇陵も小規模になりつつあった6C後半、近つ飛鳥博物館(古代史ファンには必見です)のある南河内郡河南町に径86m39mの円墳が並ぶ双円墳と呼ばれる金山古墳が造られています。39mの墳丘下には横穴石室が開口し家形石棺を確認することができます。非常によくできた復元古墳です。二度目の訪問では青空に映える雪をかぶった墳丘が異空間に私を誘い込みました。

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今回は既にアップした前二子古墳、小二子、後二子古墳同様、群馬県大室古墳群の一角を占める中二子古墳を紹介します。群中、最大規模の前方後円墳です。前橋の駅からバスで1時間ほど。次第に標高が高くなっていくことに気が付き始めた頃終点の大室公園に到着です。赤城山麓の標高130mの大地の整備された公園は、訪問した二度とも静寂に包まれていました。そこに復元された国指定の4基の前方後円墳と中小10数基の古墳が点在しています。

C初めに前二子(クリックすれば飛べます)、続いて6C前半に今回の中二子、後半に後二子(クリックすれば飛べます)古墳が、そして最後に小二子(クリックすれば飛べます)が築かれたと考えられています。畿内では前方後円墳の築造が終わりを迎えつつあった頃のことです。この地を含め上野(かみつけ、現在の群馬県)では依然として前方後円墳が造られ、これまでアップした古墳でいえば中二子の後に綿貫観音山(以下いずれもクリックすれば飛べます)、総社二子山前橋(天川)二子山と横穴石室を有する前方後円墳が築かれました(残念ながら中二子では埋葬施設は確認されていません)。葺石、埴輪なども畿内ではあまり見られなくなったにも関わらず東国では、そうした抑制的な姿勢はみられず、そのことは動画2の中二子の前堤に立ち並ぶ円筒、朝顔、盾持ち人の3000本にものぼる埴輪を思い出して頂けば十分ではないでしょうか。

墳長111mと大室古墳群中最大の前方後円墳は後二子同様に一段目のテラスが広く、それは実際の墳丘規模よりも大きく見せる効果を持っている気がします。前方部幅は後円部径よりも広く、高さも後円部と同じで後期特有の前方部の発達がみられます。墳丘の周りには幅15mほどの空の内堀が、その外淵には中堤がまわり、墳丘への道、わたりが2か所設けられています。一時期は水を湛えていたのではないかと考えられた時期もあったようですが近年の調査の結果空堀だったことが判明しています。今回で国指定の4基の古墳からなる大室古墳群のアップはとりあえず終了です。なお詳しくは前原豊さんが書かれた「東国大豪族の威勢 大室古墳群」(新泉社、2009)に詳しいです。前原さんの本ではじめて知ったのですが幕末の英国の外交官アーネスト・サトウも考古学に興味をもっていたそうで大室の地を1880年に訪れてスケッチ等残しているそうです。外国人考古学者としてはウィリアム・ゴーランド(冶金技術者として大阪造幣局に招かれ、傍ら全国の古墳の調査を行った)が有名ですが、彼以外にも日本の古墳に興味を持っていた外国人がいたとは驚きでした。
 アクセスは前橋駅北口から日本中央バス西大室線で終点の大室公園下車。50分ほどかかります。本数は日中で午前2本、午後2本程度です。ご注意ください(撮影2015930日)。



中二子古墳(大室古墳群)基本データ

所在地 群馬県前橋市西大室町

形状 前方後円墳

規模 墳長111m、後円部径66m 高さ14.8m、前方部幅79m 高さ14.8m

築造時期 6C

出土品 円筒埴輪、形象埴輪、須恵器

史跡指定 国指定

特記事項 埋葬施設は明らかになっていない

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お盆休みをいかがお過ごしでしょうか。

今回はこれまでアップしてきた167基から九州の古墳を前期、中期、後期(終末期)からいくつかピックアップして紹介したいと思います。もちろん訪問自身が恣意的ですし、動画の編集が終わったものしかアップしていませんので学問的な意味はありませんそうした前提付きでご覧ください。ただ指標になると思われる各期の古墳(これも異論は当然あると思います)と比べながら、同じ頃、九州ではこのような古墳が造られたかもしれないと考えることも興味深いのではないかと思います。いずれもクリックすれば飛べます。


前期 箸墓古墳(奈良)3C央 畿内の定型化された前方後円墳としてシンボル的な意味。被葬者が卑弥呼との見方も。

中期 履中天皇陵(上石津ミサンザイ)(大阪)5C後 前方部の発達が著しい前方後円墳 

後期 市尾宮塚古墳(奈良)6C後 大型前方後円墳が減少した段階での横穴石室を持つ小規模の前方後円墳 

終末期 岩屋山古墳(奈良)7C央 切石積み石室の美しい横穴石室 方墳?


九州の前期古墳 

はじめの頃に訪問したからでしょうか佐賀県唐津市の前期古墳、久里双水古墳(クリックすれば飛べます)はとても印象に残っています。動画を撮りに二度目の訪問を果たした時にはあいにくの雨、しかも風も吹きつけるなかでの登頂(?)となりました。規模は半分の前方後円墳ですが大分県宇佐市の赤塚古墳(クリックすれば飛べます)も瞼に焼き付いています。広大な宇佐風土記の丘公園に築造時期が前後する墳墓とともに残されています。

 中期古墳ではまだ動画撮影が終わっていない重要な古墳が残されていますが、これまでのところでは前期と同じ宇佐風土記の丘公園にある中規模の前方後円墳の福勝寺古墳(クリックすれば飛べます)、最近紹介した築造当時の様子を観察できる大型の前方後円墳亀塚古墳(クリックすれば飛べます)、それに九州からはじまった横穴石室の例としてみることもできる久保泉丸山古墳(クリックすれば飛べます)もあげておきます。

 後期古墳では福岡県博多アサヒビールの敷地内にある横穴石室が開口する前方後円墳東光寺剣塚古墳(クリックすれば飛べます)に驚かされました。一私企業が大切に古墳を丁寧に保存しているのです。公開しているのでぜひ訪ねて頂きたいと思います。

終末期古墳では九州唯一とされる畿内との緊密な関係があったとされる被葬者が眠る大分県大分市の古宮古墳(クリックすれば飛べます)を紹介しておきます。石棺の短い辺に横口がありそこに羨道がつくという独特な石室です。いずれ紹介する畿内の終末期古墳にもみられる石室です。



 


 



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  奈良盆地に4C後半から6Cにかけて築かれた馬見古墳群。今回中期古墳として紹介する一本松古墳は4C末の築造の墳長130mを数える前方後円墳です。同古墳群は北群、南群にわかれ、その間に一本松古墳が含まれる中央群が位置します。イメージ図で確認して頂きたいと思いますが、既に紹介した墳長220m巣山古墳(クリックすれば飛べます)、築造時のように復元されたナガレ山古墳(クリックすれば飛べます)も中央群に属します。一本松古墳は巣山古墳と同じ頃に築かれたことが発掘された円筒埴輪(埴輪棺墓として使用)から明らかになっています。 

動画1でおわかりのように芝に覆われた優美な墳丘が残されています。遠くから墳長130mの全体像を確認できるというのは大変珍しいといってよいと思います。それも公園化されているお陰です。墳丘の後円部径は80m、そして前方部幅は同じ80mと発達しています。残念なことに葺石、段築の有無他詳細は明らかになっていません。2006年に後円部東南部に公園施設を作ることになり調査が行われた結果小規模の方墳が検出されています。前述の円筒埴輪はその際に発掘されたものです。

 何度か馬見古墳群を歩いて気が付いたことがあります。保存整備の違いをこの目で比較確認できるのです。後円部径104mと大型のホタテ貝型として知られた乙女山古墳のように墳丘には登れるものも雑木林が繁茂するままにしてあるもの、ナガレ山古墳のように葺石を含め築造時のように復元されたもの、そして一本松古墳のように墳丘を芝で覆い保存整備したものの三種類です。全国の古墳を歩いていると大凡、この三つのタイプに区分することができます。馬見古墳群ではそれらの違いを中央群を歩くと実際に確認できるという点で実に貴重です。なお動画の番外編としてうっそうとした乙女山古墳の墳丘を短く紹介しています。

 アクセスは近鉄田原本線池部駅に隣接する河合町役場横に緑濃い総合スポーツ公園の入り口があり、そこから古墳公園につながっています。約1㎞ほどあります。徒歩15分。わかりやすく迷うことはないと思いますが役場で地図を貰うとよいでしょう(撮影2016524日)。


PNG 馬見古墳群(イメージ図)
PNG 現在の大阪市中心部から見た大型古墳群

一本松古墳基本データ

所在地 奈良県河合町

形状 前方後円墳

規模 墳長130m、後円部径80m 高さ12m、前方部幅80m 高さ4.5m

周濠、外堤あり

築造時期 4C

出土品 埴輪棺

史跡指定 

特記事項 なし




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  今回紹介する前期古墳は島根県安来市荒島の中海を遠くにみる塩津山1号墳です。後述するように多くの弥生墳丘墓、古墳時代前期の古墳がこの近くには残されています。動画1で敢えて音声を残したように墳丘下には山陰道(安来道路)が走ります。このブログで紹介してきたいくつかの古墳でも高速はじめ道路が間近に迫ったり迂回したりしているところは少なくありません。私市円山古墳(クリックすれば飛べます)も朝来茶すり山古墳(クリックすれば飛べます)もそうでした。古代と現代が融合しているさまはなかなか印象的です。大きく削り取られたり消滅の憂き目にあった数々の古墳に比べればラッキーに違いありません。地元はじめ関係者の熱意の結果だろうと思います。他方、古墳史上きわめて重要で専門書にも度々登場する古墳でも現在では考えられないような光景を残しているものもあります。その代表例は椿井大塚山古墳(クリックすれば飛べます)です。現在のように文化財の保護に関心がなかった明治期に、墳丘を大きく横断する形で鉄道が敷かれています。それでも地元の方々の協力も得て、それ以上の破壊は免れ今では古墳公園として整備されています。
  話が脱線しましたが塩津山1号墳のある島根県、荒島駅付近にはまだ紹介していない前期では最大の方墳 造山1号墳はじめ弥生時代から古墳時代にかけての墳墓が軒を並べています。訪れた日も荒島駅から古代出雲王領の丘の造山古墳公園から塩津山公園、宮山公園、仲仙寺公園と半日かければ歩くことができました。もっとも雨にも遭い塩津山1号の動画2ではご覧のようなことになってしまいました。古墳の足回りは決してよいとはいえず訪れる皆さんはよく注意して頂きたいと思います。塩津山1号は弥生墳丘墓、角がヒトデのようになっている四隅突出型の名残りのような形をとどめており復元に際しても注意が払われたようです。興味深いのは墳頂には6基もの埋葬施設があったそうで25m×20mの面積の割には多くの人々が葬られている印象を持ちました。古墳時代の前期初頭には後の時代のように後円部に一人の権力者が眠るという習慣はまだなかったのでしょうか。荒島から西に50㎞ほど離れた出雲市の西谷墳丘墓(クリックすれば飛べます)とも比較しながらご覧ください(撮影日 2016年5月11日)。




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塩津山1号墳基本データ

所在地 島根県安来市荒島町

形状 方墳(弥生墳丘墓の名残りあり)

規模 南北25m 東西20m 高さ3m

築造時期 4C

出土品 壷型土器、高杯・鼓形器台、特殊円筒器台土器

史跡指定 国指定

特記事項 中海を見下ろす標高50mの山間に位置


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  上野三碑(こうづけさんぴ)と呼ばれる現在の群馬県域に、日本に18例しかない古代の石碑が三つあります。造られた順は山上碑(やまのうえ)(681年)、多胡碑(711年頃)、金井沢碑(724年)です。なぜ三つもあるかは別にして、最も古い山上碑は、隣にある山上古墳の被葬者について書かれている墓誌という点が重要です。これまで紹介してきた古墳の被葬者の多くは特定できていませんが、山上碑のおかげで事実上被葬者を知ることができるのです。碑には、近在の放光寺の僧侶・長利(ちょうり)が母の黒売刀自(くろめとじ)のために墓を建てたことなどが書かれているそうです。ただ、石室の形態などからすれば古墳は石碑の建てられた681年より数十年前に造られたとようで(事実上と書いたのはそうした理由です)、実際には山上古墳の被葬者は黒売刀自の父であり、その後、黒売刀自が追葬されたものと専門家はみています(高崎市HP、上野三碑とは)。


 上信電鉄の山名駅から西に1㎞ほどアップダウンのきつい山間の道を歩きます。国の特別史跡なので山上碑までの標識は整備されて迷うことはありませんでしたが、最後は動画1の冒頭にあるような急な階段が続きます。頂上まであがると左に建屋に覆われた山上碑が、その隣に小さな円墳が見えます。石室は精緻な凝灰岩による切石積みです。時期は下りますが同じ群馬の総社古墳群の宝塔山古墳(クリックすれば飛べます)、蛇穴山古墳(クリックすれば飛べます)と共通するものがあります。奈良明日香村の岩屋山古墳(クリックすれば飛べます)の石室とも是非比較してご覧ください。ただ、山間にある古墳の石室ということでしょうか動画では削除しましたが石室の天井にはカマウドが密生していました。苦手な方はご注意ください。もう一つ驚いたのは奥壁前には大きな馬頭観音像が鎮座していたことでした。聞けば鎌倉時代のものだそうですが怒りの表情のように見える形相がぼんやりと浮かびあがった時には思わず後ずさりしました(撮影2015年12月17日)。


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