古墳を動画で見るサイト guami_38_36のblog

なんでも実際に見てみないと気が済まない私。古代史初学者として3世紀中頃から7世紀初頭にかけて東北から九州まで造られた5200基もの古墳の内、墳丘が残り実際に墳頂まで登れるものを訪ねはじめました。2011年秋のことです。既に先輩方が古墳のブログやHPを立ち上げられて今でも大いに刺激を受けています。ただ、権力者がなぜこれほど大きな構築物を造ったのかに興味がある私には、残念なことに大半の画像が静止画であるためにそのスケール感が伝わってきませんでした。偶然、動画で撮ってみたら案外いける。そんな思いで撮りためた古墳動画を見て頂くことにしました。素人の撮影ですから、古墳マニアや専門家の方々からは厳しいご指摘はあるかと思います。ブログでは基本情報とともに一つの古墳に3-5本程度の動画(各1分以下)を用意しました。この素人の試みが古墳を具体的にイメージする一助となれば幸いです。

■古墳時代の時期区分
 このブログでは古墳時代を広瀬和雄さん(国立歴史民俗博物館名誉教授)が通説として紹介している古墳時代を前期(3C中頃から4C後半頃)、中期(4C末頃から5C後半頃)、後期(5C末頃から7C初め頃)、終末期(7C前半頃から8C初め頃)に区分して捉えています(前方後円墳の時代、岩波新書、2010年)。
■アップの順番
 前期⇒中期⇒後期(終末期)の古墳を一基ずつワンセットにして全国の古墳を網羅することを目指しています。三基の古墳には何ら有機的な関係はありません。一つの地域に集中して前期から終末期まで掘り下げて見るのが一般的ですが、敢えてそうしなかったのは古墳時代の前期、中期、後期に全国でどのような墳墓が築かれたかを知りたいと思ったからです。古墳の築造年代は専門家の間でも様々な意見があり実年代を確定することが如何に困難なことかは承知しています。そのような限界の下でも古墳を横断的にみると今まで見えてこなかったものが見えてきたような気がします。専門分野外の古墳時代に関心を持ちはじめて日も浅い者ならではの冒険です。
■ご覧になる方法
最新記事12件についてはそのまま下にスクロールすれば見れます。各都府県別古墳は右の一覧をクリックしてください。文中にも関連の古墳に直接飛べるようにリンクを貼ってあります。

  今回は奈良県平群町にある終末期古墳西宮(にしのみや)古墳を紹介します。  近鉄奈良線を生駒で乗り換え近鉄生駒線を南に下ると東側には落ち葉色の山々が広がります。冬の景色を楽しみながら7つ目の平群(へぐり)で降りて町役場に急ぎました。西宮古墳の次に訪れる予定の烏土塚(うどづか)古墳石室の鍵を借りるためです。西宮古墳は桜並木の竜田川沿いの道を500mほど歩いた平群神社の奥にありました。住宅の間に田畑が時折のぞく風情ある景色です。

 一辺36mの方墳は動画1でおわかりのように遠目にも古墳だとわかりました。近づくと三段築成の二段目の墳丘に横穴石室の入口らしきものがみえます。この石室はブログ開始間もなく紹介した奈良県明日村の岩屋山古墳(クリックすれば飛べます)、桜井市の安倍文殊院西古墳(クリックすれば飛べます)と並び飛鳥時代に造られた切石の石室では優れたものだそうです。そうした予備知識で入室してみるとうーんと思わず声が出ました。一枚の板石でできた羨道側壁の見事さ。とても1300年前のものとは思えません。おわかりのように羨道幅は狭く、それを遮るかのように盗掘の際に置き去りにされた蓋のないくり抜き式石棺が無造作に置かれています。玄室は奥壁、横壁全て一枚岩。説明板によると石積みの間は漆喰で塗り固められていたようです。また「羨道側石と天井石の前面を墳丘勾配に合わせて加工している」そうですがよくわかりません。築造技術に詳しければと悔やまれます。

 実はこの古墳は貼石(葺石は石を積むイメージに対して、貼り石は文字通り貼る)の残りがよいことで知られていますがうっかりして墳丘後ろに回るのを忘れ見過ごしてしまいました。再度訪問をしないといけません(撮影2017116日)。


西宮古墳基本データ

所在地 奈良県平群町

形状 方墳 三段築成 貼石

規模 一辺36m 

築造時期 7C

出土品 須恵器

史跡指定 奈良県

特記事項 被葬者が聖徳太子の子 山背大兄王子との説がある


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  今回の中期古墳は前期と後期の境目、5C後半から末に造られたと考えられているJR上越線群馬総社駅近くの遠見山古墳です。既に紹介した墳長90mの前方後円墳総社二子山古墳(クリックすれば飛べます)の東500mほどのところにあり墳長は80mを誇ります。1㎞四方にも満たない範囲にある総社古墳群の中では最初に築かれたと考えられています。築造の順は遠見山→王塚(未アップ、予定なし)→二子山→愛宕山→宝塔山→蛇穴山と5C後半から8C初め古墳時代中期から終末期にかけてと考えられているようです。

ようやく見つけた住宅地と田畑に囲まれた墳丘ははじめて訪れた夏は一面藪に覆われて古墳のイメージをつかむのに苦労しました。二回目は晴天に恵まれた初冬。草刈が行われた墳丘に登ると前回と違って後円部径よりも前方部幅が広い中期以降の前方後円墳の特徴がよくあらわれていると思いました。動画2、3から感じて頂けるでしょうか。ただ残念なのは北側にある公民館の敷地が墳丘ぎりぎりまで迫っていて全体像がつかめないこと。墳丘には周濠がめぐり葺石が葺かれていたようです。埋葬施設は総社二子山古墳とは違い竪穴石室であったようですが調査はなされていません。動画1のキャプションでは50㎝後円部が前方部より高いと書きましたが正しくは逆で前方部のほうが高くなっています(失礼しました)。前方部幅も高さも後円部を上回っています。

遠見山古墳のいわれですが江戸時代の慶長9年(1604年)総社城二の丸の物見櫓が墳丘に

建てられた名残りのようです。全国の古墳が後世、城として利用され墳丘が改変された例は数多くあります。眺望が効く、一定の面積が確保できる、古墳築造の際に土木工事が行われている等利用価値があったのでしょう。

アクセスは総社郵便局の裏の道を東に200mほどのところにあります。城山公民館を目指してください(撮影20151217日)。
 総社古墳群は狭い地域に見ごたえのある古墳が並んでいます。是非とも現地を訪問してみてください。築造順にこだわらなければ二子山古墳(以下いずれも古墳名をクリックすれば直接当該古墳に飛べます)、愛宕山宝塔山蛇穴山、遠見山古墳の順になるでしょうか。横穴石室が確認されている古墳は全て入室可能(二子山は二室の内の一つ)という点も見逃せません。もちろん照度の高い懐中電灯をお忘れなく。宝塔山古墳近くに前橋市総社歴史資料館もあります。


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遠見山古墳(総社古墳群基本データ)説明

所在地 群馬県前橋市総社町

形状 前方後円墳

規模 墳長 80m 後円部径41m 高さ5m、前方部幅48m 高さ5.5m

   周濠

築造時期 5C

出土品 円筒埴輪

史跡指定 前橋市

特記事項 後円部に埋葬施設、総社古墳群中最初に築かれたと考えられている


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  ようやく九州は宮崎県の前期古墳を紹介できることになりました。西都市の西都原古墳群の第1回目、13号墳と35号墳です。実は2014年の3月に一度訪れていますが動画撮影をまだはじめていなかったのです。手元にあるのは全て静止画像。今回は満を持して動画をと張り切りすぎたせいでしょうか。あいにくの本降りの雨。それでも歩き始めたら興味深い古墳ばかりで今回も予定の時間までにすべてをまわることはできませんでした。なにしろ前期から終末期まで前方後円墳18基を含む311基もの墳墓が東西2.6㎞南北4.2㎞の広さに築かれているのです。もっとも古墳は均等に並んでいるわけではありません。第一古墳群、第二古墳群、第三古墳群と呼ばれる地域に密集しています。今回の13号と35号墳は第一古墳群に前後に並ぶように築かれています。知っておられる方も多いと思いますが、以下は二基の説明の前に宮崎(日向)の古墳についての予備知識です。

改めて驚かされたのですが宮崎県は天孫降臨の神話の世界は別にしても九州七県の中で福岡県と並びずば抜けて前方後円墳が多く177基も築かれています。しかも九州の中で前期最大、墳長143m3号墳が生目古墳群に(いずれ紹介します)、中期では墳長176.3mの女狭穂塚古墳が西都原古墳群に造られています。古墳時代全体でみても九州で最大です。(このあたりの記述は北郷泰道さんの「西都原古墳群」(同成社、2005)に負っています)。なぜ宮崎(日向)に前方後円墳がそれほど多く、しかも大型なのか興味は尽きません。墳丘の形式や規模が地方の首長とヤマト王権との関係を示しているとすれば、宮崎の在地首長は特別に遇されていたということになります。ヤマト王権にとりなぜそれほど重要だったのかについてのヒントは交易ルートにあるようです。詳しくは北郷さんの本をご覧ください。

肝心の13号墳と35号墳ですが墳長78.5m70mと中規模の大きさの前方後円墳である一方、墳丘は前方部が細く長い柄鏡型でその特徴は動画3の35号墳の後円部からの眺めではっきりと確認できます。13号も同様に柄鏡型で後円部の高さが前方部よりはるかに高いという点も共通しています。前期に特有の墳丘形式です。ただ13号にはあった周濠が後から造られた35号にはありません。動画2で紹介している13号墳後円部の埋葬施設は全国的にみた復元古墳でも珍しいもので貴重です。後期古墳によくみかける横穴石室のように後円部の入口を入ると後円部頂から2mのところで見つかったという人頭大の川原石(礫)で覆われた粘土郭のレプリカを見ることができます。ずいぶん大きく感じました。

アクセスは宮交シティから一日2本出ている西都原考古博物館直行バス(復路も2本)を利用するのが便利です。1時間15分かかります(撮影日2017323日)。
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西都原古墳群(1)13号・35号墳基本データ

所在地 宮崎県西都市

形状 前方後円墳

規模 13号 墳長78.5m 後円部径45m 高さ6.7m、前方部幅26m 高さ4.1m

     三段築成 葺石

     35号 墳長70m 後円部径37m 高さ6.5m、前方部幅20m 高さ3.2m

     葺石 周濠

出土品 35号 三角縁神獣鏡、ひすい勾玉、ガラス小玉、鉄剣、刀子等

13号 方格規矩鏡、碧玉勾玉、管玉、直刀、鉄剣等

築造時期 4C

史跡指定 西都原古墳群として国の特別史跡

特記事項 35号墳は動画で紹介しているように後円部の礫に囲まれた埋葬施設が復元公開されている


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  京都府長岡京市の恵解山(いげのやま)古墳の動画を3本追加しました。ブログをはじめて間もない11回目(201562日)に初秋の墳丘をアップしていますが今回は前回見落としていた東側造出しを含め紹介しています。冬の青空に映える古墳はなかなかのものです。これまでかなりの数の古墳を訪ね歩きましたがこの恵解山古墳は最近の復元ということもあり完成度が高いよいように思われます。墳長128mの前方後円墳を端から端まで築造当時の姿が視野に入るというのはそうそうありません。とりわけ円筒、朝顔、きぬがさの埴輪が立ち並ぶ姿は壮観の一言です。動画撮影位置も含めアップしています。下記の古墳名をクリックしてください。
恵解山古墳

  今回紹介するのは福岡県八女市の標高100mほどの山懐に広がる童男山古墳群に属する2号墳と3号墳です。既に巨大な石室をもつ1号墳は紹介しましたが、今回の2号、3号も負けず劣らず大変規模の大きい石室を有する円墳です。残念ながら羨道部分は削られいますが(特に2号墳)は、それでも九州の石室に多い前室、後室を持つ複式構造の石室は圧巻です。墳丘自身はかなり破壊されて本来の姿をとどめていないようです。2号墳は1号墳と違って後世におかれた石仏がないだけ築造当時の姿をとどめているのではないでしょうか。

3号墳は全ての壁石が一枚の板石で構成されている点が特に印象的です。童男山1号墳(クリックすれば飛べます)と比較してご覧ください。

 先日、古代史の専門家加藤謙吉さんのお話を伺う機会がありましたが、童男山古墳群について大変興味深いことを指摘されていました。八女地域の古墳群は最も西の石人山古墳が最初に、岩戸山古墳、乗場古墳等と続き、最後に最も東に童男山古墳群がほぼ一直線となる丘陵上に造られている。これら岩戸山古墳を中心とした墳墓は磐井の乱で有名な筑紫の君一族及びその前身となる歴代の首長墓と考えてよい。たしかに石人山古墳から岩戸山古墳は歩いても30分ほどですし丘陵上に築かれていることがはっきりわかります。これら二基(いずれアップします)は石製品の彫刻である石人石馬の存在で有名ですが童男山古墳ではみることができません。それに石人山古墳は墳長107m、岩戸山古墳は135mと地域において他を圧した規模ですが童男山古墳は最大の1号墳でも石室は巨大とはいえ墳丘は45mの前方後円墳より格下の円墳です。筑紫一族の栄枯盛衰を物語るかのようです。アクセスはJR鹿児島本線羽犬塚(はいぬづか)から堀川バス 矢部 星野行きで30分。 上山内バス停から徒歩10分。交差点角に北向きに登る道があります。看板もあるのでわかりやすいと思います(20161026日)。PNG dounannzan 1&2&3 zu



童男山23号墳基本データ

所在地 福岡県八女市

形状 2号 円墳 複式横穴式石室 石棚 石棺

    3号 円墳 複式横穴式石室 石屋形

規模 2号径22m 317m

出土品 不明

築造時期 6C央から後

史跡指定 なし

特記事項 八女市教育委員会によれば1号墳以外は委員会としての調査は行われていないとのこと。そのため石室規模など基本情報は不明。



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  今回紹介する後期古墳の平林古墳は墳長55mの前方後円墳です。近鉄南大阪線の当麻寺駅から歩いても30分ほどだと思います。この古墳を動画で見るサイトの原則は徒歩なのですが、二塚古墳(いずれアップする変わった石室のある古墳)も見て東京に戻るとなると今回はタクシーを使うしかありませんでした。ところが迎えに来てくれたタクシーが応援に駆り出されたとかで二塚古墳も平林古墳も行ったことがないというのです。少々ショックでした。結局、メーターはあがるばかり。まあ、こういうこともあるかなと気を取り直して二塚古墳から平林古墳へ。ようやく着いた平林古墳は動画でおわかりのように二上山の東につらなる丘の先端に築かれていました。草刈がよくできた墳頂上からは古代には沼地であったであろう大和の平野が広がります。開発が進み墳丘裾部分は削られていますが前方部のほうが後円部寄りも高く後期古墳であることがわかります。他方説明板の測量図によれば前方部幅が35mと後円部径よりも10mも広いのですが、現在の墳丘からはその広がりが十分には確認できませんでした。

 この古墳の一番の目玉は後円部の東寄りの南に開口する横穴石室です。残念ですが石室内は立ち入り禁止です。代わりに古墳入口にある鉄柵に来訪者が近づくと中がライトアップされ中が覗けるようになっています。全く見ることができないよりはよほどましですが長さ5.7mもある玄室を実感するにはやはり中に入れないと・・・。とりわけ羨道よりも高さが1.8m高い玄室は鉄柵越しでは実感できません。このあたりは葛城市の配慮があればと誰しも思うに違いありません。羨道には追葬された被葬者の石棺が置かれていたようで底石だけ残っています(囲いがしてあるところ)。もっとも問題なのは動画1でちらりと見える入口の要塞と見まごうばかりのコンクリートの壁です。復元整備したのがだいぶ昔だったのでしょうか。土木工事も今では疑似自然工法が取り入れられているのですが・・・(撮影日20161214日)。訂正 動画1 北東→南東 東→南。
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平林古墳基本データ

所在地 奈良県葛城市兵家

形状 前方後円墳

規模 墳長 55m、後円部径25m 高さ4.9m、前方部幅35m  高さ5.1m

築造時期 6C

出土品 直刀、鉄鏃等鉄製品、馬具一式、金環、玉、画文四仏四獣鏡、須恵器、土師器

史跡指定 府指定

特記事項 石室データ 両袖型横穴式石室 玄室長5.7m 幅3.3m高さ3.8m、羨道長8.8m、
1.9m 高さ2m、羨道に石棺底石だけ残されている。同地域では先行して二塚古墳が築かれている。



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  古市古墳群の5回目。紹介する墓山古墳及び野中古墳と向墓山古墳の二基の陪塚はこれまで何度か訪れたもののタイミングが悪く墳丘が雑木林や雑草に覆われてよく見えませんでした。陪塚とは大型古墳に近接して位置する小型墳で、内容、規模などから大型墳との密接な関係(たとえば主従)が考えられるものです。今回はようやく宮内庁管理(墳丘のみ)の墓山古墳を含め多少はましな動画が撮れたように思えます。それにしても墳長が225mもある墓山古墳の南側の墳形に沿って現代の墓地が広がっている光景を眺めていると不思議な感覚に襲われます。古代と現代の共存でしょうか。後円部墳頂からは首長級の埋葬に用いられる長持形石棺が出土したという報告があるそうですから、巨大さの理由もわかります。雑木が部分的に伐採された今回の訪問ではおぼろげながら墳丘のスケールも分かりました。動画1である程度伝わったとすれば嬉しいのですが。

 動画2で紹介している墓山古墳の陪塚と考えられている野中古墳は短甲11(1領だけでも貴重との専門家の指摘)、兜11刀剣169など多くの武器武具はじめ出土したことで有名です。重要文化財に指定されたこれらの出土品は発掘調査にあたった大阪大学が保管しています(レプリカが藤井寺市のシュラホールで見られます)。陪塚の中規模の方墳にそれだけの副葬品が葬られていたことからしても主墳の墓山古墳の被葬者のランクの高さがうかがえます。時期から考えれば朝鮮半島で南下する高句麗に対抗する百済支援にまわった倭の有力者の一人なのでしょうか。

 動画3の墓山古墳の陪塚の一つと考えられている向墓山古墳はフェンスに囲まれた一辺68m、高さ10mもある大型の方墳です。残念ながら周囲の状況から俯瞰することができず全体像をつかむことができません。説明板によれば墳丘はよく残されているというのですが崩れた山のようにもみえます。隣接して羽曳野市のガイダンス施設があり古市古墳群出土の埴輪などが展示されています。この大きさをイメージして頂くためにほぼ同規模の一辺65mの滋賀県東近江市の天乞山古墳(クリックすれば飛べます)、一回り大きい一辺78mの千葉県成田市の龍角寺岩屋古墳(クリックすれば飛べます)を是非ご覧ください。向墓山古墳も築造当時はこのような姿だったのでしょうか。アクセスは近鉄南大阪線の古市駅から北に徒歩で15分。羽曳野市役所の西側裏にあります。なお墓山古墳と向墓山古墳は羽曳野市、野中古墳は藤井寺市にあります。なおこれまでアップした古市古墳群の各古墳は以下のとおりです。合わせてご覧ください。群中で墳丘に登れる数少ない古墳古室山大鳥塚の両古墳(それぞれクリックすれば飛べます)。白鳥、清寧陵(一度に紹介しています。クリックすれば飛べます)。はざみ山・野中宮山(一度に紹介しています。クリックすれば飛べます)(撮影日2016926日、2017220日)。
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墓山・野中古墳他 (古市古墳群)基本データ 

所在地 墓山、向墓山古墳 大阪府羽曳野市、野中古墳 藤井寺市

形状 墓山 前方後円墳、向墓山 野中 方墳

規模 墓山 墳長225m、後円部径135m 高さ約21m、前方部幅153m 高さ約19m

三段築成、向墓山 一辺68m 高さ10m 二段築成、野中 一辺37m 高さ4m 二段築成

築造時期 墓山、向墓山古墳 5C前半、野中古墳 5C

出土品 墓山 玉類、形象埴輪、向墓山 埴輪、野中 兜、刀剣類、鉄てい等 

史跡指定 野中古墳 国指定

特記事項 なし



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  JR東海道線の磐田駅から二俣山東行きの遠鉄バスに乗ると暫くして右手(東側)にかなりの標高がありそうな台地が続きます。左手7-800mには天竜川が流れているはずです。もしあの台地の頂上に銚子塚古墳が築かれているなら「見せる」という点で最高の立地だと思いながら寺田下で下車。雑木林のなか台地上に続く道を歩くこと15分ほどで静岡県の寺谷浄水場の建物が見えました。事前の調べではこの浄水場の北側に古墳はあるはずです。見渡すと銚子塚古墳への方向を示す矢印がみえました。ラッキーです。実はありそうで案外ないのが古墳までの標識なのです。

 目指す寺谷銚子塚古墳は木漏れ日が降り注ぐ雑木林に墳長104mの墳丘を横たえていました。前方部が細く長く続いていることが一目みてわかります。ところが墳丘から離れての全体像は残念ながらとれませんでした。隣地との距離がとれないのです。おまけに太陽光が強すぎて後円部が飛び動画ではこの素晴らしさが伝えきれていません。もちろんこれは古墳の責任ではありません。墳丘はよく残っています。とりわけ前期の前方部に多い先端まで細く長い柄鏡型の特徴が現在でもよくわかります。後円部の埋葬施設からは三角縁神獣鏡が明治13年に出土していることを考えればヤマト王権との関係が密だったのでしょう。後円部周囲には幅10mほどの(動画1の最後で歩いているところ)濠が巡っていました。西側には動画4で紹介している墳長46mの小銚子塚古墳があります。県下で五例しかない(動画では四になっていますが誤りです)前方後方墳です。アクセスは冒頭に書いたとおりです。同じ頃にやはり三角縁神獣鏡が出土した別の銚子塚古墳が築かれています。甲斐銚子塚古墳です(クリックすれば飛べます)。墳長も170mほどあります。比較してご覧ください。(撮影2017126日)。

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寺谷銚子塚古墳基本データ

所在地 静岡県磐田市岩谷

形状 (銚子塚)前方後円墳、(子銚子塚)前方後方墳

規模 (銚子塚)墳長墳長 108m 後円部径58m 高さ8.5m、前方部幅25m 高さ4.5m

(子銚子塚)墳長46m 後方部 一辺30m 高さ5.0m、前方部幅20m(?) 高さ2.7m

築造時期 4C-

出土品 三角縁神獣鏡、巴形銅器、銅鏃

史跡指定 国指定

特記事項 銚子塚は静岡県で三番目の大きさの前方後円墳


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  今回紹介する東京都で唯一築造当時の横穴石室が残る浅間様古墳。調べてみると既に紹介した宝莱山古墳(クリックすれば飛べます)と野毛大塚古墳(クリックすれば飛べます)とともに荏原台古墳群に属していました。多摩川沿いに走る武蔵野台地の南端に位置します。専門的には江原台古墳群は東側の田園調布古墳群と西側の野毛古墳群にわかれますが、2㎞ほどの多摩川沿いの台地に築かれた古墳群です。浅間様古墳は田園調布古墳群にあります。すでに宝莱山古墳のところで触れたようにまさか中学時代から通いなれた東急沿線沿いに古墳が存在するとは考えてもみませんでした。

宝莱山が4C前半に、後半にはいずれ紹介しなければならない大型前方後円墳の亀甲山古墳(鬱蒼とした雑木林が墳丘を覆っておりわかりにくい)が造られ、4C末には中型の円墳もみられたそうです。他方、野毛古墳群では5Cになると都内で唯一の本格的復元古墳、大型の帆立貝型前方後円墳である野毛大塚古墳が造られ、八幡塚古墳、御嶽山古墳など多数の中型の円墳ないし帆立貝形古墳の築造が続きます(一部を除き消滅)。この時期には田園調布地域には古墳の築造は見られません。ところが5C末には田園調布地域に古墳築造がもどり、多摩川駅から至近の距離に前方後円墳の浅間神社古墳が造られ、6Cから7Cごろにかけて宝莱山古墳と亀甲山古墳の間に今も整備されて見学可能な径15mほどの八基の円墳や消滅した前方後円墳が造られます。こうした古墳の立地の移動は多摩川流域の支配者が変動したということなのでしょうか。

このあたりのことにご関心のある方は大田区の「古墳ガイドブック」(2008)やネットで検索可能な「大田区遺跡一覧」でご覧ください。肝心の浅間様古墳は動画でご覧いただけるように小ぶりながら見事な石室です。墳丘は削られてしまっていますが残された明治時代のスケッチでは円墳になっています。ガイドブックの説明は各面を平らに加工した切石を積む構築工法は新しい技術でこの古墳が造られたのは荏原台古墳群の中で最も遅い時期に築造されたことを示しているとしています。玄室の長さは2m、奥壁の幅は1.38m、玄門の幅は0.65m、羨道の長さは1.8mです。同じ頃に築造された神奈川県の加瀬台3号墳(以下いずれもクリックすれば飛べます)、群馬県の宝塔山古墳蛇穴山古墳、さらには趣の異なる当麻谷原3号墳の横穴石室と比較してご覧ください(撮影2016107日)。

  九州とりわけ福岡、熊本両県では線刻模様や色彩を伴う幾何学的な模様が描かれている古墳石室が多いことが知られています。高松塚古墳のような写実的な壁画ではありませんが、なぜ、この地域には多いのかまだわからないところが多いようです。遠く離れた茨城県や福島県にも線刻壁画が集中していることも謎を深めます(ご関心のある方は大塚初重さんの「装飾古墳の世界を探る」祥伝社、2014をご覧ください)。それはともかく九州の装飾壁画は春、夏二回一般公開されているところが多く、我々も見学できます。ただ、撮影はできません。熊本県山鹿市のチブサン古墳(墳丘はいずれアップ)のように一日二回公開しているところでも残念ながら見学のみです。そうしたなか今回の浦山古墳のように常時公開(成田山新勝寺久留米分院の本殿で鍵を借りる)され、撮影可能というところもあります。

 久留米駅から岩戸山古墳(いずれアップ)に向かうバスの車窓左手を眺めていたら巨大な慈母観音が目に入ってきました。なんと60mもあるそうです。浦山古墳はこの成田山新勝寺久留米分院の本殿裏に眠っています。社務所で鍵を借りて墳頂に登ると動画1にあるコンクリート製の上屋が見えてきました。おそらく今であればもっと周囲と調和した建物を造るのでしょうが見学できるだけでもラッキーと思わなくてはいけません。

 そのとおりでした。見事です。上屋の中に入ると横穴石室の玄室部分の天井石を半分よけた状態で家形石棺が置かれていました。覗き込む感じになります。石棺の蓋の短辺には木の葉の模様が描かれていてしばし見とれました。体をかがめて玄室の床まで下りて内部をみていると横壁、正面の壁ともに幾何的模様が規則的に描かれていていることがわかりました。あとで調べてみると上下段は直弧文帯、中段は重圏文帯というのだそうです。蓋の裏側には朱がはっきりと残っていることが見て取れます。石室ではなく石棺内部への装飾。実に凝っています。

 それにしてもよくわからないのはどちらに開口した横穴石室なのかという点です。現在玄室の四方は動画3で見るように壁なので羨道の方向もわかりません。教育委員会に聞くと墳丘についての調査は行ったことがないのでよくわからないという一方、文化庁の文化遺産オンラインには北西に開口しているとありました。しかし現地では実感できませんでした。なにしろ玄室のみがまるで竪穴石室かのように開いているだけですので。

 アクセスは前述のように久留米駅から西鉄バスで八女方面行きに乗り二軒茶屋で下車。慈母観音を目指します。バスの本数は結構あります(撮影日20161025日)。


浦山古墳基本データ

所在地 福岡県久留米市上津町

形状 前方後円墳(帆立貝型)

規模 墳長約88m(現地説明版は60m)、後円径約64m 高さ8m、前方幅20m、高約4m
葺石あり

築造時期 5C

史跡指定 国指定

特記事項 横穴石室玄室 長さ2.8m、幅1.5m、高さ2m、横口式家形石棺1.86m・高1m・幅0.8m、現状の墳丘は雑木林のためによくわからない


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