古墳を動画で見るサイト guami_38_36のblog

なんでも実際に見てみないと気が済まない私。古代史初学者として3世紀中頃から7世紀初頭にかけて東北から九州まで造られた5200基もの古墳の内、墳丘が残り実際に墳頂まで登れるものを訪ねはじめました。2011年秋のことです。既に先輩方が古墳のブログやHPを立ち上げられて今でも大いに刺激を受けています。ただ、権力者がなぜこれほど大きな構築物を造ったのかに興味がある私には、残念なことに大半の画像が静止画であるためにそのスケール感が伝わってきませんでした。偶然、動画で撮ってみたら案外いける。そんな思いで撮りためた古墳動画を見て頂くことにしました。素人の撮影ですから、古墳マニアや専門家の方々からは厳しいご指摘はあるかと思います。ブログでは基本情報とともに一つの古墳に3-5本程度の動画(各1分以下)を用意しました。この素人の試みが古墳を具体的にイメージする一助となれば幸いです。

■古墳時代の時期区分
 このブログでは古墳時代を広瀬和雄さん(国立歴史民俗博物館名誉教授)が通説として紹介している古墳時代を前期(3C中頃から4C後半頃)、中期(4C末頃から5C後半頃)、後期(5C末頃から7C初め頃)、終末期(7C前半頃から8C初め頃)に区分して捉えています(前方後円墳の時代、岩波新書、2010年)。
■アップの順番
 前期⇒中期⇒後期(終末期)の古墳を一基ずつワンセットにして全国の古墳を網羅することを目指しています。三基の古墳には何ら有機的な関係はありません。一つの地域に集中して前期から終末期まで掘り下げて見るのが一般的ですが、敢えてそうしなかったのは古墳時代の前期、中期、後期に全国でどのような墳墓が築かれたかを知りたいと思ったからです。古墳の築造年代は専門家の間でも様々な意見があり実年代を確定することが如何に困難なことかは承知しています。そのような限界の下でも古墳を横断的にみると今まで見えてこなかったものが見えてきたような気がします。専門分野外の古墳時代に関心を持ちはじめて日も浅い者ならではの冒険です。
■ご覧になる方法
最新記事12件についてはそのまま下にスクロールすれば見れます。各都府県別古墳は右の一覧をクリックしてください。文中にも関連の古墳に直接飛べるようにリンクを貼ってあります。

2016年02月

 今回紹介する中期古墳は岡山県岡山市にある造山古墳(つくりやまこふん)です。現在の岡山県と広島県の東部等や兵庫県の西部の一部などを支配した吉備国の地域にあり、その盟主が眠っているとされる巨大古墳です。動画1に田畑の向こうに小山のように見える後円部が映っています。少しでもその雰囲気が伝わってくるとよいのですが・・・。データからみればその規模は大阪府堺市の百舌鳥古墳群にあって履中天皇陵に治定されている上石津ミサンザイ古墳に次ぐ全国で第4位の墳長350mを有します。両古墳の差は15mほどしかありませんからほぼ同じ大きさといってよいでしょう。前方部端の幅が後円部径よりもずっと広くなっている点も同じです(造山古墳にはミサンザイと違い周濠はない)。設計は同じ専門家集団によることは測量図からも推測できるそうです。5C前半、当時の吉備がヤマト王権と密接な関係をもっていたことを示す何よりの証拠かもしれません。造山古墳の周囲にはいずれ紹介する6基の陪塚が巡っています。

 動画4、5でご覧頂きたいのですが後円部から見る前方部は木々が伐採されたためでしょうか見通しもよく圧巻です。はじめて(動画を撮るために再訪)訪れた時は夏だったので墳丘は緑に覆われ前方部を十分に見通すことができず残念な思いをしたことを思い出します。関係者の造山古墳を大切にしたいという気持ちが伝わってきます。動画2の墳丘全体を見通せるところに来場者用の駐車場があるのも粋な計らいです。後円部は戦国時代に毛利氏が城を築いたために改変されています。


 肝心なことを書き忘れるところでした。一般の人が墳丘に登れる古墳では造山古墳は日本で最大規模です。陵墓でも陵墓参考地でもないからです。そうした点でも貴重な古墳なのです。いずれ紹介する3kmほど吉備路を西に歩いた総社市の作山古墳(つくりやまこふん)も全国第9位の286mを誇り、こちらも登れます。造山と作山。同じつくりやま古墳のために地元の人は「ぞうざん」「さくざん」と呼んでいます。5C前半と中頃にそれぞれ造られています。十分に歩ける距離です。セットでどうぞ。

 アクセスはJR吉備線の備中高松駅前を走る国道180号線の備中高松の信号を右折し、二つ目の高松中学校東の信号(ここに造山古墳の⇒表示)を西に1歩き足守川を渡ると動画1の景色が広がります(撮影2015年2月22日)。

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造山古墳基本データ

所在地 岡山県岡山市北区新庄下

墳形 前方後円墳

規模 墳長350m、後円部径190m 高さ29m、前方部端幅215m 高さ 25m

三段築成、葺石あり

築造時期 5C

出土品 円筒埴輪及び楯、靭(ゆき)、蓋(きぬがさ)家などの形象埴輪、古墳本体の発掘調査は行われていない

史跡指定 国指定

特記事項 前方部の荒(こう)神社の鐘楼脇に阿蘇凝灰岩製の長持型石棺(蓋なし)が置かれている。





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111日に飯野坂古墳群(1)として築造順に観音塚、宮山の両古墳を紹介しましたが、今回はそれに続く時期に造られた山居(さんきょ)古墳を紹介します(築造順ではいずれ紹介する薬師堂古墳のほうが先)。動画でおわかりのように前の二つの前方後方墳とは違い墳丘の雑木がほとんど伐採され全体像がはっきりわかります。後方部からの眺めは素晴らしく、周辺を見下ろす高台に造られていることがわかります。この点は飯野坂古墳群(1)で紹介した観音塚、宮山も同じなのですが雑木林に覆われて眺望がききませんでした。ただ動画1でわかるように段築と勘違いしてしまいそうな凹凸があります。古墳が以前農業用地として使われたり、団地造成に際して一部削られたためだそうです(名取市教育委員会の方の説明)。飯野坂古墳群(1)(2)それにいずれアップする(3)の薬師堂を加えると、至近の距離に670mクラスの前方後方墳が立ち並んでいることになるのですから壮観です。

肝心の築造時期ですが、現地説明版では最後に造られたと考えられる山居北古墳を含め4C内に収まるとの記述から後半としました。以前は5Cに造られたとの記述もあったようですが、今回の現地説明版は2015年に設置されたものであり、こちらの解釈を採用しました。今回の山居古墳も前方部幅が後方部の一辺よりも狭く発達していないのが特徴です。また、後方部が前方部よりも高くなっています。未調査のために埋葬施設等古墳について詳しくはわかっていません。それでも国指定の史跡になっているのは、隣接する区域に前方後方墳が集中して造られており、全国的にも例をみない特異な構成をとっているから(説明板)だと理解しました。

 アクセスは名取駅からコミュニティーバスなとりん号で山居(さんきょ)住宅前で降りるのが近いとされていますが、本数が極端に少ないので東北本線館腰駅か名取駅から徒歩のほうが早いと思います。館腰駅から雷神山古墳を訪ねたあと西側入り口に出て129号線を北上し注意深く歩くと道沿いに飯野坂古墳群中最後に造られた薬師堂古墳方面の⇒が見えます。鳥居があり階段をあがると古墳があります。観音塚、宮山方面へも案内⇒はありますが、必ずHPの「位置関係はこちら」という地図を印刷して持参することをお勧めします(撮影2015年11月5日)。


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 今回紹介する金山古墳のある河南町芹生谷(せるたに)は北20kmほどのところに応神天皇陵(誉田御廟山古墳)を擁する古市古墳群、東側には葛城の山々を控える大阪平野(河内盆地)の外れに位置します。古代から南河内と大和を結ぶ交通の要衝としても重要な位置にあたるところだったようです。古市古墳群では墳丘に数少ない墳丘に登れるものの一つ古室山古墳を2015519日にアップしています。今回の金山古墳は中期の古室山古墳よりだいぶ時代が下った6C後半に造られたと考えられています。畿内では前方後円墳が造られなくなった時期にあたります。

墳丘自体は動画1でお分かりのように大小の古墳が二つ連なる非常に珍しい双円墳という形式です。単に並ぶのではなく接続されている点が古墳を造った関係者の特定の意図を感じさせます。墳丘は径55.4mの南丘のほうが三段築成で大きく、径38.6mの北丘は二段築成で南丘の7割の規模にとどまっています。両墳丘のバランスは絶妙です。もし同規模であったならば動画でみるような形の上での美しさはなかったように思うのですが、皆さんはどうお考えでしょう。

この地では全国古墳編年集成(1955、雄山閣出版)によれば前期、中期にかけて小規模な円墳、方墳(寛弘寺古墳群、いずれアップ)が造られてきたにすぎず、それだけに金山古墳は目立ちます。南北の墳丘にはそれぞれ横穴石室があり北丘の石室は開口し、中には家形二つの石棺が置かれています(南丘に関してはレーザー探査で石室を確認。未調査)、このような特徴を持つ古墳は公園として整備され墳丘にも登れますし、横穴石室内はライトアップされ石棺を確認するのに不自由は感じさせません。それにしても凝灰岩でできた家形石棺の一つが羨道部を占領しているのには驚かされました。一人目の被葬者と関係の深い二人目の被葬者を玄室に追葬しようとしたもののスペースがなかったということでしょうか。今では見学することは叶いませんが520日アップの五条野丸山古墳(見瀬丸山古墳)の石室にも二つの石棺が確認されています。

金山古墳を2年前に訪れて以来動画を撮りたいと墳丘の草刈りが終わった機会を待っていました。滅多にない雪化粧した墳丘を収めることができラッキーでした。

 アクセスは近鉄長野線の富田林駅から金剛バス寺田経由水分行で芹生谷(せりうだに)下車(富田林駅から約20分)し徒歩で3分。金山古墳の⇒標識があります(撮影2016年1月26日)。


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今回紹介する中期古墳は京都府京田辺市にある大住車塚古墳です。100mほどの距離に、南塚古墳という同規模の古墳があり、二つの前方後方墳が並ぶ姿は全国的にも珍しいといわれています。両古墳のある山城地域にある京田辺市は地図を広げてみると京都、奈良、大阪方面へのほぼ中心に位置しています。古代から重要な交通の要所であったことがわかります。動画でみるように車塚古墳の墳丘は雑木林に遮られて冬場しか十分に観察できなさそうです。それでも訪れた晩秋でも後方部に細い前方部がついた墳丘はよくわかりました。もとは水が張られていた周濠あとはきれいに残されています。南塚古墳は動画でもわかるように周濠の一部が池として残されています。残念なことに車塚古墳より墳丘は削平され、びっしりと雑木林が繁茂しています。

大住駅から歩いてくると目に飛び込んでくる二つの古墳の姿は印象的でした。動画3の最後にその光景を載せています。車塚古墳は201619日に墳丘部の下草が燃えてニュースになりました。墳丘が損壊していなければよいのですが・・・。

アクセスはJR片町線大住駅から徒歩20分です。さほど複雑ではないのですが、京田辺市の観光案内所でよく聞いたほうがよいと思います。道路には歩道がなくひやひやしましたことを付け加えておきます(撮影2015年11月24日)。



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つい最近紹介した二つの石室を持つ後期古墳の天塚古墳(129)は京都市太秦にありましたが、今回の前期古墳、天皇の杜古墳も桂川を挟んで3kmほど南に下ったところに位置します。当時桂川右岸を支配した豪族の墓ではないかといわれています。今回の古墳を含めアップ済みの中期の恵解山(201562日)、後期の物集女車塚(826日)、前期の元稲荷(127日)と京都盆地の西に南北に並ぶ西山地域と呼ばれるところに集中して築かれています。一般的なイメージとは違いなぜこれほど京都には古墳が多いのかと思っていたところ、「西山地域には、4-5世紀頃に大陸から渡来した人々(秦氏)が多数居住していました。その証拠である古墳は。京都の中でも飛び抜けて数が多く規模も大きいのです。平安遷都されるまでの京都では、西山地域が最も栄えていたことがわかります」(西京区の古墳と遺跡、京都市)という解説がありました。なるほどそういうことだったのかと改めて思います。

天皇の杜古墳は西山地域の橿原地区では最大で前期後期に造られています。元稲荷古墳など向日丘陵に築かれた前期古墳に続くものとされています。動画からおわかりのように墳丘は整備されたこともありよく保存されていますが、古来、平安時代の文徳天皇陵として親しまれてきたこととも関係があるのかもしれません。墳長83mの墳丘は後円部の径にははるかに満たない前方部端の幅で、柄鏡型の柄の部分を短くした感じです。夏は草が生い茂り墳丘はよくわかりません。

 アクセスは阪急嵐山線の桂駅西口を直進し9号線にぶつかるまで直進し左折して200mほど歩くと大きな動物病院の先に古墳が見えます。徒歩25分(撮影2015年12月10日)。




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天皇の杜古墳基本データ

所在地 京都府京都市西京区御陵塚ノ越町

形状 前方後円墳

規模 墳長83m、後円部径50.5m 高さ7.2m、前方部幅33.5m 高さ4.8m

築造時期 4C

出土品 円筒埴輪、朝顔形埴輪

史跡指定 国指定

特記事項 なし




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今回紹介する後期古墳は三重県名張市の貴人塚古墳です。同じ美旗古墳群では20151024日に馬塚古墳、1113日には毘沙門塚古墳と5C央、5C後半築造の中期古墳を紹介していますが、それに続く古墳になります。動画で見る通り田んぼのど真ん中にぽつりと残る墳丘は遠目にも目立ちます。墳長55mと決して大きいとはいえませんが、周辺に遮るものがないためかもしれません。目に入った墳丘は枯草を燃やした直後だったために焼き畑のオブジェのようでなんとも形容しがたい姿でした。新緑の季節にでも再訪する必要がありそうです。

 動画のキャプションでも触れていますが貴人塚古墳の前方部は後円部径と同じ35m、高さも同じ4.5mと発達しています。中期古墳の特徴をそのまま残した後期の古墳ということになります。3km四方の美旗盆地に点在する古墳群は全国古墳編年集成(石野博信編、1995、雄山閣出版)によれば、墳丘形状の変化から殿塚、女良塚(じょろうづか)、毘沙門塚、馬塚、貴人塚の順で築かれたと考えられているようです。残念ながら5C初頭に造られた殿塚、5C前半の女良塚は動画で紹介できるものが撮れていません。伊賀地方を支配した伊賀氏、名張氏の古墳ともいわれる古墳群の残りはいずれの機会に譲ることにしましょう。

 貴人塚古墳は、近鉄大阪線(賢島方面行)に乗り、名張から二つ目の美旗駅下車し、駅から南東方向に500mほどのところにあります。美旗古墳群全体を歩くことを前提に美旗駅近くの美旗市民センターに寄り(美旗町南西原)古墳散策の地図をもらうことがよいと思います。近鉄大阪線に並行する道路を名張方面に戻り一つ目の信号を右折し(大阪線のガードをくぐる)300mほど直進すると前方後円墳型の美旗市民センターがみえます。徒歩15分(撮影2015年10月12日)。


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貴人塚(美旗古墳群)基本データ

所在地 三重県名張市下小波田

形状 前方後円墳

規模 墳長55m、後円部径35m 高さ4.5m、前方部幅35m 高さ4.5m

築造時期 6C前半
出土品 円筒埴輪、須恵器

史跡指定 美旗古墳群として国指定

特記事項 なし



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  今回紹介する中期古墳の船塚古墳は有明海に向って広がる筑紫平野の端にあります。動画1からわかるように、どこからみても天山などの山並みが目に入る墳丘は三段築成が明瞭なこともあり、これぞ前方後円墳という感じがしました。春先や初夏の姿もみてみたいですね。墳丘の周囲には現在は農地化された幅10m以上の周堀が巡っており、さらにその外周は果樹林や水田ですから古墳を遮るものがありません。肝心の墳丘は掘削されたあとがあちこちにあり、先人たちがさまざまな意味で古墳に関心をもっていたことがわかります。前方部から登ってみるとそのスケールの大きさに驚かされます。動画3からその点が伝わるでしょうか。中期古墳の特徴である端に行くにしたがって前方部は広がり、高さも後円部と同じかそれ以上という発達ぶりが見て取れます。後円部の北側に残された7基の陪塚が主墳の船塚古墳を引き立てています。動画では3基のみその姿を追っています(動画の倍塚は陪の誤りです)。墳丘には葺石があり後円部頂からは家形埴輪が発掘され、盗掘坑からは二つの石棺が取り出されたと伝えられているようです。
  専門家の研究からは佐賀平野(筑紫平野の筑後川より西)の前方後円墳では船塚古墳(墳長114m)を筆頭に銚子塚(98m、いずれアップ)、伊勢塚(80m)が飛び抜けて大きく、あとは60m以下のクラスが多数築かれていることがわかります(蒲原宏行、古墳と豪族、風土記の考古学⑤肥前風土記の巻、同成舎、1995年)。それら三基は中期、前期、後期における最大の前方後円墳ですが、地域的には異なるところに築かれています。ということは古墳時代の佐賀平野の長は時代によって勢力範囲を変えたということになるのでしょうか。それとも佐賀平野一帯は同じ豪族が支配していたが奥津城の場所だけを変えたということになるのでしょうか。興味は尽きません。
  アクセスはJR佐賀駅佐賀バスセンターから中極(ちゅうごく)線で大久保下車。バス停すぐのホテルの角を北方向に歩き信号を直進、長崎自動車道を越えると左手に「かわでん」の九州工場が見えます。敷地を越えたところで左折すると、左手に老人ホーム・シオンの園があり、その右手に墳丘が見えます。歩いて15分。バスの本数は1時間に2本程度です(撮影2015年12月25日)。


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今回紹介する前期古墳は茨城県常陸太田市の梵天山古墳群の主墳、梵天山古墳です。20151114日にアップした石岡市の船塚山古墳は墳長184mと茨城県最大の古墳でしたが、こちらは墳長151mと第二位です。ただ築造時期は梵天山古墳の方がはるかに古く前方部が未発達等墳丘の形状からそのように考えられています(常陸太田市の説明板は不思議なことに5C半ばと中期の築造を示唆しています)。巨大な後円部に対して、前方部は細く伸びていて端にいくにしたがってやや広がっています。その特徴が動画からわかればよいのですが・・・。少なくとも中期の前方部幅が後円部を上回るような前方後円墳と違うことはわかります。529日アップの白石稲荷山古墳は後円部径92mに対して前方部幅はなんと145mもあり、舟塚山古墳も後円部径90mに対して前方部幅は100mあります。それに対して梵天山は後円部径81mに対して前方部幅は57mにしかすぎません。
  箸墓古墳(2015518日アップ)と梵天山古墳は類似の墳丘の形をしています。こうしたバチ型の墳丘をもつのは611日の岡山県の浦間茶臼山、1223日の奈良県の中山大塚古墳、いずれアップする京都府の椿井大塚山古墳も同様です。通説では定型化された前方後円墳は箸墓古墳が最初であり、それが徐々に全国に広がっていったとされていますが、同時期に畿内に限らず西国でも東国でも前方後円墳は造られ、前方後方墳を加えればさらに数は多くなるそうです。広瀬和雄さんは「いわば同時多発的に出現していたのです」と述べています(前方後円墳の世界、岩波新書、2011123頁)。歩いてみるとなるほどと思います。地方の力は想像以上にあったということなのでしょうか。それにしても類似の設計の古墳が古墳時代の初期から存在したということは、情報の伝達等はどう行ったのかなど次々に疑問が湧いてきます。
  梵天山古墳は宝金剛院の境内の裏にありましたがよく手入れされた墳丘は木々の間から差し込む光とも相まって荘厳な趣でした。動画2でその雰囲気が伝わっているでしょうか。神仏習合の典型例でしょう梵天山古墳も後円部には神社が祀られています。しかもどこかの古墳と違い控えめなところが気に入りました。神社の存在こそ墳丘が守られてきた証かもしれません。なお動画5では古墳群中の阿弥陀塚古墳を最後に付け加えています。

 アクセスは水戸駅からJR水郡線で河合町下車。徒歩30分です。バスでは乗車時に整理券をとり降車時に運賃を払いますが、水郡線の河合駅は無人駅で券売機もないため、バス同様に乗車時に整理券をとり降車時に払います。新鮮な驚きでした。徒歩30分とはいえ道順はいたって簡単です。駅前の166号線を北西方向に歩き一つ目の信号を左折、久慈川の支流を渡り500mほど歩くと右手にコンビニがあります。その手前を右折すると宝金剛院が見えてきます(撮影2016年1月13日)。


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梵天山古墳基本データ

所在地 茨城県常陸太田市島町

形状 前方後円墳

規模 墳長151m、後円部径81m 高さ13m、前方部幅57m 高さ8m

築造時期 3C

出土品 不明 埴輪、葺石、周堀は確認されていない

史跡指定 県指定

特記事項 被葬者は久慈川流域を治めていた久自(慈)国造舟瀬足尼
(くじくにのみやつこふなせのすくね)と考えられている
(茨城県教育委員会、常陸太田市教育委員会)




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今回の後期古墳では赤坂天王山古墳群の3号墳を紹介します。既にご覧になられた方も

多いと思いますが2015112日に方墳の1号墳をアップしています。今回の3号墳を含め1号墳以外はみな円墳(10基以上)だそうです。しかも一辺約50mで三段築成の1号墳に対して、一回りも二回りも小さい円墳です。そうしたところから1号墳の被葬者が特別な人物であったと考えられ暗殺された崇峻天皇の真陵ではないかというのが専門家を含め大方の見方であることをご紹介しました。

 今回の3号墳は1号墳の北側近くの雑木林のなかにひっそりと佇んでいました。この古墳も二度訪れましたが、はじめて訪れた際1号墳にたどり着けず、石室の開口部分が目に入った3号墳を1号墳と勘違いした経緯があります。1号墳に比べると開口部がやや大きいからでしょうか不気味さもあまり感じぜず入室することができました。石室の長さは1号墳が15.2mに対して9.35m、玄室長6.5mに対して4.25mとだいぶこぶりです。専門家には花崗岩で築かれた石室は「奥壁は4段、側壁は4段もしくは5段で積まれているが、石材の大きさは様々で1号墳に比べ乱雑な印象を受ける」そうです。たしかに動画で比較してみると素人目にも1号、3号の違いは明らかに思われます。とはいえ石室の側壁が天井近くになるに従い内傾するという「持ち送り」の特徴などよくわかりますし、石室を閉じる役割を果たす閉塞石の存在もはっきりと確認することができます。

 3号墳の築造の時期ですが興味深い専門家の議論があります。前述のように1号墳のみが方墳で残りは全て円墳であることから、円墳の古墳群が存在するところに方墳の1号墳が後に分け入るように造られたという見方です(桜井の横穴式石室を訪ねて 桜井市立埋蔵文化財センター、2010)。そうした解釈に立てば3号墳も1号墳よりも早く築かれたということになります。なかなか興味深い指摘です。いささか1号墳について触れすぎたような気がしますが、是非、1号墳と比較しながらご覧ください。

 アクセスは近鉄、JR桜井駅南口から宇陀方面行きで下尾口(さがりおぐち)下車徒歩10分。北口の観光案内所に地図があります(撮影2015年10月28日)。

千葉県市原市の姉崎海岸(埋め立てられてしまった)からほど近いところに築かれた前方後円墳が今回紹介する中期の姉崎二子塚古墳です。1221日にアップした六孫王原古墳も姉崎古墳群に属しますが二子塚ははるかに古く5C中頃に造られたと考えられています。墳長103m前方後円墳は群中では119mの天神山古墳(いずれアップ)に続く規模です。前方部端の幅が後円部径よりも大きく中期古墳の特徴を備えていますが、裾が大きく広がってはおらず全体として寸胴な墳丘形をしていることは動画からもおわかり頂けるのではないでしょうか。三段築成で二段のテラスに埴輪が並び、墳丘を囲む盾形の周溝が巡っていたようです。また後円部、前方部には木棺直奏の埋葬施設があったことが明らかになっています。既に盗掘を受けていましたが鏡、玉類、直刀や甲冑片、滑石製品等多数発見されているようです(銀製耳飾り、直弧文石枕は市原市埋蔵文化財調査センターの電脳展示室で見ることができます)。

養老川流域の姉崎古墳群は上海上国造(かみつうなかみのくにのみやつこ)とその前身豪族により4C中頃から継続的に造られたと考えられており、全国古墳編年集成(雄山閣、1995)によれば、天神山(いずれアップ)、釈迦山(いずれアップ)、山王山(消滅)、ずっと飛んで六孫王原の順で築かれたようです。実は二子塚古墳訪問は二度目です。以前は静止画像でした撮っていなかったうえに夏草が生い茂り墳丘の形はよくわかりませんでした。今回は天候にも恵まれラッキーでした。違いをおわかり頂くために動画の途中に静止画像を潜り込ませています。

アクセスはJR内房線姉ヶ崎駅東口から徒歩で15分ほどです。東口ロータリーから24号線に出て左折し信号を四つ越えた右手にマツモトキヨシが見えるので、その先を右折。100mほど歩くと右手に明神小学校、左手に墳丘が見えます(撮影2015年12月1日)。




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姉崎二子塚古墳基本データ

所在地 千葉県市原市姉崎

形状 前方後円墳

規模 墳長103m 後円部径50m 高さ9.5m、前方部幅52m 高さ8.5m、三段築成

盾形の周溝

築造時期 5C

出土品 鏡、玉類、直刀や甲冑片、滑石製品等多数、銀製耳飾り、直弧文石枕は市原市埋蔵文化財調査センターの電脳展示室にも展示

史跡指定 県指定

特記事項 直弧文石枕は重要文化財




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