古墳を動画で見るサイト guami_38_36のblog

なんでも実際に見てみないと気が済まない私。古代史初学者として3世紀中頃から7世紀初頭にかけて東北から九州まで造られた5200基もの古墳の内、墳丘が残り実際に墳頂まで登れるものを訪ねはじめました。2011年秋のことです。既に先輩方が古墳のブログやHPを立ち上げられて今でも大いに刺激を受けています。ただ、権力者がなぜこれほど大きな構築物を造ったのかに興味がある私には、残念なことに大半の画像が静止画であるためにそのスケール感が伝わってきませんでした。偶然、動画で撮ってみたら案外いける。そんな思いで撮りためた古墳動画を見て頂くことにしました。素人の撮影ですから、古墳マニアや専門家の方々からは厳しいご指摘はあるかと思います。ブログでは基本情報とともに一つの古墳に3-5本程度の動画(各1分以下)を用意しました。この素人の試みが古墳を具体的にイメージする一助となれば幸いです。

■古墳時代の時期区分
 このブログでは古墳時代を広瀬和雄さん(国立歴史民俗博物館名誉教授)が通説として紹介している古墳時代を前期(3C中頃から4C後半頃)、中期(4C末頃から5C後半頃)、後期(5C末頃から7C初め頃)、終末期(7C前半頃から8C初め頃)に区分して捉えています(前方後円墳の時代、岩波新書、2010年)。
■アップの順番
 前期⇒中期⇒後期(終末期)の古墳を一基ずつワンセットにして全国の古墳を網羅することを目指しています。三基の古墳には何ら有機的な関係はありません。一つの地域に集中して前期から終末期まで掘り下げて見るのが一般的ですが、敢えてそうしなかったのは古墳時代の前期、中期、後期に全国でどのような墳墓が築かれたかを知りたいと思ったからです。古墳の築造年代は専門家の間でも様々な意見があり実年代を確定することが如何に困難なことかは承知しています。そのような限界の下でも古墳を横断的にみると今まで見えてこなかったものが見えてきたような気がします。専門分野外の古墳時代に関心を持ちはじめて日も浅い者ならではの冒険です。
■ご覧になる方法
最新記事12件についてはそのまま下にスクロールすれば見れます。各都府県別古墳は右の一覧をクリックしてください。文中にも関連の古墳に直接飛べるようにリンクを貼ってあります。

2015年12月

  今回は終末期古墳に位置づけられる大分県大分市の古宮古墳を紹介します。ヤマト王権が畿内に権力を確立して以降、九州はどのような権力が存在したのだろうか。漠とした疑問を持ちながら九州の古墳を訪ね歩くのも実に興味深いです。装飾古墳の数々や岩戸山古墳が思い浮かびますが、今回は畿内との関係が極めて密接だった人物が葬られているのではないかと考えられている古宮古墳です。その理由は巨大な凝灰岩を刳り抜いた玄室がある横穴石室を有する墳墓だからということになります。現地説明版などによれば、こうした構造の石室は当時の畿内の豪族の間で流行したもので九州ではほかに例がないのだそうです。そうしたところから「被葬者は大和政権と深くかかわり、壬申の乱に活躍したことが「日本書記」に記される大分君恵尺(おおきたのきみえさか)・稚臣(わかみ)という二人の豪族のうち、特に恵尺が有力な候補者として考えられています」ということになります。

動画3の最後に付け加えた石室前からの眺めからもこの古墳の被葬者が高い地位にあったことは容易に想像がつきます。いわゆる古墳の一等地だからです。石室は入室不可ですが、中は比較的よく観察可能です。刳り抜かれた玄室は勿論ですが、羨道天井の巨大な一枚の板石にはいつものことですが感心します。残念なのは、そのような高貴なお方が眠っていた石室前に立つ無粋としか言いようのない鉄格子です。何とかしてほしいと思うのは私だけではないと思います。かなり早い時期に整備された復原古墳の石室には鉄の扉や入口をコンクリートで固めたりしているものが多く見受けられます。

アクセスですが大分駅から今回はこの踏査のルールを破ってタクシーで往復してしまいました。日没前にようやく間に合いましたが本来ならば大分交通バスの青葉台行に乗り椎迫1組で下車し徒歩の予定でした。



古宮古墳基本データ

所在地 大分県大分市大字三芳

形状 方墳

規模 南北12.5m、東西12m

築造時期 7C

出土品 不明

史跡指定 国指定

特記事項 石室全長2m、幅0.8m、高さ0.85m、羨道長 2.5m

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  JR高崎線の倉賀野駅から歩いて20分のところにある大鶴巻古墳が今回紹介する中期古墳です。中期といっても4C 末から5C初めと考えられているようで前期との境界線に位置づけられているようです。後円部から伸びた前方部の幅が狭く、後円部の高さが前方部のそれよりもずっと高いという特徴からもわかります。動画からわかるように盾形の濠がめぐり、現在は前方部の南西側の一部が農地になっていますが、驚くほどよく墳丘は保全されています。実に美しく、この墳丘を見るために何度も足を運びました。どこかでご覧になった墳丘ではありませんか。そうです。このブログのトップページが大鶴巻古墳なのです。思い入れのある古墳です。
 周囲は住宅地なので、倉賀野駅方面から歩くと、ごく間近までその存在には気づきません。角を曲がったところに墳丘が広がる、そんな感じです。しかし、古墳に住宅が迫るという感じを受けません。幅のある周濠があり、さらに道路が巡っているからでしょうか。動画は初夏に訪れた時のものですが、動画5の後半では夏本番の8月のものを使用しています。
 後円部の北側、北西側には葺石の名残と思われる川原石がみられます。残念ながら本格的な発掘調査は行われておらず埋葬施設についてもわかっていないそうです。興味深いのは北側に隣接する墳長80mの小鶴巻古墳、500mほどの距離にある大鶴巻古墳より先に築造された墳長171.5m浅間山古墳との関連です。浅間山古墳の3分の2が大鶴巻古墳、2分の1が小鶴巻古墳で墳丘も相似形といわれています。大鶴巻以外の墳丘は動画で紹介できるほど整備されていないのが残念です。
 アクセスはJR高崎線倉賀野駅から121号線に出て西に徒歩20分です。どの地図にも掲載されているようで、事前に確認すれば確実に見つけられます。JRの駅で尋ねる時にはJR倉賀野社宅はどこかを聞くのがよいでしょう。社宅の目の前が古墳です。バスを利用するまでもありません(撮影2015年6月20日、8月15日、2017年2月7日)。




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大鶴巻古墳基本データ

所在地 群馬県高崎市倉賀野

形状 前方後円墳

規模 墳長 123m、後円部径72m 高さ10.5m、前方部幅54m 高さ6.5m

盾形の周濠あり

二段築成(後円部は三段とも)

築造時期 4C

出土品 円筒埴輪、鰭付き円筒埴輪
史跡指定 国指定
特記事項 大鶴巻古墳より先に造られた浅間山古墳の三分の二の規模、埋葬施設は未確認 葺石あり




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終末期古墳としては珍しい千葉県市原市の前方後方墳、六孫王原古墳のあとは再び奈良に戻ります。ご紹介するのは箸墓古墳に続く出現期の前方後円墳ともいわれる天理市の中山大塚古墳です。墳長は130mJR桜井線の柳本駅から山の辺の道を歩くルートでは黒塚古墳⇒崇神天皇陵⇒長岳寺の次に位置します。行く手には竜王山からの山並みが続きます。動画1でわかりますように古墳の東側に立つと右手奥に巨大な西殿塚古墳(墳長220m、宮内庁は継体天皇の手白香皇女の陵に治定しているが専門家は出土品等からして真陵ではないとみている)がよく見え、左手奥には917日にアップしました前方後方墳の下池山古墳が存在します。いずれも前期古墳であり大和(オオヤマト)古墳群を形成しています。

 ご覧頂いけばおわかりのように墳丘は雑木林に覆われしかも前方部には大和神社の御旅所が設けられ改変されているようで、その形を確認することができません。そのためかはじめて訪れた時には後円部にあがる道がわからず通り過ぎてしまったほどでした。中世には山城が築かれています。再訪の今回は前述のルートで何度か地元の人にもお聞きし漸くたどり着きました。墳頂には植栽で長さ7.5m、高さ2mの石室を含む埋葬施設があった場所が図示されています。現地説明板にある発掘の際の石室内部の画像からは、角を丸くするなど当時の石積みの技術の高さを知ることができます。ただ、墳丘は後円部から見る前方部も目をこらさないとよくわからないほど木々に遮られています。おそらく墳丘に登れない陵墓や陵墓参考地もほぼこうした状況ではないかと想像することができたという意味ではこの訪問は収穫でした。


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中山大塚古墳基本データ

所在地 奈良県天理市中山町

形状 前方後円墳

規模 墳長132m、後円部径73m 高さ11.3m、前方部幅68m 高さ10.5m

築造時期 3C

出土品 槍、刀、剣、鉄鏃、銅鏡のいずれも破片、特殊器台破片

史跡指定 下池山古墳、ノムギ古墳とともに2014年に国指定

特記事項 後円部頂に7.5m×1.4mの埋葬施設(竪穴石室)、後円部二段、前方部一段築成、葺石


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市原市の姉ヶ崎と聞いて真っ先に思い出すのは簀立(すだて)。子供の頃、夏に何度か祖父に連れられて来たことがあります。簀立は遠浅の海岸の沖にしかけられた竹で作られた柵に、夜間網に入った魚を捕まえる漁法ですが、姉ヶ崎でも観光客相手に行われていました。飛び跳ねる魚にワクワクドキドキしたことを昨日のように思い出します。

 その姉ヶ崎の海岸(埋め立てられてしまった)からほど近い台地上に築かれたのが、今回紹介する終末期古墳の六孫王原古墳です。姉ヶ崎古墳群は4Cから7Cにかけて上海上国造(かみつうなかみのくにのみやつこ)とその前身豪族により継続的に築造された南関東最大の古墳群で、いずれ紹介する天神山古墳、二子塚古墳、鶴窪古墳など数基の大型古墳が残存しています。六孫王原古墳は群中最終段階に築かれています。多くの古墳が方墳に変化する中、極めて珍しいことに前方後方墳です。このブログで紹介する古墳のなかで、はじめてになります。後方部には凝灰質砂岩製の切石積み横穴石室が設けられていました(六孫王原古墳にかかわる記述は現地説明板による)。残念ながら南側に開口する石室は民有地にあるために近づくことはできませんでしたが、内部も砂岩製ということもあり崩壊が進んでいるそうです(市原市教育委員会)。

 墳丘も元の姿とはだいぶ異なっているようで、とりわけ前方部がバチ形に広がっている点は想像を巡らせるしかありませんでした。しかし、後方部の方形はよく確認できましたし、長方形の周堀のなかに浮かぶ朝日に映える草刈りの終わった墳丘は大変印象的でした。残念ながら墳丘の南半分は民間所有で荒れ果てたまま。惜しいの一言です。それにしても前方部から見上げると高層マンションが聳え、古墳の周囲は動画からお分かりのように野菜畑。古代と現代、都会と農村が共存する不思議な光景です。

 アクセスですが姉ヶ崎駅から徒歩が地形の変化もよくわかりお勧めです。姉ヶ崎駅から椎津変電所のある交差点を目指し歩き、そこから登りになる姉崎神社の東側の道路を道なりに直進し、姉崎東中学校を右手にみながら二つ目の信号まで進みます。信号をわたるとダイアパレスのマンションです。その裏手にある細い道を道なり進むと古墳にたどりつきます。徒歩30分。途中に窪塚古墳も、帰り道には天神山や二子塚古墳に寄ることもできるルートです。

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六孫王原古墳基本データ

所在地 千葉県市原市姉崎

形状 前方後方墳

墳長 45.6m 後方部 27.4m×28m 高さ2.5m、前方部幅 32m 高さ1m

築造時期 7C

出土品 金銅製馬具の破片、直刀、刀子、鉄鏃、須恵器大甕等

史跡指定 市指定

特記事項 終末期では珍しい前方後方墳、横穴石室


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  今回は濃尾平野の北西端に位置する岐阜県大野町にある野古墳群を構成する南屋敷西古墳を紹介します。大野町は西に揖斐川、東にその支流の根尾川が流れ、水と緑に囲まれた自然豊かな町ですとHPに書かれていますが、決して大げさではない気がしました。南屋敷西古墳の動画から、その一部でも伝わってくれば嬉しいのですが・・・。

 濃尾平野と古墳というと、少々古墳時代が頭に入り出した私には前方後方墳が思い浮かびます。しかし、この野古墳群は中期から後期(5C後半から6C初頭)にかけて造られたこともあり前方後円墳や円墳の17基からなっています。内前方後円墳は8基です。南屋敷西古墳も墳長76mの前方後円墳です。残念ながら開墾等で消滅した古墳も多く現在9基が残っています。古墳群は各地にありますが、500m四方ほどの狭い地域に密集している野古墳群の数々は壮観といってよいでしょう。野古墳群に先駆けて造られた上磯古墳群(いずれ紹介)には複数の前方後方墳があります。
 それにしても見事な野村もみじです。晩秋落葉するまでに葉の色が7度変わるといわれているそうですが、訪れた時期はその直前、燃えるような赤一色でした。その間に点在するいくつかの古墳。絶妙なバランスです。南屋敷西古墳は動画2でおわかりのように後円部の東側はかつて炭焼きが行われたいたために大きく抉られています。そのためもあって前方部が大きく見えますが測量図をみると後円部の径は前方部幅の倍近い54mもあります。

 アクセスは大変不便です。岐阜駅から岐阜バス 大野バスセンター行に乗り約1時間。終点で下車、徒歩15分です。本数は現地を見学できる本数は日に3、4本ほどです。事前に十分確認が必要です。バスセンター前には大野町役場があり、その隣には立派な図書館もあります。役場で野古墳群までの地図を貰うとよいでしょう。


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南屋敷西古墳(野古墳群)基本データ

所在地 岐阜県揖斐郡大野町

形状 前方後円墳

規模 墳長 76m、後円部径54m 高さ5.4m、前方部幅28m 高さ4m

2段築成

築造年代 5C

出土品 埴輪片

史跡指定 野古墳群として国指定

特記事項 葺石あり



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 今回の前期古墳は栃木県大田原市湯津上にある墳長84mの前方後方墳、下侍塚古墳です。既に118日に紹介した那須八幡塚古墳同様、那珂川に沿った段丘上に位置します。徳川光圀公の命で発掘が行われたことでも有名で、調査後、崩壊を防ぐために行われた松の植林は美しい墳丘として古墳ファンにはよく知られた存在です。もっとも、今では松くい虫の被害や松の根が大きくなりすぎて却って墳丘を壊すのではないかとの声も聞かれます。それはともかく、ようやくたどり着き、田畑の広がる東側からみた下侍塚古墳はたしかに枝ぶりの良い盆栽をみるようで感激しました。周辺には侍塚古墳群があり、そのコントラストがまた美しいのです。墳丘にあがってみると動画からもわかるように、後方部と前方部の高低差が大きく、また前方部が発達していないのが特徴です。
 残念ながら西側は294号線がとおり、結構、車の行き来が激しいです。道路を挟んで大田原市なす風土記の丘湯津上資料館があり、いずれ紹介する上侍塚古墳も含め豊富が情報が得られます。特別展もしばしば開催されています。是非、チェックを。
なお動画5は下侍塚古墳に隣接する方墳、円墳、前方後円墳からなる侍塚古墳群から見た下侍塚古墳と題して編集したものです。多少なりとも位置関係がおわかり頂けるでしょうか。なお築造時期は下侍塚と同時期と考えられる8号、6C代の5号などを除けば詳細は不明です。 

 アクセスはお世辞にもよいとはいえません。東京からだと一日がかりです。バスも下侍塚古墳を見学できる時間に到着できるのは日に2本しかないので注意が必要です。西那須野駅から東野バス五峯の湯行きで黒羽支所まで行き、今回の場合30分待って(前回はほとんど待たずに接続のバスがあった)、大田原市営バス黒羽・佐良土線に乗り換え侍塚駐車場下車です。もっとも上侍塚古墳、上侍塚古墳も近くに位置していますし、侍塚古墳群が下侍塚古墳横に控えます。見応え、訪ねる価値は十分すぎるほどです。計画を十分に練ってお出かけください。PNG shimosamuraizuka zu



下侍塚古墳基本データ

所在地 栃木県大田原市湯津上

形状 前方後方墳

規模 墳長 84m、後方部48×48m 高さ9.4m、前方部幅38m 高さ5m

築造時期 4C

出土品 鏡、太刀片、土師器(いずれも江戸時代に発掘され絵図に残された後埋め戻された)

史跡指定 国指定

特記事項 1692年(元禄5年)に、1676年(延宝4年)に付近で発見された那須国造碑の碑文内容解明のため徳川光圀の命により発掘調査が行われた(前方後方墳の世界 栃木県立なす風土記の丘資料館、1993年)。関連を裏付ける墓誌などは発見できなかったため。出土品は絵図に記録されたのち埋め戻されたとされる。

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はじめてアクセスして下さった方へ

 

このブログでは古墳時代を広瀬和雄さん(国立歴史民俗博物館名誉教授)が通説として紹介している古墳時代を前期(3C中頃から4C後半頃)、中期(4C末頃から5C後半頃)、後期(5C末頃から7C初め頃)、終末期(7C前半頃から8C初め頃)に区分してとらえています(前方後円墳の時代、岩波新書、2010年)。

そして前期⇒中期⇒後期(終末期)の古墳を一基ずつワンセットにして全国の古墳(基本的には墳丘に登れるもの)を網羅することを目指しています。一つのセットに含まれる三基の古墳には何ら有機的な関係はありません。一つの地域に集中して前期から終末期まで掘り下げて古墳の変遷を見るというのが常道でしょうが、敢えてそうしませんでした。古墳時代の前期に、あるいは後期に全国でどのような墳墓が築かれたのかを知りたいと思ったからです。

もとより古墳の築造年代については専門家の間でも様々な意見があり、そもそもA古墳の築造時期が5C後半という実年代を確定することが如何に困難なことか承知しています。そのような限界があっても、横に古墳を並べてみると今まで見えてこなかったものが見えてきたような気がするのも事実です。専門分野外のこの時代に関心を持ちはじめて日も浅い者ならではの冒険です。今後もこの方式を続けていきたいと思っています。

今回は1019日、115日にアップした前二子古墳、小二子古墳同様、群馬県大室古墳群の一角を占める後二子古墳を紹介します。動画でどこまで伝えられたかはわかりませんが、木々に囲まれた古墳群は美しいの一言です。史跡指定の範囲が広域なためか周囲の喧騒とは無縁なのです。前二子、中二子、後二子、小二子古墳の四基の前方後円墳が築造時と同じ場所にその見事な姿を見ることができます。全国各地の古墳公園のなかでも屈指といってよいでしょう。

その後二子古墳ですが埴輪が立ち並ぶ小二子古墳の東隣りに位置します。規模は小二子に比べはるかに大きく墳長は85mです。しかも周囲を巡る幅の広い堀、一段目の広いテラスがさらに大ぶりな印象を与えます。見学者にとり見逃せないのは開口している全長9mの石室です。羨道幅よりも玄室が広くなる両袖型を採用し輝石安山岩で造られています。また、石室に至るテラスには墓道が造られ祭祀が行われた際に用いられたと思われる埴輪が並びます。残念ながら玄室までは入れませんが自動的に照明がつくようになっていて見学者には親切です。さまざまな条件が整っていたからこのようなことが可能になったのでしょうが、全国規模でみればごく少数です。残念なことです。

  アクセスは前橋駅北口から日本中央バス西大室線で終点の大室公園下車。50分ほどかかります。本数は日中で午前2本、午後2本程度です。ご注意ください。


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後二子古墳(大室古墳群)データ

所在地 群馬県前橋市西大室町

形状 前方後円墳

規模 墳長85m、後円部径48m 高さ11.5m、前方部幅59.5m 高さ不明

築造年代 6C後半

出土品 大刀、馬具、耳環等、墳頂及びテラスから円筒埴輪

史跡指定 国指定(前、中、小古墳とともに)

特記事項 盾型に巡る周堀を入れると全長106m。また段築は1段目を大きく造り、その上に小さな2段目が載る構造で、6世紀の栃木県の古墳に特に見られ下野型古墳と呼ばれている(いずれアップする栃木県の吾妻古墳が典型例)。


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今回の中期古墳は奈良県桜井市の茅原大古墳です。簡単な位置関係の図からおわかりのようにこのブログで最初に紹介した箸墓古墳、84日アップのホケノ山古墳からほど近い三輪山の西の裾に位置しています。築造は前方後円墳出現期のホケノ山、定型化された最初の前方後円墳である箸墓、そして茅原大墓の順で行われたようです。動画3でも紹介していますが墳頂からは手に取るように緑に覆われた巨大な箸墓の墳丘がみえます。

今回の主役茅原大墓古墳ですが、ホケノ山古墳を後にして纏向川を渡ると、ひっそりとしたたたずまいの家並の先に田畑が広がります。そして三輪山のほうに目を向けると動画1の墳丘が目に入ります。実に印象深い景色です。その威容を遮るものがほとんどないのです。5段に見間違いそうな墳丘ですが後円部3段、短い前方部は2段の帆立貝式の前方後円墳です。墳長は86mです。十分な大きさだと思いますが、箸墓古墳以後200m超級の墳丘を持つ巨大前方後円墳を築造してきたこの地の中ではぐっと小規模ということになります。なぜなのかと思っていたところ偶然に次のような専門家の解釈を見つけました。そういうことだったのかと納得しました。長くなりますが引用します。

「茅原大墓古墳は、奈良盆地東南部で3世紀代から続く大型古墳の系列の最後に位置付けられます。この地域では、それ以前は200m以上の巨大前方後円墳が築造されてきましたが、4世紀後半以降になるとそうした巨大古墳は築造されなくなり、かわって奈良盆地北部や河内地域において集中して築造されるようになります。これは当時の政権内における勢力変動を反映しているとされており、この時期になると奈良盆地東南部の勢力は衰退し、盆地北部や河内地域を根拠とする勢力がより強大になったと考えることができます。茅原大墓古墳は全長約86mとそれ以前の巨大な前方後円墳に比べると著しく小さくなっています。また「帆立貝式古墳」とよばれる古墳の形態は、茅原大墓古墳と同じ4世紀末頃より多く見られるようになりますが、これは前方後円墳を築造することが「規制」された結果、創出されたものという考え方があります。茅原大墓古墳に葬られた首長も、そうした規制を受けた可能性があります」(国史跡茅原大墓古墳第5次調査現地説明会資料、2012218日、桜井市教育委員会)。

アクセスは略図に書きましたようにJR桜井線巻向駅から南に徒歩で20分です。案内版がしっかりしているので迷うことはないでしょう。PNG chiharahoka 三墓の位置関係
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茅原大墓古墳データ

所在地 奈良県桜井市茅原

形状 帆立貝型前方後円墳

規模 墳長86m、後円部径56m 高さ8m、前方部幅29m 高さ2m

築造時期 4C

出土品 円筒埴輪、家形埴輪

史跡指定 国指定

特記事項 出土した盾持人埴輪で最古。

C後半からはじまる奈良盆地東南部の巨大前方後円墳の築造は4C後半には終わり、その最後に位置づけられるのが茅原大墓古墳。しかしそれまでの200m級の巨大古墳に比べればはるかに小規模の86mにとどまる。

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今回の前期古墳は京都府向日市(むこう)の元稲荷古墳です。京都というと真っ先に思い浮かべるのは寺社仏閣ですが、古墳踏査をはじめて以来、古墳の宝庫でもあることがよくわかりました。日本海側にはいずれ紹介する神明山古墳などの巨大古墳や、長岡京市の中期古墳恵解山(いげのやま)(62日アップ)古墳、さらには後期古墳の物集女車塚古墳(826日)もあります。

東海道新幹線が京都駅を離れ新大阪方面へ下りはじめると車窓の右手に山並みが広がります。古代から乙訓(おとくに)と呼ばれてきた地域です。向日市と長岡京市が含まれるこの地域の向日丘陵に今回の元稲荷古墳が、寺戸大塚古墳、五塚原古墳と並び位置しています。前方後方、前方後円という違いはあれ、100mを少し下回る墳長という点でも共通しています。それらの墳墓は有力豪族、しかも極めて権力のある豪族が一定期間、乙訓で絶大な影響力を発揮していたと想像することができます。三つの古墳は元稲荷、寺戸大塚、五塚原の順で築造されたと考えられています(向日丘陵の前期古墳、向日市文化資料館、2004)。考古学者の都出比呂志さんは、古代国家はいつ成立したか(岩波新書、2011)のなかで、古墳時代の中央権力と地方首長系譜の変動について、乙訓地域を具体例に詳細に論じています。是非、関心のある方はお読みになればと思います。

肝心の元稲荷古墳は墳長94mの前方後方墳で繰り返し発掘調査が行われその全貌が明らかになっています。動画からも前方部先端が後方部よりもやや大きく、ハの形であることがわかりますが、最近の調査では、墳丘の形態と構造を重視すれば、前方部がバチ型のより古式の前方後円墳(五塚原古墳)よりは新しいとの見方も示されています(元稲荷古墳第五次調査、現地説明会資料、2009221日、Web上でアクセス可能)。

向日市役所正面の競輪場先の向日神社境内にある古墳は後方部墳頂に1950年代に設置された給水塔が全体を占領しているといっても過言ではありません。何とも異様な光景で残念の一言です(これは、岡山県倉敷市の盾築墳丘墓と同様です)。聞けば既に使われていないとのこと。取り外せないものかと考えてしまいます。動画では極力避けて撮影しましたが、1をよく見ると給水塔をみることができます。向日神社や関係者の皆さんの努力で墳丘がよく残されているだけにそう思います。皆さんはどうお考えでしょうか。

アクセスはJR向日町から徒歩で15分、あるいは阪急京都線東向日からはより近く徒歩で10分です。市役所を目指し裏手にある文化資料館で古墳マップを入手して歩かれるとよいと思います。動画4ではお見苦しいところがあります。そのまま残しました。

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元稲荷古墳基本データ

所在地 京都府向日市向日町

形状 前方後方墳

規模 墳長94m、後方部52×52 高さ7m、前方部幅46m 高さ3m

築造時期 3C

出土品 銅鏃、刀、剣、槍、矛等鉄製武器、斧、錐等鉄製工具、土師器壺、埴輪

史跡指定 国指定

特記事項 後方部埋葬施設 竪穴式石室 石室全長5.6m、北端幅1.3m 南端の幅1m 高さ1.9m、天井石11枚、石室高さが一般の前期古墳よりも高い(向日丘陵の前期古墳、向日市文化資料館、2004

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