古墳を動画で見るサイト guami_38_36のblog

なんでも実際に見てみないと気が済まない私。古代史初学者として3世紀中頃から7世紀初頭にかけて東北から九州まで造られた5200基もの古墳の内、墳丘が残り実際に墳頂まで登れるものを訪ねはじめました。2011年秋のことです。既に先輩方が古墳のブログやHPを立ち上げられて今でも大いに刺激を受けています。ただ、権力者がなぜこれほど大きな構築物を造ったのかに興味がある私には、残念なことに大半の画像が静止画であるためにそのスケール感が伝わってきませんでした。偶然、動画で撮ってみたら案外いける。そんな思いで撮りためた古墳動画を見て頂くことにしました。素人の撮影ですから、古墳マニアや専門家の方々からは厳しいご指摘はあるかと思います。ブログでは基本情報とともに一つの古墳に3-5本程度の動画(各1分以下)を用意しました。この素人の試みが古墳を具体的にイメージする一助となれば幸いです。

■古墳時代の時期区分
 このブログでは古墳時代を広瀬和雄さん(国立歴史民俗博物館名誉教授)が通説として紹介している古墳時代を前期(3C中頃から4C後半頃)、中期(4C末頃から5C後半頃)、後期(5C末頃から7C初め頃)、終末期(7C前半頃から8C初め頃)に区分して捉えています(前方後円墳の時代、岩波新書、2010年)。
■アップの順番
 前期⇒中期⇒後期(終末期)の古墳を一基ずつワンセットにして全国の古墳を網羅することを目指しています。三基の古墳には何ら有機的な関係はありません。一つの地域に集中して前期から終末期まで掘り下げて見るのが一般的ですが、敢えてそうしなかったのは古墳時代の前期、中期、後期に全国でどのような墳墓が築かれたかを知りたいと思ったからです。古墳の築造年代は専門家の間でも様々な意見があり実年代を確定することが如何に困難なことかは承知しています。そのような限界の下でも古墳を横断的にみると今まで見えてこなかったものが見えてきたような気がします。専門分野外の古墳時代に関心を持ちはじめて日も浅い者ならではの冒険です。
■ご覧になる方法
最新記事12件についてはそのまま下にスクロールすれば見れます。各都府県別古墳は右の一覧をクリックしてください。文中にも関連の古墳に直接飛べるようにリンクを貼ってあります。

 今回紹介する中期古墳は大阪府藤井寺市、羽曳野市に展開する古市古墳群の中の二つの前方後円墳です。墳長103mのはざみ山古墳と同145mの野中宮山古墳です。古市古墳群では墳長425mと最大の大きさを誇る応神天皇陵(全国第二位)に治定される誉田御廟山古墳が有名ですが、それ以外にもいくつもの前方後円墳があります。100m以上でも15基もあります。全国で100m超の前方後円墳は302基といわれていますから、古市古墳群の凝集性(狭い地域に密集)が如何に群を抜いているかがわかります。とはいえそのうち11基は宮内庁の陵墓あるいは陵墓参考地になっているために本格的な調査はもちろん、一般人には遠目にそのこんもりとした森を眺めるにことしかできません。このブログでは同古墳群で墳丘に登れる150m古室山110m大鳥塚、それに白鳥陵・清寧陵(いずれもクリックすれば飛べます)を紹介しています。

 本題に戻ります。はざみ山と野中宮山、二つの古墳を一度に紹介するのはそれほど深い理由があるわけではありません。ただ、道を隔てて100mほどの距離にあるということと、動画を見て頂ければおわかりのように野中宮山古墳の方は墳丘に登れるものの改変が著しく単独で紹介するには材料が不足しているからです。色々な事情があったのでしょうが残念です。はざみ山古墳のほうは周濠が開発のため後円部側が埋め立てられているものの墳丘の全体を遠くから観察できます。後円部よりも前方部幅が大きい中期古墳の様子もとらえることができますし墳丘の裾部分がかなり浸食されていることもわかります。こちらは国指定史跡になっています。築造時期は出土品などから野中宮山が5C前半、はざみ山が5C中頃といわれています。興味深いのははざみ山が後円部を西に向けているのに対して、野中宮山は反対に後円部を東に向けていることです。近接して造られているのですから同じ方向を向いてもよさそうですね。ある考古学者に聞いたところ古墳の主軸がどちらを向いているかについてはそれほど規則性はなく地形上の制約によるところが大きいとの答えでした。たしかに古市古墳群も百舌鳥古墳群もオオヤマト古墳群の各古墳もそれぞれ異なる方向を向いています。もっとも奈良の佐紀古墳群のように大半が後円部が北を向いている例もあります(塩塚古墳、クリックすれば飛べます)。
 アクセスは近鉄南大阪線古市駅で下車、北300mにある羽曳野市役所前の170号線をさらに北上し野中東の信号を左折し100mほど歩くと左に野中宮山、右にはざみ山古墳が見えます。駅から15分ほどです(撮影2016926日)。
PNG hazami&nonakamiyayama shusei




にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

今回紹介する前期古墳の光正寺古墳は安産祈願で知られる宇美八幡宮近くにあります。墳長53mと墳丘は小さいものの周辺が谷となった丘陵を利用したためでしょうか、ずっと大きく見えます。三段築成の後円部に短めの二段築成の前方部からなる墳丘は葺石こそないものの(築造当時はあった)、よくできた復元古墳です。後円部に比べ前方部の高さが低く狭く前期古墳、それもかなり早い段階のものではないかと素人目にもわかります。現地の説明版によれば埋葬施設の第一主体部から出土した土師器から古墳は前期古墳としても最も古い3C後半に位置づけられるそうです。九州の前期古墳としてこれまで紹介してきたのは大分の赤塚古墳(以下三基の古墳は古墳名をクリックすれば直接飛べます)や佐賀の久里双水古墳、福岡の那珂八幡古墳ですが、那珂八幡についで古いということになります。いずれにせよ箸墓古墳が造られてほどなくして筑前(筑紫、現在の福岡県の玄界灘側)の地にも前方後円墳がいくつも造られていることは実に興味深いことです。このことは前方後円墳がヤマトの地から徐々に全国に広まったのではなく、かなり早い段階で、時間の流れが遅い古墳時代においては同時期にといってもよいくらいの時期に地方においても築かれたことを意味します。

 初めて訪れたのは古墳踏査を開始してほどない20135月でしたが、今回の再訪で古墳の特徴がようやく理解できた気がしました。近くには光正寺古墳より約100年後に造られた七夕池古墳があります。前回は機会を逸しましたが、今回は七夕池からみた光正寺古墳も動画1でお楽しみいただけます。おそらくこの角度からの眺めは周辺に密集した住宅を別にすれば当時と今も変わらないのではないでしょうか。不思議な気がします。もっとも墳丘全体を間近から収めることは古墳が丘の先端を利用して造られたという事情もあり厳しい状況でした。とはいえ動画2、3では後円部と前方部の高低差などよくわかると思われます。アクセスはJR香椎線宇美駅で下車し西方向に歩き県道68号線出たら宇美八幡方面に北西方面に500mほど進みます。九州自動車道を越えて一つ目を右折し(光正寺古墳と看板あり)、道なりにさらに500mほど歩き一つ目の信号の左が古墳公園です。駅から徒歩で30分弱です(撮影20161226日)。PNG  koushouji umimahci zu



光正寺古墳基本データ

所在地 福岡県宇美町光正寺

形状 前方後円墳

規模 墳長54m 後円部径34m 高さ5m、前方部幅20m 高さ3m

後円部3段、前方部2段築成

築造時期 3C央から後半

出土品 勾玉や管玉、刀剣類、刀子、土師器

史跡指定 国

特記事項 墳頂に5基の埋葬施設(箱式石棺3、木棺1、土器棺1)があることがわかっている。また被葬者は3C半ばに書かれた「魏志倭人伝」に登場する倭を構成する一国、不彌国(ふみこく)(奴国の隣国)の首長ではないかとの見方もある。



にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

 今回もまた大型の横穴石室をもつ終末期の古墳、奈良県天理市の峯塚古墳を紹介することにします。このブログのアップの順番は前期(出現期)→中期→後期(終末期)をワンセットにして繰り返すという方法をとっていますが、後期(終末期)に見学可能な古墳が多く

未アップのものが溜まってしまったのです。ご容赦ください。それにしても迫力のある終末期古墳です。素人目にもどこかで見たことがある石室と思ったらなるほどかなり早い段階でアップした近鉄飛鳥駅にほど近い岩屋山古墳(クリックすれば飛べます)によく似ていました。現状は岩屋山古墳が多くの見学者を受け入れているだけあって周囲も整備されているのに対して、峯塚古墳のほうは竹藪の蔭にひっそりとたたずんでいます。調べてみると近畿の石室編年ではこの峯塚古墳は岩屋山式に分類されています。どうりで似ているわけです。玄室の奥壁が二段、羨道の玄室寄りが一段、入口近くが二段の巨石からなっているのが特徴です。羨道の入り口部分は土砂でかなり埋まっていますが注意深く入るとすぐに巨大な空間が広がります。驚きです。

 このブログでは理屈抜きに見学可能な石室を紹介していますが、それぞれに個性豊かで見る者を飽きさせません。ひとつ明らかなことは終末期に近づくになるにつれ用いられている石材が大型化し切石積みが多く、羨道も長くなっていることです。武骨な荒々しさを残している石室として島根県松江市の岡田山1号墳(クリックすれば飛べます。動画3をご覧ください)をあげておきます。完成度という点では群馬県総社町の宝塔山古墳(クリックすれば飛べます)を思い出さざるを得ません。白石太一郎さんはこうした特徴は「小さな割石や自然石塊で大きな空間を構成しなければならないという構造上の問題点を用材の巨石化によって克服していったこと、さらに追葬が盛んに行われるようになって羨道部も埋葬の場所として玄室と同じ役割をもつようになったから」と述べています(古墳の知識Ⅰ、墳丘と内部構造、東京美術、1985)。そして奈良県、大阪府では一つ前に紹介した お亀石古墳のような横口式石槨が登場します。

 アクセスですが近鉄天理線天理駅から徒歩30分です。バスもありますが本数が少なく歩いたほうが早いと思います。天理高校前の道を南に下り(西山古墳を右にみながら、クリックすれば飛べます。是非ご覧を)、杣之内町南の信号を越え一つ目を左折、100mほど歩くと左手に天理親里競技場のフェンスが見えます。右手を見ると動画1の冒頭です。白い説明板沿いに南に歩くとすぐにお地蔵さんが見えるので手前の細い道を道なりに歩いていくとイノシシよけのフェンスがあり(針金を外し出入りは可能、教育委員会の説明)中に進むと左に竹藪があり古墳にたどりつきます(撮影2016118日)。


にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

 古墳ファン 中でも石室ファンにはさほど珍しくもないかもしれませんが さほどこの世界を探訪して長くはない私には新鮮な驚きでした。古墳の大型化の時代は既に終わり、できるだけ規模を縮小して被葬者の霊を弔うということなのでしょうか。羨道、玄室、その中に石棺というこれまで見てきた石室とは違い、羨道に直接大型の石棺が接続されています。節約志向です。その石棺の短辺には横口が開いています。切り口がきれいなので盗掘孔ではないことはすぐにわかりました。蓋石も残されていると現地説明版にありましたが、発見できず。富田林市の教育委員会に聞いたところ委員会が保管しているそうです。そういえば石棺の長辺に横口が開き霊魂が外界と行き来できるようにしていると聞いたのは出雲市の今市大念寺古墳(クリックすれば飛べます)でした。お亀石古墳の横口は狭すぎてそれは難しそうです。

 そのお亀石古墳。富田林市の北1㎞ほどのところの山間にありました。近年の調査の結果一辺21mの方墳ということがわかっています。ただ動画でおわかりのように封土はほとんど削られ石舞台(クリックすれば飛べます)ほどではありませんが埋葬施設が露出しています。羨道左右の壁石を支えるまぐさ石を屈みながら進むと先に家形石棺が見えてきました。縄掛け突起が印象的です。その後、石室上部にまわると残りの縄掛け突起が夏草の影に覗いていました。動画2でご覧ください。また現地説明板は家形石棺の周囲には古墳の東南部に位置する飛鳥時代の新堂廃寺の瓦に共通する百済様式のものが積み上げられていたとし、被葬者が同寺の施主ではなかったかと書いています。

 この横口式石槨について白石太一郎さん(近つ飛鳥博物館館長)は「古墳時代の終末期には近畿地方の奈良県、大阪府を中心に、横口式石槨とよばれる、石棺様の一方の短辺側に横口を設け、さらにその前に羨道などを設けた埋葬施設が出現します。この施設は九州や山陰地方の石棺式石室と共通の要素をもつものですが、明らかに系譜を異にします」(古墳の知識Ⅰ 墳丘と内部構造、東京美術、1985)と述べています。お亀石古墳は家形石棺そのものの外観残されているという点で比較的古式のものとみられているようです。ご関心のある方は是非、白石本をお読みください。

 アクセスは近鉄大阪線富田林駅下車 北口に出て昭和町北信号を右折、次の緑が丘の信号を左折、緑が丘住宅をとおりすぎ200mほど進むと突き当りるのでそのまま西沿いにしばらく歩くと動画1の冒頭のところにでます。徒歩20分ほど(撮影2016年8月9日)。
okameishi habikino zu

  2017年最初に紹介するのは栃木県小山市にある大型の前方後円墳 琵琶塚古墳です。とても気に入っている美しい墳丘を澄み切った青空をバックにとらえることができました。墳長120m級の前方後円墳はこれまでいくつも紹介していますが200mも離れたところからその姿を目にすることができるのはこの琵琶塚がはじめてでした(動画4)。開発が進み周辺が住宅に囲まれないことを祈るばかりです。

 下野市・壬生町周辺の古墳群(両市町教育委員会)によれば栃木県(下毛野)のこの地域には、5C末に忽然と大型の前方後円墳摩利支天古墳が登場し、6C初めから前半に琵琶塚古墳、後半には吾妻古墳と続いて築かれたようです。墳長はそれぞれ120m125m127mですから、代々の首長墓だということがわかります。いずれも思川沿いにあります。ずっと時期は下りますが、北に進むと既に紹介した牛塚古墳(クリックすれば飛べます)が6C末に、また径82mの超大型円墳(いずれアップ)車塚古墳が7C前半に築かれています。興味深いことに摩利支天にはじまり思川沿いに南から北に時間がたつにつれ築造地が北に上っていることです。このことに特段の意味があるのでしょうか。 

 琵琶塚古墳は動画からはあまり判然としませんが段築の一段目のテラスの幅が広いというこの地域の特徴を備えているようです。たとえば隣の上毛野にあたる群馬県高崎市の大室古墳群の中二子古墳に明瞭です(クリックすれば飛べます)。また周濠がめぐっていてそれを含めると200mを越す、まさに首長墓にふさわしい規模です。丁度発掘調査が行われており掘り下げた墳丘の断面から墳丘が単なる土の塊でないことがよくわかりました。古墳はまさに古代の土木技術を駆使した「作品」といえるのではないでしょうか。

 古墳には責任はありませんが、わかりにくいのは言及した(言及していないものもある)一群の古墳が小山市、下野市、壬生町にまたがっていることです。琵琶塚古墳は小山市にありますがパンフレットを作製したのは下野市と壬生町の教育委員会、発掘調査は小山市、部外者にはそのあたりの管轄がまったくわかりません。アクセスは下野市にある小金井駅から西に国分尼寺跡を目指し姿川を渡ったところを左折し南に下ると右手に琵琶塚古墳が見えます。徒歩40分。西口にある下野市観光案内所でわかりやすい地図をくれます。また琵琶塚、摩利支天を経て吾妻古墳に向かって歩く途中にしもつけ風土記の丘資料館があります。充実した展示内容です(撮影2016128日)。

 PNG biwatsuka zu 修正


琵琶塚古墳基本データ

所在地 栃木県小山市大字飯塚

形状 前方後円墳

規模 墳長125m、後円部径75m 高さ11m、前方部幅70m 高さ9m 後円部三段、前方部二段築成

築造時期 6C

出土品 埴輪

特記事項 栃木県では吾妻古墳に続く第二位の規模、埋葬施設は不明


にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

あけましておめでとうございます。

 いつも立ち寄ってくださっている方々、またはじめてアクセスしてくださった方々、新年をどのようにお迎えでしょうか。今年も継続して古墳動画をアップしてまいります。あれもないこれもない状態ですがご期待に沿えるように頑張ります。大晦日の昨日、晴天だというので早起きして千葉の古墳を見てきました。やはり青空を背にした墳丘は格別のものがあります。どことは言いませんがその五日前遠出したのに風雨にたたられ些かがっかりしたばかりだったのでなおさらでした。もちろんさまざまな天候のなか古墳も生き抜いてきたのだということはよくわかっているのですが・・・。引き続き応援よろしくお願いします。

 今回紹介するのは前期古墳と中期古墳の境に位置する雨の宮2号墳です。すでに雨の宮1号墳をご覧になっている方は省略して2号墳そのものの説明におすすみください。金沢から七尾線で1時間40分ほど。今回紹介する前期古墳 雨の宮古墳群のある能登部駅に着きます。能登半島を三分の一ほど北にあがったところといったらイメージがつかめるかもしれません。標高190mほどの眉丈山の尾根に位置する雨の宮1号墳(クリックすれば飛べます)からも今回の2号墳からも、今では農業地帯となった七尾南湾につながる潟湖が見渡すことができたに違いありません。とにかく眺望がすばらしいのです。この立地からみて、当時最も重要だった運送手段である水運を支配した豪族が被葬者であることは十分に想像がつきます。ヤマト王権も、このルートの重要性をよく知り地域の支配者との関係を重視したのでしょう。1号墳から出土した銅鏡、短甲(胴を覆う多数の石釧(石製の腕輪)等の副葬品からもそのようにいえそうです。

 2号墳は1号墳と同規模、65.5mですが最大の違いは形状にあります。2号墳は1号墳が前方後方墳だったのに対して前方後円墳なのです。一般的には前方後円墳のほうが前方後方墳よりも格上だといわれています。ところが前方後方墳の1号墳のほうが高地に造られ7m下の2号墳を見下ろすように造られています。築造時期は1号墳のほうが先だというのですから不思議です。前期から中期初頭の段階ではそれほどの区別はなかったのでしょうか。地域的には日本海側はアップ済みの出雲の四隅突出型墳丘墓(西谷墳丘墓造山1号と3、いずれもクリックすれば飛べます)が典型のように独特な墓制をしいてきたこととも関係があるのでしょうか。

 2号墳の復元は1号墳のように葺石を含め築造当時にできるだけ近づけるという方法ではありません。しかし動画でご覧のように当時の様子を想像するには十分です。残念ながら後円部頂にあるとされる埋葬施設は未調査で出土品を含め不明のようです(撮影20161031日)。
PNG amenomiya2gou zu

  今回の蛭子山古墳は既に紹介した作山古墳群(丹後)(クリックすれば飛べます)の北側に隣接する丹後半島の前方後円墳です。墳長145mはさすがに大きく、国道176号線から一段高い墳丘は古墳に興味のない人々にも、あれはなんだと思うに十分です。前方部端が道路に面しています。それにしても時を置かずして丹後半島に100mを優に超える規模の前方後円墳が三基(網野銚子山、神明山古墳(クリックすれば飛べます)造られていることに驚かざるを得ません。いかに日本海の流通を担っていた豪族たちの権勢が大きかったかがわかります。

二度訪れましたが草刈が見事になされ気持ちのよい墳丘が迎えてくれました。蛭子山1号墳と作山古墳群の1号墳とは築造時期を含め密接な関連があるのではないかといわれています。後円部の埋葬施設は三か所。うち中心の施設からは直葬された船形石棺が発掘され

動画にあるように上屋に展示されています。145mの墳長に対して後円部の径は100m、前方部の幅は68m、高さも前方部が11mと後円部よりも5m低く中期以降に比べ前方部が未発達です。他の前期古墳に比べ遮る木々などがあまりなくその特徴がよくわかります。動画3を是非ご覧ください。

このブログを何度もご覧いただいている方々はよくおわかりのように復元整備された古墳は二つにわけることができるようです。一つは作山古墳群のように埴輪や葺石を含め築造当時に極力近づけた墳丘の整備を行うもの。もう一つは蛭子山古墳のように考古学的な調査は行われているものの墳丘自体は現在まで受け継がれてきた自然の姿を重視したもの。この場合でも雑木の伐採などは行われ見る者に築造時の姿を思い出させてくれます。古墳公園の中には群馬県のかみつけの里の保渡田古墳群の八幡塚古墳二子山のように二つのタイプの復元整備された古墳をみることができるところもあります(クリックすれば飛べます)。アクセスは残念ながらアクセスはよいとはいえず京都丹後鉄道与謝野駅からタクシーを利用するしかありません。10分ほどです(撮影2015129日)。
PNG ebisuyama1gou(tango)

  このブログでは既に40を越える古墳石室を紹介していますが(201612月現在)、石室を覆う盛土が削られ石室がスケルトンのように完全に残っている古墳はありませんでした。似ているものとしては関東の石舞台といわれる埼玉県行田市の八幡山古墳石室(クリックすれば飛べます)がありますが、周辺状況などを考えると八幡山古墳には申し訳ないですが、その差は大きいと思います。そのぐらい驚きは突出しています。とりわけ400mほど南側にある都塚古墳(クリックすれば飛べます)から下ってくる途中で目にする石舞台古墳の巨大さには度肝を抜かれます(動画1でご覧ください)。

特筆すべきことは長さ約19mほどの石室の巨大さもさることながら一辺50mの方墳(前円下方墳の説もあり)が聳えていたことを想像できる飛鳥の丘に囲まれた空間の広がりにあります。あったはずの墳丘周囲には貼石のある周濠がめぐりさらに外堤が囲みます。国の特別史跡に指定されているのも納得です(古墳時代の特別史跡は紹介済みの安倍文殊院西古墳石室、巣山古墳(いずれもクリックすれば飛べます)9件に留まります)。いったいいつ盛り土が削られ石室が裸にされたのか興味深い問題ですが、蘇我馬子ともいわれる古墳の破壊は、蘇我氏に対する懲罰という意味からかなり早い段階で行われたのではないかともいわれていますが専門家の議論にお任せしたいと思います。

肝心の石室ですが77tともいわれる南側の天井の板石の巨大さはいったいなんでしょう。我々が利用している電車車両の重量は33tほどですから、その運搬方法を含め興味は尽きません。巨石を運搬するためのソリ、修羅(地面との摩擦抵抗を減らすための丸太の上に置く)を利用したのでしょうか。5Cに使われていたと考えられる修羅が藤井寺市で発掘され復元保存されていますが、8.8mもあります。動画5の最後に静止画像をつけてあります。石室に使われている石の総重量は2300tと推定。いやはや権力の大きさを改めて思い知らされました。残念ながら石室の中にあるはずの石棺は見出すことはできません。アクセスは近鉄飛鳥駅から奈良交通明日香周遊バスで石舞台下車すぐ。近くの都塚古墳訪問を含め帰路は飛鳥駅まで1時間弱ですから徒歩をお勧めします。(撮影2015212日、20161214日)。




にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

今回は濃尾平野の北西端に位置する岐阜県大野町にある野古墳群から南出口及びモタレ古墳を紹介します。既に南屋敷西登越古墳をアップしています(クリックすれば飛べます)が、500mほどの狭い地域に5C後半から6C初頭にかけて前方後円墳や円墳、方墳が17基造られ、現在は9基が残っています。季節によるとは思いますが、訪れた晩秋は燃えるような真紅の野村モミジから緑の墳丘が覗き、それは美しいの一言でした。とりわけ今回紹介する前方後円墳、南出口古墳は大野町役場から三水川沿いに北にあがってはじめて目にする古墳でとても印象的でした。

中期から後期の前方後円墳というと前方部の発達、とりわけ前方部端の幅が後円部径より大きかったり、前方部の高さも後円部のそれと同じくらい、あるいは越えることも多いが一般的です。既に紹介した古墳動画からもその点が確認できます。ところが野古墳群の前方後円墳は、前方部が発達しておらずまるで前期の古墳のようです。地域的な特色なのでしょうか。また、濃尾平野というと前方後方墳が数多く造られたのではと思われますが野古墳群のような例もあることがわかいました。もっとも野古墳群に先駆けて造られた上磯古墳群(クリックすれば飛べます)には複数の前方後方墳があります。野古墳群の中では登越、モタレが5C央、南屋敷西が5C末、それに今回の南出口が6C初めの順で造られたと考えられています。

 アクセスは大変不便です。岐阜駅から岐阜バス 大野バスセンター行に乗り約1時間。終点で下車、徒歩15分です。本数は現地を見学できる本数は日に3、4本ほどです。事前に十分確認が必要です。バスセンター前には大野町役場があり、その隣には立派な図書館もあります。役場で野古墳群までの地図を貰うとよいでしょう。
PNG nokofungunshuyoukofunichizu



南出口及びモタレ古墳基本データ

所在地 岐阜県大野町

形状 前方後円墳

規模 南出口 墳長75m、後円部径約39m 高さ6.2m、前方部幅約28m 高さ約5m3段築成 モタレ 墳長54m 後円部径41m 高さ6m、前方部不明

築造時期 5C央(南出口)、モタレ(6C初)

出土品 円筒埴輪、獣帯鏡(南出口)、円筒埴輪片(モタレ)

史跡指定 野古墳群として国指定

特記事項 モタレ古墳は現在の形状は円墳にしか見えない


にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

↑このページのトップヘ